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 イスタンブール旅行記(3)


2009年8月31日(月)


早朝のアザーン

 前夜はイスタンブールの健康な時間に寝たのだが,まだ体は日本時間から離れられないのか目が覚めたとき外はまだ真っ暗だった.ふと思い立って窓から外を見ると,向こうに見えるモスク(イスラム教の寺院)がオレンジ色にライトアップされていた.きれいだなと眺めていると,いきなり大音量の男性の声が

 
  ○▲♪〜 ■★▽〜 □♪☆〒〜!

 歌というのか,節をつけた言葉といったらいいのか,何を言っているのかはもちろんわからないのだが,非常にイスラムっぽい雰囲気である.実はこれがアザーンというイスラム教の礼拝を告げる言葉なのであった.イスラム教では1日5回礼拝があるのだが,その最初のそれが夜明け前に行われるので,どうやらそれを告げるもののようであった.
 



イェニ・ジャーミー

 その後本格的な夜明けとなり,いよいよイスタンブール観光の始まりである.まずは朝食にとホテルのレストランに行く.トルコはイスラム国であるが,政教分離でしかもEU加盟を目指しているだけあって,朝食の内容は一般の西洋諸国と変わるところはないアメリカンブレックファストだった(ようするに卵料理もある朝食).
 朝食後は一度部屋に戻って出かける準備である.イスタンブール観光第1日目,まずは街を海から見てみようというわけで,ボスポラス海峡クルーズに参加することにしている.9時にロビーで待っていると,昨夜の美人ガイドがやって来た.そのまま案内されて車に乗り込む.イスタンブールの旧市街は狭い道路のオンパレード,そこを抜けて行こうとすると日が暮れてしまうので,多少遠回りになっても一旦海沿いに出て,湾岸道路を回り込んだ方が早い.右手にマルマラ海からボスポラス海峡を眺めながら,新旧両市街を結ぶ代表的な橋であるガラタ橋たもとのエミノニュに到着した.

イスタンブールの朝食

桟橋近くのエジプシャンバザールにて
 
 クルーズ船の出発までまだ時間があったので,まずは船着場向かいにあるイェニ・ジャーミー(ジャーミーとはトルコ語でモスクの意))を見学する.ここは16世紀末に建設が始まり1663年スルタンメフメト4世の時代に完成したモスクである(中庭には建立者メフメト4世とその母親の霊廟があるらしい).ちなみにイェニとは新しいという意味である.今回の旅行で見学した最初のモスクであったが,中央の大ドームと周囲の小ドームのバランスが取れた建物であった.内部には青や白などのタイルを使用した幾何学模様の装飾が施されていた(イスラム教では偶像崇拝が禁止されているため,装飾は必然的に抽象的なものとなる).  

イエニ・ジャーミーです

ジャーミーの内部の様子です

壁面の幾何学的装飾
 


ボスポラス海峡のクルーズ

 時間となったため道路を渡って船着場へ,そこからクルーズ船に乗り込んだ.船は一般的なちょっと大き目の遊覧船,我々は船室の窓側に陣取った.まもなく出航,船は右手にトプカプ宮殿を見ながら金角湾を出て左折,左手に新市街を右手にアジア側の街並みを見ながら進んでいった.新市街側に目をやると,高台にひときわ目立つ塔が見える.これが新市街の中で最も古い地域,ガラタ地区のランドマークとなっているガラタ塔である.この塔その原型が作られたのはなんと14世紀のことである(日本は南北朝時代).ここは後日ゆっくり見に行く予定である.
 海峡に入って少しすると左側にヨーロッパ風の壮麗な建築物が見えてきた.ここがオスマン朝後期の王宮ドルマバフチェ宮殿である.トルコ革命後には大統領の官邸となり,初代大統領のアタチュルクはここで執務中に亡くなっている(1938年11月10日).
 その後はホテルやショッピングセンターなどの世俗施設やモスクなどを眺めながらクルーズは進んでいく.イスタンブールをアジアとヨーロッパに分断しているボスポラス海峡であるが,船でしか渡れないわけではない.両者を結ぶ橋も建設されており,海峡南部のボスポラス大橋と中部のファーティフ・スルタン・メフメト大橋がある(その他日本の大成建設によって現在海峡を結ぶ海底トンネルが建設中である).

 
船はしばらく進んで,やがてファーティフ・スルタン・メフメト大橋付近に差し掛かる.端の近くには石造りの昔の要塞を思わせる城が見えてきた.これがルメリ・ヒサールと呼ばれる城砦で,1452年にスルタンメフメト2世がコンスタンチノープル攻略の拠点とするために建設したものである.円柱の塔とそれを結ぶ凹凸のある城壁は完璧に中世の城のイメージそのものであった

船着き場にて

船内は観光客で賑わっています

新市街のランドマーク,ガラタ塔です

海から見たドルマバフチェ宮殿
 

ルメリ・ヒサール

トルコ風ヨーグルト

我々が下船したイェニキョイ
 


トルコ風ミートボール

 ヨーグルトを食べているうちに次の寄港地,ヨーロッパ側のイエニキョイに到着,我々はここで下船となる(クルーズ船自体はここからもう少し行ったところで引き返す).ここからは迎えの車で中心部に戻ることになる.船だと1時間以上かかる行程も自動車なら30分弱であっという間に旧市街に戻ってきた(要するに時間を有効に使ってもらうための送迎企画のようだった).ガイドにホテルまで送るか,旧市街の途中で降ろすかと訊かれたのだが,ちょうどお昼時でランチにしたかったので旧市街の真ん中,アヤ・ソフィアのすぐそばで降ろしてもらった.

トルコ風ミートボール”kofte” ボールといってもイメージはラグビーボール?
 
 アヤ・ソフィアは旧市街の中心地ともいえる場所で,周辺にはカフェや食堂が立ち並んでいる.実は我々が訪問した時,ちょうどイスラムの断食,ラマダンとぶつかっていた.イスラム教徒は日中食事を取らないラマダンである.しかしトルコはかなり緩〜いイスラム国家なので,ラマダンだからと店が閉まっているということもなく,どこも賑やかであった.我々はふと見つけたミートボールを出している店に入った.ミートボール(肉団子)は代表的なトルコの食べ物であるが,日本のミートボールのような真球型ではなく,ハンバーグのような楕円形をしていた.味の方はというと,なんだか昔懐かしいマルシンハンバーグを思いださせるものだった.  


ヒッポドローム

 昼食を終えて,いよいよ午後の観光の開始である.まずはイスタンブール最大の観光名所アヤ・ソフィア!と行きたいところだったが,この日は月曜日,アヤ・ソフィアは定休日だった(月曜休みとは床屋みたいだ 笑).そこで向かったのがアヤ・ソフィアの南西,ブルーモスクの西隣の細長い公園である.今では何の変哲もないただの公園にしか見えないが,実はここ,ビザンチン帝国時代には戦車競技場だったところなのである.
 ローマ帝国の繁栄と退廃を象徴する言葉に「パンとサーカス」がある.古代ローマでは奴隷制と属州から流入する大量の穀物によって,首都に住む市民にはパンと見世物が無料で提供されていた(これは歴代ローマ皇帝の人気取り政策である.ローマ帝国では皇帝は市民の第一人者という建前があり,市民の支持が得られなければ皇帝の地位を維持できないこともあった).ローマの歴史を引き継いだ初期ビザンチン帝国にもこの伝統は残っていたが,この時代の市民の娯楽として大人気だったのが戦車競争である.今でいえばF-1などの自動車レースのようなもので,市民はそれぞれ贔屓のチームを熱狂的に応援していた.当時今のブルーモスクがあるあたりに皇帝の住む宮殿がありその西隣に,10万人の観客を収容できた巨大な競技場があったというわけである.6世紀にこの街を破壊したニカの乱もこの競技場での暴動が引き金となった.時代の推移と共に戦車競技は行われなくなり,やがてオスマントルコの時代には競技場そのものもなくなったが,土地だけはそのまま残り今はかつてのフィールド部分が公園となっているのである.現在ここはヒッポドロームと呼ばれているが,これはギリシャ語で馬の道を意味する.
 ヒッポドロームに佇んでもかつてここが競技場だった面影はあまり感じられない.しかし当時の建築物がないわけではない.公園内にそびえる3本の塔がそれである.一番南にあるのがオベリスク,これは元々紀元前15世紀古代エジプトのファラオ,トトメス3世が建立したものを4世紀末のローマ皇帝テオドシウス1世がこの地に持ってきたものと言われている.オベリスクが置かれている台座には競技場で優勝者に冠を授ける皇帝や政府高官の姿が描かれている.

ヒッポドロームの前景(3本の塔が見えます)


一番北にはこのような東屋が


周辺の屋台が準備されています


4世紀にエジプトから
持ってきたオベリスク
 
 そして真ん中の塔が,蛇の柱と呼ばれるもので3つの塔の中では一番地味である.ただ,歴史は一番古く紀元前5世紀のペルシャ戦争のプラテーエーの戦いでの戦勝記念に作られたものを,4世紀にコンスタンチヌス1世がここに持ってきたものである.最後一番に北にあるのが10世紀の皇帝コンスタンチヌス7世が作らせた石の塔である.一方でこの広場の最北部には八角形のドームをいただいた東屋がある.これはドイツの泉と呼ばれるもので,1898年にドイツ皇帝ヴィルヘルム2世がこの街を訪問したことを記念してドイツ政府によって建立されたものとのことである.そういえば当時のドイツの外交政策の柱が3B政策(ベルリン・ビザンチウム・バグダッド)だったから,ここは重要な場所と認識されていたのである
 ヒッポドロームの中心に立って周囲を見渡すと,なにやら日本の縁日で見られる屋台のようなものが立ち並んでいた.これはラマダンの季節になると出現するもので,日没後現地の人々が食事などを楽しむために用意されているものだった.
 

オベリスクの台座には月桂冠を携えた皇帝が

蛇の塔の前に立つ私


10世紀に造られた石の塔
 


旧セルギオス・バッコス教会(キュチュック・アヤ・ソフィア)

 ヒッポドロームを一通り見た後我々は南へと向かった.周辺にはブルーモスクや地下宮殿などの見どころもあるのだが,実はちょっと気になる施設があったため先に見ておこうと思ったからである.狭い路地裏のようなところを5分ほど歩いていくと,まもなくこじんまりとしたモスクが見えてきた.ここはその名もキュチュック・アヤ・ソフィア・ジャーミーという.アヤ・ソフィアの名が冠されているのは理由があり,外観がなんとなくアヤ・ソフィアに似てるから… 身も蓋もない気がするが,ちゃんと根拠はある.実はこの建物,建てられたのが6世紀ユスチニアヌス1世の時代であり,本家のアヤ・ソフィア(?)の少し前に建てられたのである.ビザンチン時代はセルギオス・バッコス教会と呼ばれていたが,オスマン時代に入ってモスクに改装され,外観がアヤ・ソフィアに似ていることから小さなアヤ・ソフィア(キュチュックとは小さいの意)と呼ばれたものだ.
 さっそく中に入ってみたが,世界中からの観光客で大賑わい(だろう)アヤ・ソフィアと違ってこちらはひっそりとしていた.中心にドームがあるのはアヤ・ソフィアに代表されるビザンチン建築の特徴だが,初期ビザンチンの特徴とされるドームとバシリカ(空間を中心部の身廊と周辺の側廊とに区切ってある構造,身廊と側廊は列柱で分けられる)の融合ははっきりしなかった.ドームの装飾は新しくイスラム風の青いタイルがメインの抽象模様だったが,所々に残る柱や壁は古い時代のものと思われた.モスクの周辺は長い塀で囲まれているのだが,これはビザンチン時代の後半にここが僧院であったころの名残らしい(教会と違って僧院は不特定多数が入場できる場所ではないので,こうした塀が作られたのだろう).

古代の遺跡のようなところです


これがキュチュックアヤ・ソフィアの外観です


キュチュック・アヤ・ソフィアの案内板です
 

外観はこんな感じです


内部の装飾はイスラム風になっています

壁にはコーラン112章純正章の各国語訳が
 


ブルーモスク(スルタン・アフメット・ジャーミー)

 旧セルギオス・バッコス教会の見学の後,もと来た道を引き返した我々は,今度はブルーモスクを訪ねた.ここは正式名称をスルタン・アフメット・ジャーミーといい,その名の通りスルタン,アフメット1世が造らせたものである.外観と立地から北のアヤ・ソフィアを意識して造ったのは明白で,並べてみると双子の施設のようだ.もっとも方や6世紀の正教会の聖堂,一方は17世紀のモスクと役割・歴史とも全く異なるのだが.俗称のブルーモスクとはアヤ・ソフィアの赤色に対して,内装に遣われるタイルのブルーからとも,背景にあるマルマラ海のブルーからともいわれている.
 正面入り口から入って中庭を通ってモスクに向かう.中央の大ドームとそれを取り巻く4つの小ドームが壮観である.周辺には鉛筆のような細長い尖塔が立っている.これがミナレットと呼ばれるものでモスクを象徴する建造物である(礼拝の開始を告げるアザーンはここから発せら

ブルーモスク(スルタン・アフメット・ジャーミー)の外観

ビザンチン建築の影響を受けた外観
 
れる).格式の高いモスクほどミナレットの本数が多いらしく,ここにはなんと6本もあった(アヤ・ソフィアは4本,東京の井の頭通りにある東京ジャーミーは1本).このモスクが建造された当時6本のミナレットを持つモスクは聖地メッカにしかなく,さすがのアフメット1世もこりゃまずいと思ったのか,直後メッカに新しいミナレットを寄進したそうである.  

ここでは女性は髪を隠すことを求められます

ジャーミィ内部は幻想的な空間が広がります

内部の装飾は抽象的なイスラム文様です
 


地下宮殿のメデューサの首

 ブルーモスクを後にしてヒッポドロームを横断し,市電の走っている通りに出た.次の目的地はこの通りの反対側にある地下貯水池である.イスタンブールは三方を海に囲まれた街だが,実は飲料水となる水源に乏しいという弱点がある.この都市住民の生活を支える水の確保が,4世紀以来,初期の皇帝たちの悩みの種であった.とはいえ,ビザンチン帝国は土木工事を得意とするローマ帝国の伝統を継いでおり,やがて西方の森林地帯から水道を引く工事が行われた.ただ,敵の包囲を受け水源が断たれる可能性もある.というわけで,街の中心のあちこちに郊外から引いた水道水を蓄えておく地下貯水施設が建設されたのである.そのなかで最大規模のものがヒッポドロームの西隣りにある.ここはその内部の雰囲気から地下宮殿の異名を持ち,実際多くのガイドブックにはその名前で記載されているのだが,歴史上ここが宮殿であったことはない.

地下宮殿の地上入口です

入り口から階段を下りていくとこんな感じのところに
 
 地下宮殿の入り口となる地上部分はこじんまりとした小屋のような感じだった.ここでチケットを購入して中へ,入るとすぐに下に降りる階段がある.人の流れに乗って階段を下りていくと,目の前にに幻想的にライトアップされた世界が広がっていた.
 この貯水池が作られたのは6世紀,ユスティニアヌス1世の時代である.たくさんの大理石の円柱が整然と立ち並ぶさまは,たしかに宮殿を思わせる雰囲気である.観光施設として公開されている現代でも下には水があり,我々観光客は桟道のような部分を歩くのだった.幻想的な雰囲気の中を奥へと進んでいくと,人間の首のようなものが柱の土台にされている場所に着いた.実はこれ人の頭ではなく,伝説の魔女メデューサの首なのだった.メデューサはギリシャ神話に登場する髪の毛がすべて毒蛇という魔女で,そのあまりの醜さに見たものはすべて石にされてしまうといわれている.なぜここにこんなものがあるのか?,その理由ははっきりしない.しかし,この地下宮殿が造られた6世紀は,帝国の国教となったキリスト教が国の隅々に浸透する一方で,ローマ的な神々(キリスト教から見たら異教となる)の伝統もまだ残っていたと思われる.それゆえ異教の産物であるメデューサを地下に葬ってしまおうというキリスト教的立場の考えと,逆に邪神メデューサを地下に埋めることで,首都の平安を願うという異教的な考えが重なった結果,こういう形になったのかもしれない.
 

たくさんの列柱が立ち並ぶ幻想的な光景です

これが柱の下敷きにされたメデューサの頭です

トルコの魔除けの邪視
を思わせる柱の模様も
 


アヤ・イリニ教会

 地下宮殿の幻想的な雰囲気から地上に出ると,たちまち現実的な都市の光景が待っていた.この日の夜はトルコ料理のディナーが予定されていたのだが,まだ時間があるということで今度は少し北のトプカプ宮殿に向かった.とはいえ,これからトプカプ宮殿に入場して見学するだけの時間はない.そこで,宮殿の敷地内にあるビザンチン時代の教会を見学することにしたのである.
 イスタンブールはビザンチン帝国時代はキリスト教(東方正教)の中心地であり,市内には数多くの教会が作られた.15世紀にこの街がトルコに征服されたのち,これら教会の多くは破壊されたが,その一部はモスクに改装されて今でもその姿を見ることができる.一方で政治的な理由から(主として市内のキリスト教徒の懐柔)教会のまま残された場所もある.そんな中でこのアヤ・イリニ教会は,たまたまトプカプ宮殿の敷地内の外れにあったために,壊されることもモスクに改装されることもなく,当時のままの姿で生き延びてきたのである.オスマン朝時代ここは倉庫として利用されていた.そのため普段は人の目に触れることもないことから,モスクに変えられた教会のように壁のキリスト教的装飾がはがされたり漆喰で固められたりすることもなく残っている(実際にここにはイスラム圏ではありえない十字架のモザイクが現存している!).
 この教会の歴史は古く,ローマ帝国末期にさかのぼる.4世紀にキリスト教が公認され,ここが新しい帝国の都になった時に最初に総主教座が置かれたのがこの教会なのである(アヤ・ソフィアよりも古い).
 現在この教会は,コンサートなどのイベント時に公開されているとのことだったが,この日は残念ながら非公開で中を見ることはできなかった.しかし,その外観は中世初期の教会建築物を強く意識させるものであった.

外壁に猫を発見

アヤ・イリニ教会外観1

アヤ・イリニ教会外観2

内部には十字架のモザイクが
 


オスマン料理のディナー

 アヤイリニ教会の見学(とはいっても外観だけだが)を終えると時刻はちょうど夕方5時になった.今日は7時半から市内のレストランでディナーの予定,まずはホテルに戻って支度である.この日は旧市街を結構歩いたが,それでもホテルからは徒歩圏内である(この辺が旧市街プチホテルの利点である).この日は休業のアヤソフィアやさっきも歩いたヒッポドロームを通りながらホテルを目指した.ヒッポドローム周辺ではラマダンで日没後に営業を始める屋台の準備が行われていた.日没が近いだけあって,そろそろ食事を始めようという地元の人たちも広場に集まりだし,ここも昼間とは違った雰囲気になっていた.
 無事にホテルに戻った我々はシャワー浴びて,着替えをしたのちフロントでタクシーを呼んでもらって出発した.この日のレストランは新市街のオルタキョイ地区にあるレストラン フェリエというところである.ちょうど新市街とアジア側を結ぶボスポラス海峡にかかるボスポラス大橋のたもとにある.テラス席が主体の非常に開放的で洗練されたレストランだった.目の前にはライトアップされたオルタキョイジャーミー,そしてボスポラス海峡とその向こうに広がるアジア側の明かりが広がっていた.料理はコースだったが,さすが世界三大料理に数えられるトルコ料理は素敵だった.

屋台の準備が着々と進行中

意味不明の熊のモニュメント

宮殿のようなレストランです
 
 ディナー終了後はあらかじめ頼んであったタクシーに乗ってホテルに戻りそのまま爆睡したのであった.明日は街の郊外の観光予定である.  

この日のメイン,マッシュルームソースの牛肉

こちらがオスマン風のデザートです

当然のようにワインをいただきました(笑)
 



 

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