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スバールバル旅行記(7)


2003年7月 4日(金)


オスロの街

 翌朝目を覚ますと外は快晴であった.スバールバルでは曇りの日ばかりだったので,なんだか気分も晴れやかになってくる.朝食に繰り出したが,スピッツベルゲンホテルと違って大規模なホテルであるためか,会場はとても広くたくさんの人でごった返していた.中には日本人旅行者と思しき人もいて,久しぶりに聞いた日本語はなんだか新鮮であった(トロムソおよびスバールバルでは結局我々の他に日本人観光客は全くいなかった).
 4年前の旅行の際,オスロはほぼ素通りであったため市内観光をするのは今回が初めてである.オスロは1000年近い歴史を持つ古い街で,見どころもたくさんあるのだが,とても1日では回れないのである程度的を絞る必要がある.結局コンチキ号博物館などがあるビィグドイ地区,ムンクの「叫び」がある国立美術館,不思議なモニュメントがあるフログネル公園に行くことにした.コンチキ号博物館やフラム号博物館があるビィグドイ地区は,オスロ市庁舎前の船着場からフェリーで行くと便利である.というわけでホテルを出た我々は市庁舎を目指した.

オスロ市庁舎前.首都の庁舎というわけで日本で言えば都庁ですが,はるかにこじんまりとしています

市庁舎前の船着場.ここから各地へ向かうボートが発着しています.後ろに見える建物は売店です(KIOSKか)
 
 オスロは一国の首都ではあるが人口は50万程(日本でいえば新潟や浜松なみ)で大都会といった感じはない.ホテルを出て目の前の中央駅から西に向かうメインストリート(カール・ヨハン通り)を歩く.ここは歩行者天国でオスロ随一の繁華街になっており,様々な店や飲食店が並んでいる(もちろんロングイヤービーエンのような鄙びた商店街ではない).この通りをまっすぐ行くと王宮に至るが,途中から左に曲がって海のほうに向かう.目指すレンガ色のオスロ市庁舎はすぐに見つかった.オスロ市庁舎はオスロ市の創立900年を記念して1931年から1950年にかけて工事が行われたそうである(第二次世界大戦中は中断されたらしい).内部もちょっとした観光スポットになっているようだったが,中には入らずにそのまま船着場に向かった.
 船着場は3ヶ所くらいあったが"BYGDOY"と書かれた看板があったため迷うことはなかった.遊覧船くらいのこじんまりとした船に乗り,15分程度で目指すビィグドイ地区に到着した.
 


コンチキ号博物館

 ビィグドイ地区にはコンチキ号博物館(Kon-Tiki museet)の他,フラム号博物館(Framhuset),ノルウェー海洋博物館(Norsk Sjofartsmuseum),民族博物館(Norsk Folkemuseum)など多数の博物館がある.とても全部は回れないため今回はコンチキ号博物館とフラム号博物館に行くことにした.ビィグドイの船着場の目の前にフラム号博物館が,その右奥にコンチキ号博物館がある.我々はまずコンチキ号博物館を目指した.
 コンチキ号とはノルウェーの探検家ヘイエルダール(1914〜2002)が自らの学説(ポリネシア人の先祖が南米からわたって来たという説)を証明するために,南米のペルーから南太平洋のイースター島まで101日間かけて航海(漂流?)した筏の名前である.ヘイエルダールの探検については私が小学生くらいの時に学研のひみつシリーズ「できるできないのひみつ」(漫画は内山安二氏.私は彼の画風がとても好きだ.)の後半に「限界に挑戦した人々」というコーナーがあり,その中にライト兄弟や南極探検のスコットや白瀬矗などとともにヘイエルダールの話も載っておりよく読んでいた.
 入り口から中に入るとまず目に入るのは日の丸の描かれた帆をつけた船.「あっ!日の丸だ.どうして日本の船がここに?」と思うのは早とちりで,これは日の丸ではなく,古代エジプトの太陽神ラーをあらわすものだそうである(これについては「地球の歩き方 北欧」にも載っている.みんな同じことを考えるようだ).

コンチキ号博物館の前で

外見はこじんまりとしています

実はヘイエルダールって21世紀まで生きていたんですね
 
 この船はヘイエルダールが1969年に大西洋横断目的で使った葦で作られた船で,その名前がラー号というのである(松本零士氏の作品,新竹取物語1000年女王に暗黒太陽ラーというのが出てくるが,これもエジプトの太陽神からきていることは間違いないと思われる).最初のラー1世号は失敗したが,次のラー2世号でヘイエルダールは見事に大西洋横断に成功した.このラー2世号には日本人のカメラマンも乗船していた.  

博物館入り口にあるラー
U世号.本当に日の丸
みたいです

ラーU世号の模型,乗組員の国旗がはためいています(こちらは本当に日の丸です)

これがコンチキ号,本当にただの筏で,これで太平洋を渡ったかと思うとめまいがします
 


フラム号博物館

 コンチキ号博物館に続き,近くにあるフラム号博物館を訪れた.フラム号は極地探検用の船として1893年に作られた船である.元々は北極探検のために作られた船であるが,なんといってもこの船を有名にしたのは1911年のアムンゼンによる南極探検である.当初アムンゼンは北極探検を計画していたが,1909年にアメリカのピアリが北極点到達を果たしたことと,イギリスのスコットが南極探検に出発した事を知り,目的を南極に変更したのだった.結局アムンゼンの南極点到達は1911年12月14日,スコットの到達は翌1912年1月18日であった.このスコット隊5名は帰路全員が遭難死するという悲劇に見舞われた.ちなみに日本人白瀬矗の南極大陸上陸は同年1月16日(1月28日最終到達地点は南緯80度5分)である.
 この博物館はフラム号そのものが博物館の核となっており,船にかぶさるように三角形の屋根がついたような構造になっている.中に入ると受付売店があり,そこから順路に従って進むとフラム号の生い立ちからナンセンの北極海漂流,アムンゼンの南極探検の様子などが理解できるように当時の物品と共に説明されていた.また所々にはペンギンや白熊の剥製なども飾られていた.説明文はノルウェー語や英語などで残念ながら日本語はなかったが,売っていたパンフレットに日本語のもの(なぜかロシア語版と共通)があり参考になった.

フラム号博物館の正面.この巨大な三角形の屋根の中にフラム号全体が納まっています


博物館の外に展示されているもう一艘の船.これは20世紀はじめにアムンゼンが北極探検に使用したジョア号

フラム号博物館の
パンフレット.なぜか
日本語とロシア語
の共用版です
 


ムンクの「叫び」とフログネル公園

 フラム号博物館を後にした我々は再び船で市庁舎前に戻った.今度は国立美術館にムンクの「叫びを」見に行くことにする.ムンクはノルウェー出身の画家で,彼の作品は彼の名を冠したムンク美術館にも多く収蔵されているが,最も有名な「叫び」は国立美術館に収蔵されているのである.
 国立美術館は市庁舎からカールヨハン通りを越えた処にあり,なんと入場無料である.ヨーロッパ風の巨大な扉を開けて中に入ると入り口には例によって売店がある(収蔵品の絵が印刷された絵葉書が売っていたが,その中に葛飾北斎の富嶽三十六景があったが収蔵しているのだろうか?).美術館全体をじっくりと見てもよかったのだが,あまり時間がないためムンクの「叫び」を中心に見学して外に出た.
 外に出るとすでに昼になっている.近くにあったバーガーキングで昼食を摂った後,今度は郊外のフログネル公園に行くことにした.

国立美術館.入場無料です

ご存知,ムンクの「叫び」
 
 公園には地下鉄で行くのが便利である.国立美術館近くのNationaltheatret駅から乗り込んでMajorsteuen駅で下車する.この辺ではすでに線路が地上に出ており,地下鉄ではなくなっている.雲ひとつない快晴のカンカン照りで気温はかなり高くなっている.ただ湿度は低いためか日陰に入るとひんやりと感じる(何といっても北緯60度である).駅から10分ほど歩いて目指すフログネル公園に到着した.
 フログネル公園の目玉は公園のあちこちに配置されている様々な格好をした人間の像である.怒った子供や背負い投げの格好をした像,盆踊りをやっているとしか見えない像など総計600体以上がある.極めつけは公園中央部にあるモノリッテンで,高さ17メートルの円柱に沢山の人物が埋め込まれているのである.これが一体何を物語るのかは全く不明である(作者のGustav Vigelandも作品の意味については語っていないらしい).
 

後方にモノリッテンが見えます

この噴水は人間の一生を表すそうです

モノリッテンです

チョコバーみたい
 

モノリッテン周辺の像

モノリッテンから街を望んでいます

怒った子供

だれか助けて〜

 

背負い投げ

腹を抱えて笑う

怒られているのでしょうか

盆踊りでしょうか

 


オスロ最後の夕べ

 フログネル公園を後にした我々はこの旅行最後のイベントである,オスロフィヨルドのクルージングに参加するため再び市庁舎前の桟橋に向かうことにする.途中時間があったためカフェでビールを飲んでくつろいだり(この旅行でいったい何リットルのビールを飲んだのか)商店をひやかしながら市庁舎を目指した.
 桟橋からはやや大型のヨットみたいな船で海に繰り出す.オスロは北海からオスロフィヨルドに入った一番奥にある町である.地図で見ると何の変哲もないただの湾のように見えるが,実際には海から100km位は内陸に深く入った場所である.そのため海とはいってもとても穏やかである.フィヨルド内を船で走ると海岸のあちこちで寝そべっている人たちを見つける.北欧は夏こそ白夜の季節で日照時間も長いが,冬ともなると極端に太陽を拝めなくなる.このためこの辺りの人たちにとって日光浴はとても大事なもののようであった.
 約1時間ほどのクルージングが終わり,下船した我々はカール・ヨハン通り近くのイタリア料理店で夕食を摂り(イタリア人のやっている店で味はよかったのだがボリュームが多すぎて食べ切れなかった),ホテルへ帰って寝てしまったのだった.明日はいよいよ帰国の日である.
 



 

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