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 イスタンブール旅行記(6)


2009年9月3日(木)


カーリエ博物館

 明けて9月3日,イスタンブール観光の4日目,この日も快晴である.街にも慣れてきたというわけで,この日は少し遠くの方に繰り出すことにした.具体的には午前中は旧市街の北西部にあるビザンチン美術の宝庫であるカーリエ博物館とファティエ・ジャーミィを見学,そして午後からは今回初めて新市街に繰り出して軍事博物館を見学しようという予定である.まずは朝食を摂ってさっそく出かけることにした.とはいっても,北西部のカーリエ博物館方面に直接行ける電車はない.昨日乗った路面電車で城壁付近の駅まで行ってひたすら歩くか,金角湾沿いまで出てバスに乗っていくしかない.この日は内容が盛りだくさんで時間が惜しかったこともあり,ホテルでタクシーを呼んでもらい直接行くことにした.
 フロントで待っているとタクシーがやってきたので乗り込む.イスタンブールの旧市街は道が狭くて車の運転は大変そうなのだが,さすがタクシーは慣れているのかすいすいと走りあっという間に到着した(地図を見ながらタクシーの走行をチェックしていたが,特に遠回りをしてボったくられることもなかった).
 この日の最初の目的地カーリエ博物館は,ビザンチン時代コーラ修道院と呼ばれていた場所であった.ここの歴史は古く,5世紀にさかのぼるともいわれているが,
 
歴史的に確認できるのは11世紀末の皇帝アレクシオス1世の義母の命によって造られた時である.その後修復が繰り返され,14世紀初頭のアンドロニコス2世時代の宰相テオドレ・メテキテスによって現在まで残る装飾が造られたとされている.オスマントルコによる征服後,ここもモスク(カーリエ・ジャーミィ)となったが内部のモザイク画は漆喰で塗り固められたため,ほぼ当時のまま保存された.そして第2次大戦後学術団体によって発掘され,その芸術性の高さから1958年博物館となり現在に至っている.
 タクシーを降りて,KARIYE MUZESI と書かれた門をくぐる.中ではこの街のあちこちで見かけるネコが日向ぼっこをしていた.博物館の建物は14世紀当時のままで,ドームをいただいたレンガ造りであり,その歴史の重さを感じさせていた.

カーリエ博物館の入り口

外部からの姿
 

イスタンブール名物,ネコです(笑)

14世紀の建物,日本でいえば南北朝時代

別の角度から

 


コーラ修道院のビザンチン美術

 受付で入場料を払って中に入る.まず正面にあったのが「祝福を与えるイエス」,教科書にも出てくる非常に有名なモザイク画だ.いきなりこんな大物を目にして圧倒されてしまった.館内はまだ朝早いというのに大勢の観光客でごった返していたが,そのほとんどは欧米系の団体観光客で日本人の姿はほとんどなかった.思うにここは旧市街の外れにあり,一方で日本の団体観光はイスタンブールを2〜3日で終えるため,ここは省略されるのだろうなと感じた(モザイク画はアヤ・ソフィアで見学してお終いなのだろう).
 聖堂は入り口付近にあたる外拝廊(ナルテクス),その奥の内拝廊,さらに奥のドームがある身廊,そして南側のパラクレシオンから構成され,ビザンチン末期のたくさんのモザイク画やフレスコ画が施されていた.

観光客であふれる外拝廊

こちらはパラクレシオン
 

カーリエ博物館マップ
 

1.祝福を与えるイエス

2.聖ペテロ

3.聖パウロ
 

4.左は聖堂を寄贈するメテキテスです


5.聖母とキリスト



6.キリストの系図(1)
アダムやノアなど旧約聖書の人物が描かれています
 

6の中心はキリストです



7.キリストの系図(2)
こちらにもダビデ,ソロモンなどの人物が

7の中心は聖母子です


 

8.マリアの誕生

9.マリア神殿への奉献

10.マリア,紫の糸を受ける
 

11.マリア,ヨゼフに委ねられる

12.身ごもったマリアの住民登録

13.カナの奇跡

 

14.パンを増やす

15.キリストが盲目の人を癒す

16.聖母マリアの死
 

17.復活(フレスコ画)

18.最後の審判(フレスコ画)

19.娘を生き返らせる
(フレスコ画)
 

20.最後の審判(フレスコ画)


21.聖母とイエス,天使ら(フレスコ画)

22.慈悲深き聖母マリア(フレスコ画)
 

23.聖母子

24.キリストの誕生


25.マリアを家に連れていくヨゼフ
 


テクフル・サライ

 カーリエ博物館の作品群を鑑賞した我々は外に出た.次は,ここからさほど遠くないファティエ・ジャーミィに向かう予定なのだが,せっかくだからと城壁を見に行くことにした.テオドシウスの大城壁は一昨日見に来ているのだが,天気が悪かったのと今度は城壁の内部から観察してみたかったからである.
 博物館から北西に向かう細い道をしばらく進んでいくと,レンガ色の城壁が見えてきた.近づいて見ると,城壁のあちこちに上に登ることのできる階段もあるようだ.とはいえ,日本の観光地にあるような立派な手すりなどはなく,勾配も急で結構怖い(階段自体の広さはあるのだが).城壁の上から外を眺めると,一昨日同様に開けた景色が広がっていた(かなり外れた場所だと認識していたのだが,ちらほらと他の観光客の姿も見受けられた).
 下に降りて今度はそのまま城壁に沿って歩いてみる.実はこの近くにビザンチン時代の世俗建築物としては唯一現存している宮殿(テクフル・サライ)の廃墟があるのだ.ここは12世紀に造られた宮殿跡と考えられており,大城壁から突き出した形になっている,末期ビザンチン建築を示す貴重な史跡らしい.我々が訪問した時には他に人はおらず,近くのコーラ修道院に団体観光客を降ろしたと思われる観光バスが停まっていた.

道の向こうに城壁が

立派な城壁です

城壁の上です
 

手すりもなく,かなり急な怖い階段です

テクフルサライ,13世紀の宮殿跡といわれます

観光バスの駐車場となっているようです
 


ファティエ博物館

 大城壁とテクフルサライを見学したのち,今度は元来た南東方面に向かう.今度の目的地ファティエ・ジャーミィは,ビザンチン時代のパナギア・パンマカリストス修道院になる.実はここの内部にもカーリエ博物館とほぼ同時代,14世紀のモザイク画がたくさんあるのだそうだ.ただ,ここのモザイクに関しては「公開されている」というガイドブックもあれば,逆に「公開されていない」と記述された本もあるなど情報が錯そうしている.なので,最悪中が見られなくても外観だけでも見られればいいなと思ったのである.
 地図を見ながら歩いていくのだが,道が入り組んでいてちょっと迷ってしまった.仕方ないのでその辺の人に道を聞きながらなんとかたどり着いた.
 で,中の様子をうかがってみると受付がある.おやっと思ってみると,FETHIYE MUZESI となっている.どうやら博物館になっているらしい.博物館なら安心して入れるということで入場料を払って中に入った.
 ここは先のカーリエ博物館に比べるとこじんまりとしていたが,それでも壁やドームには多くの美しいモザイク画が飾られていた.絵柄等からもカーリエ博物館とだいたい同じ時期のものであることがわかる.一番奥の壁に描かれたデイシスはほぼ完全な姿で保存されていた.一方でドーム天井にあるキリストと預言者のモザイクはかなり写実的で,フレスコ画だといわれても一瞬信じてしまいそうだった.
 また,ここは博物館になっている事実がまだ周知されていないのか,他の観光客はおらず完全貸し切り状態だったためゆったりと見学ができた(笑).

目印も少なく意外に迷う

これがファティエ博物館です(旧バナギア・バンンマカリストス修道院)

日干し煉瓦の内装が当時をしのばせます
 

聖母マリア

祝福をするキリスト

洗礼者ヨハネ
 
この3つのモザイク画(デイシス)は壁の3面を使って描かれている  

キリストと12人の預言者

聖者と思われます

これも誰なのか不明
 


モンゴルのマリア教会

 ファティエ博物館の見学を終えて外に出たが,この時時計を見るともう12時半になっていた.午後の予定もあり,さらには昼食のことも考えると,そろそろ移動を始めた方がいいようだ.午後は新市街の観光になるため,ここから金角湾沿いのバス道路に出たいところである.
 方角を確認して海に向かって歩き始めた.しばらく行くと,小高い丘の上に朱色の尖塔が見えた.あれはもしかして教会では! ということで急きょそちらに向かうことにする.近くに行ってみると意外に大きな建物である.ただ,見渡してもどこから入ったらいいのかわからなかった.困っていると地元の子供がやってきて,こっちだという.ついていくと,何やら裏口のようなところをノックしている.すると何やら一人のオジサンが出てきて事情を理解したのか,我々の方を見て手招きをしている.一瞬大丈夫なんだろうかと思ったが,たしかに教会から出てきたし,まあ大丈夫だろうと中に入った(件の子供にはチップをあげた).
 入ってみると確かに教会であった.中の説明文を読むと,どうやらここがモンゴルのマリア教会といって,現在イスタンブールで唯一ビザンチン時代以来途切れることなく正教会であり続けた教会らしかった.ちなみにモンゴルのマリアというのは,13世紀後半に政略結婚で,当時中東を抑えていたイルハン国の第2代アバカ・ハンに嫁いだデスピナという女性のことである(本名がマリア・パレオ

モンゴルのマリア教会

こちらにも塔が

祭壇のようです
 
ロギナであり,モンゴル人に嫁いだことからモンゴルのマリアと呼ばれる).彼女はコンスタンティノープルを奪還してビザンチン帝国を再興したミカエル8世の庶子である.夫の死後コンスタンティノープルに帰り,修道生活をしながらこの教会をたてたといわれている.
 この街に来て以来,元教会といわれる施設は多く見てきたが,改めて伝統ある現役の教会をみてまた違った感動を覚えたのだった.
 

聖堂内の装飾品@

聖堂内の装飾品A

聖堂内の装飾品B
 


タクシム広場へ

 教会を後にして丘を下っていく.正教会といえば,コンスタンティノープルの総主教座は現在も世界総主教座と呼ばれるように,東方正教諸教会のなかでもっとも権威のある総主教座である.実はこの近くにその総主教座のある教会があったはずである.せっかくだから寄ってみたいなと思ったのだが,時計を見たらもう1時過ぎ! ということで泣く泣くあきらめた.

タクシム広場(中央の建物は共和国記念碑)
 
 しばらく歩いているうちに,金角湾に面した大きな道路に到着,近くのバス停からバスに乗り込むことにした.まずは新市街の中心地,タクシム広場に行きたいのだが,運がいいことにやってきたバスがタクシム広場行きだった.トラムや地下鉄同様,バスもアクビルで乗ることができ便利である.
 バスは海沿いを走り,左折して金角湾に架かり旧市街と新市街をつないでいるアタチュルク橋を渡る.そこからさらに幹線道路を走ってまもなく終点のタクシム広場に着いた.
 タクシム広場はイスタンブール新市街の中心としてバスターミナルをはじめトラムや地下鉄のターミナルにもなっている.周囲には高層ホテルや高級ショップもあり,イスラム圏であることを忘れてしまうような西洋風の広場である.もう2時近くですっかりお腹が空いていたので,広場に面したカフェに入って済ませることにした.
 


軍事博物館

 カフェの昼食後,地下に降りてメトロに乗る.軍事博物館はタクシム広場から歩いても行けないことはないのだが,だいぶ遅くなってしまったのでやむをえない.
 オスマンベイ駅で下車後,地上に出て南へ歩く.まもなくそれらしい建物が見えてきた.門から入っていくと,ちょうど軍楽隊の演奏が始まるところだった(軍事博物館では午後3時から4時の間に軍楽隊の生演奏が行われる).昨日見たトプカプ宮殿の団体と一緒なのかどうなのかはわからなかったが,やっぱり生演奏は迫力がある.

博物館の入り口に飾ってある大砲(15世紀にこの街の攻略に活躍したウルバヌスの大砲のようです)
 

これは有名な「ジェッディン・デデン」という曲です
 
   
 軍楽隊の演奏が終わって今度は博物館の中に入る.ここには中世から近代にかけての刀剣や銃器,盾や軍服などの非常に多くの軍装が展示されているが,なんといっても重要なのは,1453年4〜5月にかけてのオスマントルコ帝国スルタン・メフメト2世によるコンスタンティノープル攻囲戦の様子が描かれたコーナーである.ここにはオスマン軍の攻撃を防ぐためビザンチン軍が金角湾を封鎖するのに使った鉄鎖が展示されているほか,同年5月29日のオスマン軍最後の総攻撃の様子がジオラマ等で再現されていた.オスマン帝国にとっては栄光の1ページだが,一方でビザンチン帝国にとっては首都陥落の悲劇の日である.ジオラマではビザンチンの双頭の鷲の旗が引きずり降ろされている場面まで再現されており,ビザンチン皇帝にとっては涙なしには見られない光景であった.
 結局入館時間が遅かったこともあって,全部見られないうちに閉館時間の午後5時になってしまい,やむなく退出したのだった.,

この街を征服したスルタン,メフメト2世

金角湾防衛に使用された鉄鎖
 

攻囲戦当時の情勢(テクフルサライが描かれている)

双頭の鷲の旗が引きずり降ろされている!

ウルバヌスの大砲は城壁突破におおいに活躍した
 

16世紀には鉄砲が発達したため,こうした鎖帷子も出現した

近世の盾や兜


こういう遊びは定番です (^。^)

 

コンスタンティノープル陥落の事実を聞いた当時の作曲家
G.Dufyは驚きと悲しみに中でこの曲を作ったことでしょう.
 


ガラタ塔

 軍事博物館を後にした我々は再びメトロを利用してタクシム広場に戻った.すでに5時を回っていることもあり,今日のところはこのまま旧市街に戻ることにする.タクシム広場からはメトロと反対方向にトラムが走っているのでそれに乗ることにした.旧市街方面のトラムは結構大型で近代的なのだが,こちら新市街のトラムは完全にレトロな路面電車の雰囲気である.電車の走る通りはイスティクラル通りといって,街を代表するショッピングストリート,洒落たカフェやショップが立ち並ぶその光景はとてもヨーロッパ的な雰囲気である(コペンハーゲンのストロイエ通りやウィーンのケルントナー通りの趣か).今日はトラムで通過だが,日を改めてじっくり歩いてみたいなと思った.
 小さな路面電車は約1.5キロの路線をガタゴトと20分くらいかけて,終点のテュネル広場に到着した.トラムはここで終了だが,ここからは地下鉄が南のカラキョイまで伸びている.実はこの地下鉄,建設されたのが1872年(明治5年)であり,東洋で一番古い地下鉄とされているのだ(ちなみに日本最古の地下鉄は今の東京メトロ銀座線の上野−浅草間で,開業は1927年(昭和2年)である).旧市街に戻るにはこれに乗るのが早いのだが,そんな私の目に映ったのが一本の塔,そうガラタ塔である.実は明日の夕方このガラタ塔の上にあるレストランでディナーショーを楽しむ予定になっているのだが,せっかく近くまで来たのだから下見もかねて寄り道しようという考えが浮かんだのである(笑).
 ガラタ塔は14世紀にジェノヴァ人によって建設された塔である.当時コンスタンティノープルといえば今の旧市街であり,新市街にはこのガラタ地区にジェノヴァ人の居留地があるばかりだったからだ.塔は高さ66.9メートルの石造りである(地上9階建て相当).昔は長いらせん階段をひたすら登ったのであろうが,現在はエレベーターが整備されているので見学は楽である.

新市街のトラム

イスティクラル通りです

テュネル広場から海までは坂になっている

ガラタ塔
 
 塔のテラスは結構狭く,そこにたくさんの観光客がやってきているために大賑わいであった.しかしながら,ここからはイスタンブールの市街地が非常によく見える.塔自体の高さもさることながら,立地場所がそもそも丘状になっているため余計に展望がいいのだ.金角湾の対岸の旧市街にあるアヤ・ソフィアやブルーモスクはもちろんのこと,トプカプ宮殿内のアヤ・イリニ教会の姿も見えた.またボスポラス海峡を挟んだアジア側も見える.自分がいるこの塔はヨーロッパの端っこであり,今まさに自分がヨーロッパとアジアの境にいるのだと実感する風景であった.   

金角湾と旧市街,岬の先端にトプカプ宮殿がある

ボスポラス海峡を挟んでアジア側を望む

こちらは金角湾の奥の方です

 

アヤ・ソフィア(右)とアヤ・イリニ教会跡(左)です

金角湾を渡るガラタ橋にトラムが走っているのが見える

約560年ぶりのお国入りで嬉しそうです
 


ラマダンの夜

 ガラタ塔を後にして,そのまま坂を下って海の方に出た.ここがカラキョイで,旧市街と新市街をつなぐガラタ橋のふもとになる.ここからはトラムに乗って行くことにした.
 ヒッポドロームにほど近いスルタンアフメット駅で下車して,そのままヒッポドロームの中を突っ切ってホテルに向かう.見渡すとすでにたくさんの露店が立ち並び,大勢の客で賑わっていた.実は今イスラム諸国はラマダンの時期を迎えている.日本語では断食月と呼ぶのであるが,断食と言っても別に全く食べてはいけないわけではなく.あくまでも日が出ている間はということであり,日没後には食べても構わないのだ.そんなわけで,この時期イスラム教徒たちは日没を待って家族や友人たちと連れ立って外食に出かけ,一方外ではそういう彼らを相手にする屋台がたくさん立ち並ぶのである.
 この日はせっかくだから,そのラマダンの夜で賑わう街に繰り出して夕食にすることにした.急いでホテルに戻ってシャワーを浴び,さっぱりしてからヒッポドロームに繰り出した.
 すでに日は沈んでおり,ヒッポドロームはお祭りのような大賑わいだった.その雰囲気は日本の縁日のそれに非常によく似ている.ただ大きく違うのは,日本の縁日では大人たちはアルコールが入って出来上がっているパターンが多いのだが,ここではイスラムの戒律もあってみんな素面で盛り上がっていることである(酔ってない分日本の縁日よりはガラは悪くない 笑).我々もこうした人々に交じって舞台上でのパフォーマンスを鑑賞したり,トルコ風の伸び〜るアイス,ドンドゥルマに挑戦したりして過ごしたのだった(夕食はその後近くのカフェで).

大勢の人で賑わう夜のヒッポドローム

お花見のようでもあります

たくさんの屋台が並ぶ

ドンドゥルマを食べるK
 

モスクにもきれいな飾りが

舞台上のパフォーマンス

京都州立大学って…
 

大賑わいのヒッポドロームの様子です

 

ドンドゥルマは注文してから食べるまでが一大イベントです(笑)
 



 

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