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 SINCE 2011年9月25日
       

 イスタンブールの概要


1.イスタンブールの歴史

1.古代
   
 文明の十字路とも呼ばれるイスタンブールの歴史は,古代ギリシャの時代,紀元前7世紀にまでさかのぼる(中国なら春秋時代,斉の桓公・管仲が活躍した時代,メソポタミアはアッシリア帝国の全盛時代).古代ギリシャの都市国家のひとつであるメガラ(アテネの45キロ西方,サロニカ湾に面した都市)出身の植民者たちが紀元前667年にバルカン半島の最東端,ボスポラス海峡に面した地に街を作ったのが始まりである.この時植民者たちのリーダーだったのがメガラの王ニソスの子であるビザスである.そのため街の名は彼の名前をとってビザンチオンと名付けられた(英語風の発音がビザンチウム).
 歴史は移り,古代ローマの地中海制覇の波に飲まれてこの町もローマの一地方都市となる(ビザンチオンがローマに組み込まれたのはローマが共和政から帝政に移行した頃と思われる).古代ローマ帝国時代には平凡な辺境の一地方都市に過ぎなかったが,4世紀になって大きな転機を迎えることになった.
 ローマ帝国は3世紀頃から国内外の政治経済体制の矛盾から大きな混乱に陥っていたが,特に首都ローマを含むイタリア半島の経済的な没落と,東方国境にに発展してきた強国ササン朝ペルシャへの対応が重要な問題となっていた.このため首都の東方への移転が真剣に検討されていたのだが,この時クローズアップされたのがビザンチオンなのである.バルカン半島の東端の岬に位置するこの街は3方向を海に囲まれた要害の地であり,一方で街に面した金角湾は良港で軍隊や物資の集積にはうってつけであった.4世紀初めの皇帝コンスタンチヌスはこの街に秘められた大いなる可能性に着目したのである. 

 
2.中世
   
 324年,彼はこの地に新都の建設を命じると共に,彼自身の名をとってこの街をコンスタンティノポリス(英語風にはコンスタンティノープル)と改めた.そして6年の建設期間を経て,330年5月11日に開都式が行われたのである.もちろんこの段階では今に残るこの街の偉大な都市計画が完成したわけではなく,コンスタンチヌス大帝後の歴代のローマ皇帝によって街の建設は着々と進められていった.  
 特に395年に帝国が東西に分裂し,西の帝国がゲルマン人に蹂躙されるようになると,東の都となっていたコンスタンティノープルの防衛は極めて重要な問題となり,5世紀の前半に皇帝テオドシウス2世によって堅牢な城壁が築かれることになった.これが現在にまでその姿をとどめるテオドシウスの大城壁である.
 中世に入ると,西ヨーロッパの諸都市が没落する一方で,北アフリカの都市がイスラム世界に取り込まれてしまったために,コンスタンティノポリスはキリスト教世界唯一にして最大の都市として繁栄することになった(当時はパリもロンドンもベルリンもまだ存在しない).6世紀にユスティニアヌス1世によって建立された聖ソフィア寺院はとりわけ有名なものであるが,その後も街のあちこちに教会や修道院が造られ,それらのいくつかは現在でもその姿を偲ぶことができる.コンスタンティノポリスが最盛期を迎えた11世紀初頭には街の人口は50万人に達し,当時この国で使われていた金貨(ノミスマ金貨)は国の内外を問わず,広く世界で通用したために,「中世のドル」などとも呼ばれている.
 しかしビザンチン帝国は11世紀後半から衰え始め,13世紀初め(1204年)には第4回十字軍の侵入を受けて街は略奪にさらされるとともに,以後半世紀に亘ってベネチア人の支配下に置かれた(この間にこの街にあった財宝の多くが持ち去られてしまった.現在ベネチアにビザンチンの宝物が数多く存在するのはこのためである).約半世紀後にコンスタンティノポリスは再び帝国と共に復活したものの往年の勢いはなく,以後は国勢と共に没落の一途を辿った(15世紀に入った頃には人口も10万未満にまで減っていたという).

 
3.近世以降
   
 1453年の5月にこの街はオスマントルコによって征服され,以後同国の首都となった.当時市街地にたくさんあった教会や修道院はごく一部を除き,その大半が破壊されるかモスクに改装されている.さらにこの時代には半島の先端部にスルタンの居城となる大宮殿が作られた(トプカプ宮殿).また市街地に今に続く大ショッピングエリアが作られたのもこのオスマン時代である.15世紀後半から16世紀にかけては,地中海の制海権をトルコが握ったことからこの街は再び東西貿易の拠点としての賑わいを取り戻した.人口が増加するに連れて,中世以来のテオドシウスの大城壁に囲まれた地域(旧市街)では手狭になったことから次々と市街地が拡大されていった.
 20世紀初頭の第一次世界大戦においてトルコはドイツ側にたって参戦したために敗戦国となり,戦後は戦勝国側から厳しい条件での講和を強いられた.しかし,これに反発する民衆はケマル・アタチュルクの下,革命を起こして政権を獲得,これ以降首都は内陸のアンカラに移ったため,約1600年続いたこの街の首都としての歴史は終わった.ちなみにこの街の名が正式にイスタンブールとなったのはこのトルコ革命後のことであり,それ以前はコンスタンティノポリスのトルコ語風発音であるコンスタンティニエが一応の正式名称である(もっとも,それ以前からイスタンブールとも呼ばれてはいた).
 


2.イスタンブールの地理

1.地勢
   
 イスタンブールは北緯41度,ヨーロッパとアジアの境のひとつであるボスポラス海峡を挟んだ両側にその市街地が広がっている.北緯41度ということで,アメリカのニューヨーク,スペインのマドリード,中国の北京,岩手県の盛岡とほぼ同緯度になる.人口は1000万を超える巨大都市であり,その規模はニューヨーク・ロンドン・東京といった世界都市と遜色はない.しかし,地下鉄など市内の公共交通機関は発達しているとはいえず,都市規模の割には人の移動が少ない街ともいえる.   
 イスタンブールの市街地は大きく旧市街(本来コンスタンティノポリスだった地域),新市街(旧市街と金角湾を挟んで反対側の地域),アジア側(ボスポラス海峡の対岸)の3つに分けられる.旧市街は古代ローマ・ビザンチン・オスマンの三つの大帝国の史跡が数多く残されており,ほぼ全域が世界遺産に指定されている.新市街は金角湾の反対側の地域であり,湾に面したガラタ地区は中世から存在する地域であるが,その他の多くは  
近代以降に開けたところである.特にタクシム広場を中心とした界隈は高級ホテルやレストラン,映画館やブティックが立ち並ぶ,欧米の大都市と変わらない雰囲気を醸し出している地域である.またボスポラス海峡に面したカバタシ地区には19世紀に造られたドルマバフチェ宮殿がある.アジア側は旧市街・新市街よりもさらに新しい地区で現在は主に住宅地となっているが,ボスポラス海峡に面した場所にはオスマン時代の要塞などの史跡も残っている.

 
2.気候
 
イスタンブールは地中海世界の一都市であり,その気候も基本的には地中海性気候(夏は暑くて乾燥,冬には降水量が多くなる)ということになる.しかし,一方でアナトリア半島の高地を背景にもつことから大陸性気候の要素も併せ持っており,このため冬はヨーロッパの同緯度の都市(マドリード,ローマなど)に比べるとずっと寒い.余談だが,昭和50年代に庄野真代さんが歌って大ヒットした「飛んでイスタンブール」の歌詞に”光る砂漠でロール”という歌詞が出てくるが,イスタンブールに砂漠はない.  



 

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