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第1回パラオ旅行記(5)


2005年2月15日(火)


パラオ最終日,ぺリリュー島へ

 さて,いよいよパラオ最終日である.この日はかねてから,是非この目で見てみたいと思っていた太平洋戦争における激戦地,ぺリリュー島を訪ねるツアーに参加する予定である.戦史マニアの私にとっては,はずせない見どころであるが,今回のツアーは参加者が私とKだけという,まさに貸切状態のツアーであった.前日の記事にもあるように,本来3人からのツアーであるが,どうしても参加したいあまりに3人分の料金を払ったのである.もっとも,大人数でワイワイ行くという性質のツアーでもないので,まあ仕方がないであろう.
  まずは朝食をとり,身支度をしてホテルのロビーに集合である.

ペリリュー島全体図です
 
その後ホテルから車に乗り,ほかのツアー客と一緒に一度コロールの港へと向かう.この港の桟橋からそれぞれのコースに分かれて船で出発……という手はずであるが,ここで私は,どうやらホテルのロビーにカメラを置き忘れてしまったらしいことに気がついた.一時は使い捨てカメラを購入することも考えたが,すぐにガイドさんに事情を話すと,そのまま我々が乗るボートでPPRの桟橋へと向かって,カメラを取りに行く時間を設けてくれることになった(ああ,貸切状態のツアーはこういう点が融通が利いて助かるなあ).   
 ぺリリュー島はパラオ諸島の南部に位置し,丁度ロックアイランドとアンガウル島の間にある島である.パラオは戦前の日本の南洋経営の拠点(南洋諸島を統括する行政府として南洋庁があり,その本庁がコロールに置かれた)である.また大戦中には日本海軍の拠点も置かれていた.特に昭和19年春以降,中部太平洋の戦況が悪化すると,連合艦隊はトラック島からパラオに拠点を移している.一方,昭和19年夏にマリアナ諸島(サイパン島,グァム島など)を攻略したアメリカ軍は,次のフィリピン奪回作戦に向けて,日本海軍の拠点パラオを攻略する必要に迫られた(マリアナ諸島からフィリピンに向かうと丁度パラオに当たる).当初は大兵力による攻略戦も研究されたようだが,日本海軍の拠点が築かれているパラオ本島(コロール島)の攻略には,きわめて多くの人的損害が予想されたため,コロール島は空爆と港湾封鎖(機雷等による)による制海,制空権の確保にとどめ,パラオ南部のぺリリュー,アンガウル両島のみを攻略する作戦に切り替えた(特にぺリリュー島は日本海軍の大航空基地があり,どうしても押さえておく必要があった).こうして昭和19年9月15日アメリカ軍は第1海兵師団を主力に44000人の大兵力で攻略を開始したのである.対する日本軍守備隊は中川州男大佐を指揮官とする約10000人,第14師団の歩兵第2連隊(水戸編成)を主力としていた.ニミッツ元帥(アメリカ太平洋艦隊の最高司令官,日本の連合艦隊で言えば山本五十六に当たる人物)は当初,ぺリリュー島攻略について,日本軍の抵抗は強いだろうが3日あれば占領できると考えていた.しかし,中川大佐以下日本軍守備隊は洞窟陣地に拠って知略闘魂の限りを尽くして立ち向かい,実に2ヶ月を越える激闘を展開し,米軍に約10000人もの損害を強要し,11月24日有名な「サクラ,サクラ」の電文を最後に玉砕したのであった.戦後ニミッツは「ぺリリューの複雑極まる防備に打ち勝つには,米国の歴史における他のどんな上陸戦にも見られない最高の損害比率(約40%の損害=米海兵師団の第1連隊を全滅させた)を出した.すでに制空制海権をとっていた米軍が,死傷者あわせて10000人を超える犠牲者を出して,この島を占領したことは,今もって疑問である」と回想している.事実このぺリリューの戦いは後の硫黄島の戦いと並ぶアメリカ海兵隊苦戦の記録として名高い.現在はのどかな生活が営まれている静かな島であるが,それでも各所に沢山の戦闘の傷跡が残されている.我々がこれから上陸しようとしているぺリリュー島とは,そういうところなのである.

北の波止場に上陸します

日本軍の拠点だった洞窟です

一斗缶を加工した竃でしょうか

昔の瓶が散乱しています

戦没者慰霊碑です

砲兵隊の慰霊碑のようです
 


鎮魂の島

 コロール島からロックアイランドを通って,ぺリリュー島まで約1時間の行程である.我々は現地旅行会社ロックアイランド・ツアー・カンパニー(RITC社)の日本人ガイドとともにぺリリュー島の波止場に上陸した.ぺリリュー島は現在人口600〜700人程度.コロールのような喧騒はなく,ひっそりとしている.波止場で現地人ガイドと合流し,車に乗る,まずは波止場近くのMAYUMI INN(マユミ・イン)という宿泊所でトイレ休憩をする(要するに,この先トイレはないぞということらしい).ちなみにここでは手作りの揚げ菓子(ココナッツ味のドーナツみたいなもの)をご馳走になった.
  マユミ・インを出発して早速島内の散策開始である.まずは現地人ガイドの案内で近くの洞窟に向かう.ここは日本軍守備隊が拠点としていたらしい洞窟で,今でも当時の遺物が出てくるところだという.洞窟内に入るとややヒンヤリとしている.中には当時のものと思われる瓶(褐色や緑色のもの)や一斗缶を加工したかまどのようなものが散らばっていた.現地ガイドの話によると,今でも時々遺骨が出てくることがあるという.戦後60年を経た現在でも,遺骨収集は終わっていないのである.
  洞窟から外に出ると,真夏の太陽が照り付けてくる(今は2月で日本は真冬のはずだが,ほぼ赤道付近のパラオは常夏である).地面からの照り返しも強烈でうだるような暑さであった.洞窟に続いて戦没者慰霊碑を訪ねた.ここは地元の墓地と同じ敷地内にある.ここには様々な慰霊碑が建っていた.ところで,以前のガイドブックにはぺリリュー島には元海軍の軍人で中川束(つかね)さんという方が,「大東亜戦争で犠牲になった人々の慰霊のために半生を捧げたい」と1992年から現地に住み,訪れる日本人旅行者のガイドをされているとの記述があったが(”地球の歩き方リゾート パラオ”の旧版にもその記載があった),中川さんは残念ながら2004年に亡くなられたとのことであった(慰霊碑の近くに中川さんのお墓もありました.沢山の御花が添えられていて,生前のお人柄が偲ばれるようでした).

  慰霊碑を訪ねた後,しばらく車で島内を走り,各所に残された戦跡を巡った.途中には日本陸軍の九五式軽戦車の残骸や,米軍のLVT(敵前への強襲上陸戦に用いられる水陸両用戦闘車両)の残骸,墜落した零式艦上戦闘機,朽ち果てた大砲などがあった.その後内陸に入り,今も残っている日本軍の施設を訪ねた.ここは旧海軍の司令部跡で,当時激しい攻撃を受けたものの,かなり造りが頑丈だったようで,主要な骨組みはいまだに残っている建物であった.中に入ってみると当時

九五式軽戦車の残骸(1944年9月の米軍上陸直後の戦闘で破壊されたようです)

これが在りし日の九五式軽戦車です.故障が少なく戦車兵の評判はよかったようです

日本軍の大砲です.うまく遮蔽され,破壊されずに最後まで残ったようです

こちらは米軍のLVTです.九五式とは比較にならないくらい程の大きさです

日本海軍の司令部跡です.さすがにかなり頑丈な造りです
 
の構造物が意外に残っている.階段やトイレなどもはっきりとわかるのだった.
  しばらくこの司令部跡を探索しているうちにお昼になった.ガイドの話ではこの後,島南部のぺリリュー平和公園に行って昼食にするとのことであった.
 

内部は意外と当時の形を留めていました

戦争博物館にあった陸軍の九ニ式重機関銃です

当時使われた飯ごう等です.穴は銃弾の跡でしょうか
 
 
 


ペリリュー平和公園

 平和公園は島の最南端に突き出た半島(オムルウム岬)にあった.さすがに公園だけあって,ここにはベンチなどの休むところがあり,小奇麗に整備されていた.ここで我々は支給されたお弁当をいただいた(弁当はコロール島の有名な和食屋さん,どらごん亭の幕の内弁当でした).食後少し時間があったため公園内を散策した.ここは島の最南端にあり,海の向こうにはアンガウル島が見えた(ここもぺリリュー島と同様玉砕の島である).岬の先端は岩場になっており打ち寄せる波がしぶきをあげていた.周りには波の音の他,何も音はなかった.今,このぺリリュー島は平和な時を刻んでいるが,今から60年前には,実際にこの島で想像を絶するような激しい戦いが行われ,多くの人々の命が失われたのである.私はこの事実に思いをはせて胸が熱くなるのを感じた.
 しばらく休んだ後,ガイドに促されて公園を後にした.午後は再び島内を探索する.パラオは旧日本領であり,戦前にはぺリリュー島にも神社が置かれていた.戦争によってこれら神社は焼け落ちてしまったが,戦後再建されたものもある.ここぺリリュー神社もそうであった.再建されたぺリリュー神社には岐阜県から贈られた「さざれ石」が祭られている.さらに境内にはアメリカ太平洋艦隊司令官ニミッツ元帥によるとされる詩文が彫られた碑文も設置されていた.その詩文は以下のようなものである.


TOURISTS FROM EVERY COUNTRY WHO VISIT THIS ISLAND SHOULD BE TOLD HOW COURAGEOUS AND PATRIOTIC WERE THE JAPANESE SOLDIERS WHO ALL DIED DEFENDING THIS ISLAND.  PACIFIC FLEET COMMANDER IN CHIEF (USA) C. W. NIMITZ

 (諸国から訪れる旅人たちよ,この島を守るために日本軍兵士が いかに勇敢な愛国心を持って戦い,そして玉砕したかを伝えられよ 米国太平洋艦隊司令長官 C. W. ニミッツ)

オレンジビーチに立つ我々.ここは米軍が最初に上陸を試みた場所です(日本軍の猛反撃で一度は撃退されたそうです)

平和公園のあるオムルウム岬に打ち寄せる強い波

これはドライブの途中で見つけた,珍しいバナナの花です

ここが神社です.真ん中にあるのがニミッツの碑文です
 


日本軍守備隊司令部跡

 その後我々は島の中心部の山の上(大山)にある日本軍守備隊の司令部跡を訪ねた.当時,島で最も高い山のうっそうとしたジャングルの中にある洞窟に司令部が置かれていたのだった.昭和19年11月下旬,2ヶ月以上にわたる連日の激戦で日本軍守備隊は100名以下に激減していた.この頃になると大山一帯に対する米軍の包囲網が徐々に狭まり,外部との連絡は全く不可能となり,水,食料,弾薬も枯渇していた.11月24日午前8時,中川州男大佐はコロール島の第14師団司令部に以下のように打電した.
  「一,軍旗ヲ完全ニ処置シ奉レリ ニ,機秘密書類ハ異状ナク処理セリ」
 そして,同日午後4時コロールの師団司令部はぺリリュー島からの最後の通信を受電した.文面は「サクラ,サクラ」であった.この日の夕方指揮官の中川大佐と村井少将(師団からの派遣参謀)以下は自決したのだった.
 我々は途中で車を降りて司令部跡に向かった.洞窟の近くには「鎮魂」と彫られた石碑が建っていた(石碑の土台には「終焉の地」と書かれたプレートもあった).周囲には手榴弾や5発セットの小銃用の実包(三八式なのか九九式なのかは不明),砲弾の薬莢,さらには水筒や飯ごう等が散乱しており,雑然とした雰囲気を醸し出していた.一方,すぐ近くにあった司令部跡の洞窟は入り口は小さいものの,中は相当に広い様子であった.
 司令部の洞窟を訪問した後,我々は大山の頂上にある展望台に向かった.ここは戦後アメリカによって整備された場所で,展望台と米軍の慰霊碑がひっそりと建っていた.ここからはまさに,島中はおろか,隣のアンガウル島も見えるほどの展望であった.あらためて見渡したが,全島ジャングルに覆われ,はるか向こうには美しいリーフが広がっている.昭和19年のペリリュー島の戦いの際には,激しい艦砲射撃や空爆でこの島の木々はほとんど焼けてしまったそうであるが,今では熱帯の木々が青々と茂り,島は何もなかったかのような静寂に包まれていた.

中川州男大佐の司令部があった洞窟の入り口です


終焉の地の碑です.小銃の実包,手榴弾もありました


大山の山頂にある展望台にて


この展望台からは,島全体やリーフが一望できます
 


島を後にする,そして帰国へ

 展望台の見学を終えて我々は下山した.この島の見学も終わりである.再び車に乗って,最初にやって来た北の波止場に帰る.そこでお世話になった現地人ガイドと別れ,一緒にやって来たRITC社の日本人ガイドとともに船に乗り込んだ.船は桟橋を離れて一路コロールにと向かう.途中ロックアイランドを通過するのだが,ふとガイドが島影を指差した.「実はここにも戦跡があるんですよ.」指された方を見ると,島の断崖に横穴があいており,そこから錆びた砲身が顔を覗かせているではないか.旧軍の大砲であることは明らかであった.ロックアイランドは昨日も来たはずなのに全く気がつかなかった.あらためて,パラオは全域が戦跡であることに気づいたのである.
 ツアーからホテルに戻った我々は,しばらく部屋で休んだ後,ホテルのビーチでシュノーケリングを楽しんだ.夕方になったため夕食にする.この日はホテルのレストラン(ココナッツ・テラス)でワインを傾けながら,パラオ最後の夕食を楽しんだ.
 夕食後部屋に戻り,荷物整理をして少し休んでいるうちに出発の時間がやって来た.パラオ発着の飛行機は日航のチャーター便にしろ,コンチネンタル航空の定期便にしろ夜中に飛んでいるのである.夕食のワインが効いてきたのかものすごく眠い.私は飛行機に乗り込むや否や眠りに墜ちてしまった.しかし,飛行機は出発したかと思う間もなく2時間程度でグアムに到着,強制的に起こされて空港内に入った.どうでもいいけど眠い.我々は空港内のソファーで荷物を抱きしめながら寝ていた(さすがに外国のため,本能的に荷物は放さない.グアムは各地から飛行機が飛んでいるところであるが,私がうつらうつらしている間に何度か,場内放送で呼び出されている日本人がいた.搭乗時間になっても現れない団体客であろうか).しばらくして,我々が乗る飛行機の搭乗時刻がやって来た.我々は眠い目をこすりながら再び機上の人となったのである.
 飛行機が再び成田に着いたのは朝であった.その後我々は成田エクスプレス,東北新幹線と乗り継ぎ,夕方に地元に戻ったのだった.

これは”オジサン・アイランド”です(中年のおじさんが寝ているところに似ている?)

こちらはロックアイランド内の”くじら島”になります

美しい海とマシュマロのような緑の島からなる,ロックアイランドの風景です

ロックアイランド内にもよく見ると戦跡が(断崖に据え付けられた大砲です)
 
2月の岩手は氷点下で雪もかなり降っていた.パラオでは灼熱の太陽が輝き,日焼けしまくっていたのが夢のようである.我々は寒さに震えながら,パラオの思い出を胸にしまっていた.


     完 (明日からまた日常の世界)
 



 

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