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 イスタンブール旅行記(4)


2009年9月1日(火)


テオドシウスの大城壁

 一夜明けると,月が変わり9月になっていた.世間では新学期に入って気分も新たというところだが,旅行中の人間にとってはそのような実感は全くない.この日の予定であるが,まず午前中はビザンチン帝国時代,1000年にわたって外敵からこの街を守ったテオドシウスの大城壁の見学,そして午後からは城壁周辺に散らばるビザンチン時代の遺跡の見学である.昨日と同様一階のレストランに行って朝食となったのだが,外を見ると空一面の厚い雲,おまけにパラパラと雨も降っているようだった.せっかく郊外まで出かけようというのに雨降りとは… おかしいな晴れ男なのに(笑)などど考えていた.この日のメインである大城壁はイスタンブール旧市街のマルマラ海から金角湾まで5キロ以上にわたる城壁である.当然歩いてみるわけにはいかない.というわけで大城壁を回ってくれる現地ツアーを利用することにしているのだった.朝食後部屋で一休みした後にロビーで迎えを待つ.9時に昨日と同じ美人ガイドがやってきた.
 車に乗りホテルを出発すると,昨日と同様まずは海沿いの幹線道路に出た.昨日はそこで左折してボスポラス海峡方面に向かったのだが,この日は逆にマルマラ海沿いに西に向かって進む.大城壁は当時旧市街全体を取り囲むように造られていたため,海沿いにもその名残がたくさん残っている.海に面して石やレンガを積み上げた城壁があちこちにみられるのだった(上端が歯のようになった,中世のスペインなどにもよくあるタイプ.ドラクエなどに出てくる城壁?).
 海岸道路をしばらく走ったのち右に折れる.空から見ると三角形の形をしたコンスタンチノープルの街全体を囲んでいたテオドシウスの大城壁であるが,そのうちの2辺は海という天然の要害があるため城壁の高さや厚さはそれほどではない.当時の戦争の主体は陸上戦であり,陸に面した部分がもっとも外敵の脅威にさらされやすい(現実にこの方面から何度も外敵に攻められたし,最終的にこの街がオスマントルコに攻略されたのもこの部分からだった).したがってこの陸側が城壁の中でも最も堅固な部分である.車は海から離れてこの城壁のもっとも厚い部分に沿って走っていった.こうして車窓から見てもすごい城壁である.手前の比較的低い城壁(当時高さ8メートル)とその背後にあるより高い城壁(当時高さ10メートル以上),そして城壁の要所要所にはさらに大きな塔が立ちはだかっている.しかも当時は城壁の前には深い濠もあったという.大砲がなかった中世において,ここに攻め寄せた兵士はこの圧倒的な城壁の前に何を思ったのか想像しただけで感慨深いものがあった.
 しばらく走って我々は城壁の一部で観光公開されている部分に案内された.相変わらず小雨が降っているため傘を差しながらの観光であった.実際に城壁に近づいてみると改めてその大きさに圧倒される.丸い塔の部分に入ると内部には外部を見張るための小窓部分とそれをつなぐ細い通路があって,当時はどんな様子だったのか想像してみたりした.続いて今度は実際に城壁の上にのぼって見ることにした.

海側の城壁

これからこの城壁を見学します

中世的な趣の塔の内部

城壁越しに海が

城壁の内側の様子です

内壁と外壁の間は現在畑になっています

前方の城壁の様子
 
 最も高い内壁から外側を見ると,内壁よりは低い外壁が目に入る.長年の風雪にさらされてあちこちで石組も崩れてぼろぼろになっている場所も多い(自分が今いる内壁部分はこんなにきれいなのになと思ったが,考えたらここは観光客用にきちんと修復がなされた場所なんだと納得した).外壁と内壁の間は当時通路だったそうだが,今では一部が畑になっているところもあり時代の流れを感じずにはいられなかった.またさらにその前方にあった(ハズ)の濠はすっかり埋め立てられてしまっていたが,当時堀だったと思われる場所が木々に覆われた林になっている部分もあってなんとなく雰囲気は感じられたのだった(雨のせいで古城のイメージをより強く感じた).  


ピエールロッティの喫茶店

 城壁の観光を済ませた後我々はそのまま車で市街の北西に向かった.そして小高い丘のふもとで下車してロープウェイに乗り換えて丘に登っていく.ここは市街地が一望できるビュースポットなのだが,そこにお茶を飲みながら景色を堪能できる喫茶店があって,そこが我々の目的地だった.その名もピエール・ロッティの喫茶店という.ピエール・ロッティは19世紀から20世紀初頭のフランス海軍の軍人で,イスタンブールの街を愛し,とりわけこの丘からの眺めがお気に入りだったとのことである.お店はテラス席もあって,天気がいい日はここから景色を楽しむ… のハズだったのだが,天気は相変わらず小雨模様,というわけで市街地の眺めも早々にお店の中でお茶をいただくことになった.
 店内はピエール・ロッティ関連の絵や写真がたくさん飾られ,アンティークないい雰囲気であった.トルコのお茶といえばチャイ,今回の旅行初チャイである.日本や西洋ではお茶は瀬戸物のカップで飲むのが一般的であるが,トルコではチャイバルダックと呼ばれる真ん中がくびれたガラス容器でいただくスタイルなのである.出てきたお茶も見た目少な目,これで足りるのかと思ったが熱いお茶をガラス容器で飲むために,ちびりちびりと飲む(まるで熱燗でもいただくように 笑)ことになるため,結果としてこの程度で十分であることが分かったのだった.

丘から望む市街地

記念撮影の1枚

雨のためテラス席はお休み
 
 しばらくチャイとピエール・ロッティの雰囲気を楽しんでお店を後にした.時刻はお昼ちょっと前である.ガイドさんがホテルまで戻るか,どこかで降ろすかと聞いてきた.当初の考えではこのまま城壁周辺の観光をしようと思っていたのだが,雨は相変わらず振り続けており,遠い地域を歩く気分が失せていたため,作戦を練り直すためにホテルに戻ることにした.  

これがトルコ式チャイ

店内の様子です

ピエール・ロッティの雰囲気
 


モザイク博物館

 ホテルに戻ったのはちょうど12時ごろだった.外は相変わらずの雨だったので昼食は日本から緊急用(?)に持ち込んでいた日清きつねどん兵衛で済ませた(笑).そして午後の予定であるが,天気がこういう状況であることから昨日の午後の続きで,ホテルに近い旧市街中心部の観光を行うことに決定,まず目指したのはブルーモスクの南東にあるモザイク博物館である.モザイク芸術はビザンチン美術を代表するものであるが,8〜9世紀にビザンチン帝国内を吹き荒れたイコノクラスム(聖像破壊運動: 本来キリスト教は偶像崇拝を禁止する宗教であったが,中世になってゲルマン人など周辺民族への布教に便利なことから教会でも半ば黙認する形で存続していた.しかし7世紀以降イスラム教徒の攻勢によって帝国の領土が次々に奪われる事態に際し,自分たちの苦境はイスラム教徒のように偶像崇拝禁止を徹底しなかったことに対する神の怒りであるとの議論が起こり,当時の皇帝は偶像=イコンを徹底的に破壊する政策をとったのである)によって,イスタンブール内にあった古い時代のモザイクはほとんど失われてしまった.しかし20世紀になってブルーモスク側から5〜6世紀ごろのビザンチン帝国の宮殿とそこに遺されていたモザイク画が発見され,今では博物館として整備されているのである.
 しかしこの博物館,はっきり言って地味な存在である.入り口も商店街の一角にひっそりとあるだけなので,その存在を知らないと確実にスルーしてしまうであろう.とはいえ中に展示しているモザイク画は実際に当時の宮殿の壁や廊下を飾っていたであろうモザイクである.当時大戦車競技場だったヒッポドロームに隣接するこの地は間違いなく当時帝国の宮殿があった場所であり,そこを飾っていたモザイクは,人物や動物の姿が生き生きと描かれており,後の時代に造られた画一的なイコンなどとは明らかに異なる芸術作品なのであった.

モザイク博物館の入り口はこのような商店街の一角に

元は当時の大宮殿のモザイク画が描かれた廊下です

床一面に広がるモザイク画

たくさんのモザイクが
 

ウサギを襲うオオカミ

車を回す子供

鹿と蛇
 

ガチョウと子供

獲物を加える竜

トラを狩る人
 


ミリオン塔

 モザイク博物館の見学を終えて外に出た.どうやら雨が上がったようである.我々は博物館に面した商店街を通って,そのままブルーモスクと地下宮殿の間の道路に出た.現在は市電が走っているこの道路はビザンチン時代は首都を貫く大通りであったのだが,実はここに帝国統治に関係する重要な史跡があるのだった.俗にすべての道はローマに通ずといわれるほど,ローマ帝国は道路づくりに力を入れたのであるが,ローマ帝国の後継であるビザンチン帝国も道路建設には熱心であった.当時国中いたるところに道路が張り巡らされていたのだが,そんな帝国内道路の中心を示すものがここに存在するのである.その名は「ミリオン塔」,ビザンチン帝国における道路の原点とされたものである(日本でいえば東京日本橋にある道路原標にあたる).

ビザンチウム時代
の城壁
 
 当時は丸いドームを4本の柱が支える構造になっていたとされているが,ドームはもちろん4本の柱うち3本が失われてしまい,現在は朽ち果てた柱が1本残るだけになっている.ガイドブックにもあまり記載がないためか,大半の観光客は見向きもしない場所であるが,この街の歴史に興味がある者にとっては感慨深い史跡なのである(ちなみにこの街が帝国の都になる前のビザンチウム時代にはこの辺りが町の外縁であり,当時の城壁が一部今でも残っている).  

”ミリオン”の看板

これがミリオンの柱

かつてはどんな姿だったのか
 


アヤ・ソフィア(聖ソフィア大聖堂)

 さて,ミリオン塔の見学が終わるといよいよ続いては本日午後のメインイベント,聖ソフィア大聖堂の見学である.全地球上の守護者を任ずるビザンチン皇帝にとっては非常に重要な場所であることはいうまでもない.聖ソフィア大聖堂(ギリシャ語だとハギヤ・ソフィア,トルコ語だとアヤ・ソフィア)は6世紀の皇帝ユスチニアヌス1世が作らせた中世を代表するキリスト教寺院である.地上高さ55メートル,直径33メートルという巨大なドームを備えた大聖

聖ソフィア大聖堂の全景
 
堂は537年12月27日に完成した.工期は6年弱と当時としては異例の短さである.当時の帝国の財政が豊かであったことと,ユスチニアヌス自身の本気度の高さがうかがえる(聖堂が完成した時彼は「ソロモンよ,我は汝に勝てり」と言ったとされている).  

ニカの乱以前の遺跡@

ニカの乱以前の遺跡A

ニカの乱以前の遺跡B
 


 全景を見たらさっそく中に入ることにする.入り口は向かって左側にあり,ここから入っていくのだが,ふと見ると十字架の刻まれた柱のようなものや祭壇の残骸らしきものが無造作に置かれていた.なんだこれは!と思い,そばにあった案内板を読む.それによると,これは5世紀にテオドシウス2世によって造られ,6世紀のニカの乱(ユスチニアヌスの時代に発生し首都が灰燼に帰した民衆反乱)によって破壊された先代の聖ソフィア寺院の遺構なのだそうだ.そんな重要なものをこんなところに転がしておいていいのだろうかと思いながら聖堂の中に入った.入り口から入り拝廊と呼ばれる廊下のような部分を横切ってドームの中へ.実はこの拝廊とドームの境目に有名なモザイク画があるハズなのだが… なんと!工事の足場がモザイクを隠す状態になっているではないか(泣).なんか幸先の悪いアヤソフィアであった.
 気を取り直してドームの中へ進む.す,凄い!! 高さ50メートルを優に超えるドームはすごい迫力である.ドームの天井には有名な聖母子のモザイクが見られる.壁の金色と上方の小窓から差し込む光でドーム内は厳粛な雰囲気に包まれていた.巨大な建造物を見慣れた現代人でもそう感じるのだから,こういうものに免疫がなかった中世の人間がこのドームを目の当りにしたら,おそらくはここが神の世界に最も近い場所だと信じたであろうことは間違いあるまい(実際,10世紀にキエフ大公国ウラジーミルからここに派遣された使者はこの聖堂で行われる典礼に立ち会い,「まるで天上にいるようだった」との報告をしている).もっとも,ここでも修復の工事が行われていて,地上からドームの4分の1位部分が無粋な骨組みに覆われていたが….一方で,ここがイスラム教のモスクに改装された痕跡とわかるものとしては,メッカの方向を示すミフラーブの存在やムハンマドや正統カリフの名が刻まれた円盤の設置がある.
 しばらくドームの1階を見学したのち,上のギャラリーに登ってみることにした.ギャラリーへの階段は薄暗くて無骨な石造り,特に近代的な改装も加えられておらず,中世の雰囲気を色濃く残している.ギャラリーは当時典礼の際皇族たちが参集した場所とされているが,今ではここは当時の美しいモザイク画がみられる場所として知られている.15世紀のメフメト2世による征服後,ここはモスクに改装されたわけであるが,彼らイスラム教徒はこれらのモザイクを(破壊ではなく)漆喰で塗り固める処置を行った.これが結果としてこれら貴重なモザイク画を現在に遺すことに役立ったわけである.我々もしばしこれらの素晴らしいモザイク画を鑑賞して過ごした.

聖堂の入り口面


楽しみにしていたモザイクが隠されていました


本来はこのモザイクが見られるはずでした


拝廊の様子


ドームの中も改修の足場が組まれていました
 

ドーム内部

ミフラーブ

カリフ名の書かれた円盤
 

想像以上のスケールです

ベルガマの壺

ギャラリーから@
 

ギャラリーからA

ミンバル(イスラムの説教壇)

ギャラリーへの通路
 

天国の門と地獄の門

有名なデイシス

ドームに描かれた聖母子
 

聖母子と皇帝ヨハネス2世,皇妃イレーネ

キリストと女帝ゾエ(右),左はコンスタンティヌス9世

聖母子とユスティニアヌス(左),コンスタンティヌス(右)
 


国立考古学博物館

 アヤソフィアのモザイクを見学しているうちに,窓から光が差し込むようになってきた.さっきまでは曇りだったのが,どうやら晴れてきたらしい.そろそろ別の場所に行こうと聖堂を後にした.次の目的地はトプカプ宮殿の敷地内にある国立考古学博物館である.アヤソフィアの西側の道路を北上して歩くとほどなくトプカプ宮殿の城壁に突き当たる.そこを左に曲がると道は下り坂になり,間もなく城壁の中に入れる門が見つかった.ここから中に入って歩くとすぐに目指す博物館に着いた.この博物館は古代ギリシャやオリエントの土器や彫刻などを幅広く収蔵した博物館である.別館として古代東方博物館があり,まずはこちらにに入る.中には主に古代オリエントの彫刻や石碑などが並んでいたのだが,なんといってもここの目玉は紀元前1274年に古代エジプトとヒッタイト帝国との間で起こったカデシュの戦い後に結ばれた平和条約が刻まれた粘土板である.これは世界最古の平和条約ともいわれている.他の文物は比較的無造作に展示してあるのに,この碑文だけは丈夫そうなガラスケースの中に陳列されていたことからも,この粘土板の重要性がわかるのだった.碑文はエジプトのヒエログリフとヒッタイトの楔形文字とで併記されており,実はヒエログリフではエジプト側が,楔形文字ではヒッタイト側がそれぞれ有利な状況で戦いを終えたように記載されているそうである(もちろん私自身はどちらの文字も読めないが 笑).
 続いては隣にある本館,考古学博物館に入場する.こちらは先の東方博物館とは違ってギリシャ,ローマ系の展示が多い.ここで特筆される収蔵品としては,俗にアレキサンダー大王のもの言われる棺をはじめとした,精巧な彫刻が施された石棺群や古代ギリシャやローマの彫刻が挙げられる.その他には,古代から中世にかけてこの地域で流通していた貨幣や,現在ヒッポドロームに胴体の一部のみが現存している蛇の塔の頭の一部,さらには15世紀のオスマントルコによるコンスタンティノープル攻囲戦の際,守備側が金角湾を守るために使った鉄鎖の一部なども展示されていた.我々も興味深くこれらの収蔵品を鑑賞していたのだが,たまたま近くにいた係員と話をしていたら,その係員が「日本人か」と聞いてきた.その問いに「そうだ」と答えたら,「日本で流行ってるものを知ってるぞ」といい,いきなり「そんなの関係ねぇ」と小島よしおのギャグを始めたのには笑わせられた(きっと,日本人観光客の誰かが教えたんだろうな 笑).
 見学しているうちにそろそろ閉館が近い時間帯となったので,博物館を後にして徒歩で帰ることにした.日没後に備えて屋台の食べ物屋などが準備の真っ最中のヒッポドロームを通ってホテルに戻り,その日はホテルのレストランで夕食を摂ったのである.こうしてイスタンブール観光2日目が終了した.

古代東方博物館


こちらは考古学博物館


ネブカドネザル王の像


古代エジプトのヒエログリフ


オリエントチックな絵です
 

カディシュ条約の石版

もちろん読めません(笑)

アレキサンダーの棺
 

ヒッポドロームの蛇の柱の頭

ビザンチン時代の貨幣

ギリシャ風の彫刻
 



 

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