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 SINCE 2011年9月25日
       

パラオ共和国の概要


1.パラオ諸島の地理

     
 位置  北緯3〜8度,東経134度付近にある大小300以上の島からなる諸島国家である.日本のほぼ真南3000kmにあり,フィリピンのミンダナオ島の東,グアム・サイパンなどのマリアナ諸島の南西に位置する.  
 気候  全域が熱帯性気候(Af)に属しており平均気温は年中28℃とほぼ一定である.しかし降水量については,11月から4月までの乾季と5月から10月までの雨季に分かれており,乾季の月降水量は200mm程度と雨季の1/2〜2/3程度になる(雨季の降水量は300〜400mm).  
 人口  パラオ共和国全体で人口は約20,000人であり,その大部分はコロール島周辺に住んでいる.  
 政治  任期4年の大統領を元首にする共和制である.議会はアメリカと同様,上下2院制を採用している.独立国ではあるが,国防など軍事面ではアメリカの保護下にある.首都はコロールであったが,2006年10月にバベルダオブ島のマルキョクに移った.
 
 通貨  米ドルを採用している.  
 主要な島    

T.コロール島
 パラオ諸島の中で古くから最も開けてきた島.日本統治時代にコロールに市街地が形成された.商店や飲食店,ホテルなども多くはこのコロール島にある.北のバベルダオブ島との間にはニューKBブリッジ,マラカル島との間にはミナトバシ,アラカベサン島との間には欄干のない土手のような日本橋(夜間など,時々地元の車が海に転落するそうです)で結ばれている.

U.バベルダオブ島
コロール島の北にあるパラオ最大の島.パラオ本島とも呼ばれる.面積は332km2とミクロネシアで2番目である.2006年10月から新首都”マルキョク”がこの島の東海岸に置かれた.
しかし人口は3500人程度に過ぎず,道路などのインフラ整備も始まったばかりである.観光地としては北部にあるガラスマオの滝やバドルルアウ遺跡などがある.パラオ国際空港はこの島の南端にある.

V.アラカベサン島
 コロール島の北西にある.コロールから欄干のない長い橋(日本橋)を渡るとすぐに大統領府や日本大使館がある.またこの島の西岸にはパラオ随一のリゾートホテル,パラオ・パシフィック・リゾートがある.

W.マラカル島
 コロールの西に位置する小さな島.この島にもホテルやダイビングショップなどが結構あります(2005年にオープンしたパラオ・ロイヤル・リゾートはこの島にあります).

X.ロックアイランド
 コロール島とペリリュー島の間に広がる大小の島からなる一帯.マリンスポーツのメッカとしてあまりにも有名.ジェリーフィッシュ(小型のクラゲ)で有名な湖のあるマカラカル島のように大きな島もあるが,大部分はマシュマロ形をした小さな島である(その景色は何となく松島に似ている).ここの観光にはロックアイランド入場許可証が必要.この中にあるガルメアウス島はロックアイランドで唯一煮炊きができ,トイレもあるため観光の拠点島となっている.またプロレスラー アントニオ猪木氏のプライベートアイランドであるイノキ・アイランドもある.

Y.セブンティ・アイランド
 ロックアイランドを紹介する写真に必ず出てくるのが,このセブンティ・アイランドの空中写真である.とはいえ野生生物保護区になっているため一般人の上陸はできず,民間のセスナ機で上空から観光するのみである.

Z.カープ島
 パラオを訪れるダイバー憧れの島である.宿泊施設もある(カープ島の由来は,この宿泊所のオーナーが広島カープのファンだからというウワサ).

[.ペリリュー島
 ロックアイランドの南に位置する.太平洋戦争の激戦地になった島である.島全体が戦跡といえる.

\.アンガウル島
 ペリリュー島の更に南西に位置する.戦前にはリン鉱石の採掘で賑わった.ペリリューと同じく戦場になった島である(ゴルゴ13にこの島を扱った作品があった).

].カヤンゲル島
 バベルダオブ島からさらに船で1時間ほど北に向かった先にある環礁.海とビーチの美しさはパラオ随一といわれている.一部外洋を航行しなければならないこともあって,長らく一般観光客の訪問は困難だったが,2010年代になってツアーが開催されるようになった.


2.パラオの歴史

 パラオ諸島にいつから人が住み着いたのかについては,記録がないためよくわかっていない.しかし紀元前にインドネシア方面から渡って来た人々が住み着いたのが始まりではないかと考えられている.
 パラオ人が始めて接触した外国人はイギリス人で,有名なキャプテン・ドレイクが1579年に訪れたという.しかし交易が本格化したのは,1783年にイギリス船アンテロープ号がアラカベサン島沖で座礁した際,島民が船員を救助したのがきっかけという.その後イギリス人,スペイン人などがやって来て交易を行うようになった.尚1820年には今の岩手県三陸海岸の船「神社丸」が,房総半島沖で難破し1821年乗組員12人がパラオに漂着した記録が残っている.19世紀後半になると欧米列強による帝国主義の波は太平洋諸島にもおよび,1885年にパラオ諸島はスペインの植民地となった.スペインによる統治は宣教師を派遣する程度で,開発等は行われなかった.1898年の米西戦争でスペインは敗れ,フィリピンをアメリカに割譲したことから,パラオをスペインが領有する意味がなくなったため,翌1899年パラオはドイツに売却され,このときからドイツによる支配が始まった.ドイツはパラオの開発にも取り組み,1909年にはアンガウル島でリン鉱石の採掘が始まった.
 1914年に第1次世界大戦が始まると,日本は日英同盟(当時の日本はイギリスと同盟関係にあった)を理由にドイツに宣戦し,太平洋および中国のドイツの拠点に軍を派遣しこれを占領した.1919年のパリ講和会議の結果,赤道以北のドイツ領は全て日本の委任統治領となり,この時からパラオは日本領となった.日本もパラオの開発に力を入れ,多くの日本人がパラオに渡った.1920年代には新たに日本領となった南洋諸島を管轄する南洋庁が設置された.その本庁はコロール島に置かれたため,コロールには近代的な街並みが建設された.それと同時に学校も建設され,移住した日本人は勿論,パラオ人に対しても日本語による教育が行われた.
 1941年に太平洋戦争が始まると,パラオは海軍の重要な拠点となり,南部のペリリュー島には大きな航空機基地も築かれた.1944年9月〜11月には諸島南部のペリリュー島,アンガウル島で激しい戦いが行われたが,コロールなど北部の島々では地上戦が行われることはなかった.
 1945年日本の敗戦後,パラオはアメリカの信託統治下に置かれた(1947年).アメリカによるパラオ統治は財政援助が主体で,産業の開発等には力を入れなかったようである.冷戦時代には軍事拠点としての役割が求められていたのであろう.しかし1960年代からパラオでも独立の気運が盛り上がってきた.軍事的権益を残したいアメリカと完全独立を目指す住民側との交渉は難航し,当初ミクロネシア全体での独立を目指していたものの,1978年にはパラオは独自の道を歩むことを決めた.1981年にパラオ憲法(世界初の非核をうたった憲法である)を制定し,自治政府が発足した(初代大統領ハルオ・レメリク).1982年にはアメリカとの自由連合協定が結ばれたが,アメリカの軍事戦略とパラオの非核憲法との整合性がとれず,結局1993年に憲法の非核条項を凍結する案が住民投票で可決され.こうして1994年に正式に独立(大統領はクニオ・ナカムラ)し,同年国連にも加盟したのである.
 



 

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