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ビザンチン帝国の歴史


7.ビザンチン帝国の黄昏(14〜15世紀)

 
 ようやくのことで再建されたビザンチン帝国(パライオロゴス朝)だったが,その内実はお寒いものであった.ラテン帝国半世紀の支配の間に,首都の財宝の多くはヴェネチアなどの西欧の商人に売り払われ,国庫財政が逼迫していることに変わりはなかった.経済的には農業はなんとか自立してはいたが,肝心の商業はすっかりイタリア都市に牛耳られていた(注1).領土的には旧ラテン帝国とニカイア帝国の領域(バルカン半島の南東部とアナトリア半島西部)に押し込められていた.

14世紀半ば頃のビザンチン帝国(文献1より改変)
 帝国は「コンスタンチノープルといった膨大な頭を持つ,衰弱したみすぼらしい,ひ弱な肉体」を晒していたのである(文献3).西方にはラテン帝国の再興を目指す教皇庁とベネチアが虎視眈々と機会を窺っていた.さらにシチリア王シャルル1世は亡命中のラテン皇帝ボードワン2世の後見として,帝国に対する野心をむき出しにしていた.ビザンチン皇帝ミカエル8世はこれら西方の危機に対処するため,ベネチアの商業上のライバルであったジェノバと組んで,外交的に,時には軍事力も行使して防衛を図った.幸いなことに,1282年に有名な「シチリアの晩鐘」事件(注2)が起こりシャルルはシチリア島から退去,帝国西方の危機はひとまず終息した.
 こうした中,今度は東方国境に危機が発生する.
オスマン・トルコの勃興である.この国は13世紀のモンゴル人の征服によって西方に追いやられたトルコ人の一部族が,13世紀末に首長オスマンによって統一されたものであった.14世紀に入ると彼らはアナトリアに着々と領土を広げ,それに反比例してビザンチン帝国の領土は急速に縮小していった(14世紀末にはアナトリア半島の領土を全て失う).その後トルコはバルカン半島にも勢力を伸ばし(注3),1365年にはアドリアノープルを占領,ここに首都を定めた.
 バルカン半島内部に首都を置いたことは,トルコの野心がヨーロッパにあることをはっきりと示していた.危機を抱いたビザンチン皇帝マヌエル2世は西方に対して救援を求めることを決断する.当初ハンガリー王ジギスムント(後の神聖ローマ皇帝)が援軍を派遣した.すでにセルビア,ブルガリアが征服され,ハンガリーはトルコと直接国境を接するようになっていたからである.しかし1396年ニコポリスの戦いでハンガリーは大敗を喫し,今度はコンスタンチノープルがトルコ軍に包囲されることになる.1399年マヌエル2世は再度西方に救援を求めた.しかも今回は救援要請の使節を派遣するのでなく,皇帝自らが西ヨーロッパに出向くという力の入れようである.こうして1399年から1402年にかけてマヌエル2世はベネチアなどイタリア諸都市,パリ,ロンドンと旅をした.彼は各地で熱烈な歓迎を受けたものの,肝心の援軍派遣については結局なんらえるものはなかった(注4).トルコによる首都包囲は徐々に狭まり,皇帝不在の街では降伏もやむなしという意見も出始めていた.こんな危機的状況下の1402年,

 
突然奇跡が起こった.

 
14世紀後半,中央アジアに勃興したチムール帝国は東西に領土を広げていた.カリスマ指導者チムールに率いられた軍勢は1402年アナトリア半島に侵入した.突如出現した新手の敵に驚いたトルコのスルタン,バヤジット1世はコンスタンティノポリスの包囲を解いて直ちに迎撃に向かう.このアンカラの戦いはチムール軍の圧勝に終わり,スルタンバヤジットが捕虜にされたオスマン・トルコは崩壊寸前の状態に追い込まれてしまう.当時パリにいてトルコ軍壊滅の知らせを聞いたマヌエル2世は急遽帰国することになった.この時,彼が軍を率いて敗残のトルコを攻撃すれば,失地回復も可能だったろう.しかし,この時のビザンチン帝国には瀕死のトルコに最後のとどめを刺す力すら残されてはいなかったのである.こうして手をこまねいているうちに,敗戦の痛手から立ち直ったオスマン・トルコは再び勢力を盛り返す.1430年には帝国第2の街テッサロニケがトルコ軍に包囲され陥落した.これを受け皇帝ヨハネス8世は父マヌエル2世と同様,西方に救援を求める旅に出た.このとき彼は西ヨーロッパの支援を得るため,東西教会の統一(もちろん東方教会に対するローマ教皇の優位権を認める内容)にも同意したのである.西ヨーロッパは大喜びで,イギリスでは全ての教区教会で鐘が打ち鳴らされたが,コンスタンチノープルでは猛烈な反対運動が起こった.第4回十字軍以来,帝国の住民には西欧に対する強い不信感があったのである.ある高位聖職者は言っている「この町でローマ教皇の三重冠を見るくらいなら,トルコ人のターバンを見る方がましだ」(文献10).国民の総スカンにあったヨハネス8世も東西教会の統一案を引っ込めざるをえなかった.こうして帝国を救う(かもしれない)最後のチャンスは失われた.
 1451年トルコで弱冠19歳の若きスルタンメフメト2世が即位する.彼はただちにコンスタンチノープル攻略に着手した.ハンガリー人技術者ウルバヌスの設計した攻城砲(注5)を作らせ,コンスタンチノープルのすぐそば,ボスポラス海峡のヨーロッパ側の岸に砦を建設した.外部との連絡を遮断するためである.こうして1453年4月にメフメト2世は自ら陣頭に立ってコンスタンチノープル包囲を完了した.この時ビザンチン帝国の皇帝となっていたのはヨハネス8世の弟のコンスタンチヌス11世であった(彼はこの都を建設した大コンスタンチヌス1世から数えて80代目の皇帝であった).この時,街の防衛に当たっていた兵力は西欧からの援軍を含めてわずか七千人に過ぎなかった.この防衛軍の指揮をとったのが陸軍はジェノヴァ人のジュスティニアーニであり,海軍はベネチア人トレヴィザンであった.対するトルコ軍は20万に迫る大軍であった.
 4月12日,まずは都の陸側の城壁(1000年の間一度も破られなかったテオドシウスの大城壁)に向かって,ウルバヌスの大砲が火を噴いた.たちまち城壁はあちこちが崩れていった.しかしビザンチンの住民は女子供まで動員して崩れた城壁を必死で補修した.1週間の準備砲撃の後,4月18日にメフメト2世の最初の総攻撃が行われたが,守備隊は何とかこれを撃退することに成功した.

1453年4月のコンスタンチノープルの状況(文献10より).
 さらに2日後,4月20日に今度は海戦が発生,ここでも帝国側が勝利したため住民の士気は大いに上がった.一方のメフメト2世は激怒し,海軍指揮官を更迭するとともに一つの作戦を命じた.4月22日の白昼,コンスタンチノープルの金角湾側の城壁を守っていた守備兵たちは驚くべき光景を目にした.目の前の山を越えてトルコの軍船が次々と金角湾に滑り落ちてくるのである.あれよあれよという間に金角湾内はトルコの軍船で埋め尽くされた.
 金角湾がトルコに奪われたことで皇帝をはじめビザンチンの人々は大きな危機感を抱いた.元々金角湾はボスポラス海峡から鉄鎖で防御された首都の内海であり,海の防御が強力であるためここに面した街の城壁が最も低く,しかも一重しかなかったのである.1204年の第4回十字軍によるコンスタンチノープル攻略もこの金角湾側からの侵入であった.この事態にビザンチンの海軍を預かるトレヴィザンは,夜間の奇襲攻撃によるトルコ艦隊の撃破を考えた.しかしこの作戦はトルコ側の知るところとなり,4月28日夜半の奇襲攻撃は失敗しビザンチン海軍は大きな損失を受けた.
 5月に入りトルコ軍による包囲はますます厳しくなった.陸側のみならず,金角湾側からも大砲による砲撃が加えられ,さしもの城壁も損傷がひどくなってきた.そして5月7日にトルコ軍による第2回の総攻撃(陸側の大城壁に対して)が行われた.守るビザンチン側も必死であったが,攻めるトルコ軍兵士も必死であった.今回の総攻撃に参加したトルコ軍の主力は,ビザンチンと同じくキリスト教を信仰するバルカン半島の諸民族であった(トルコに征服され従軍させられていた)が,攻撃してくる彼らの背後にはスルタン親衛隊のイエニチェリ軍団が抜刀して控えていた.恐怖に駆られて退却する自軍兵士を斬り殺すのが彼らの役割だった.まさにトルコ軍兵士にとっては進むも死,退くも死という命がけの戦いであった.しかしこの第2回総攻撃も失敗に終わった.
 その後メフメト2世は再び大規模な砲撃を行い,5月12日には第3回の総攻撃を実施.今回はトルコ人の精鋭部隊を主力とした攻撃であったが,ビザンチン側の必死の防衛で三度撃退された.しかしこの戦いではビザンチン側にも多くの死傷者がでて,防衛力は着実に低下していった.こうした状況下街の住民の動揺も大きくなっていった(注6).こうした守備側の状況を見透かしたかのようにメフメト2世は最後の総攻撃を決意した.
 5月28日夜,トルコ軍の全軍を挙げての総攻撃の火ぶたが切って落とされた.防衛軍も奮戦し戦いは一進一退の状況となる.こうして5月29日の夜明け頃,たった一本の矢が勝敗を決定付けた.最前線で指揮を取っていた,ビザンチン陸軍の主将,ジェノヴァ人ジュスティニアーニの右首下を一本の矢が突き刺したのである.彼はもんどりうって倒れ,部下によって後退させられた.主将の負傷,後退を知った守備兵は動揺し一斉に退却を始める.皇帝やビザンチン高官は必死で彼らを押しとどめようとしたが,戦線の崩壊は明らかであった.守備兵の退却を知ったトルコ軍は勢いを増して城壁に攻めかかる.ついに城壁の一角が崩されトルコ兵がなだれのように侵入してきた.彼らは城壁の塔に掲げられていたビザンチンの旗”双頭の鷲”を引き摺り下ろし,代わりにトルコの旗”赤地に白い半月”を高らかに掲げたのだった.
 塔に翻った赤い旗を見た皇帝コンスタンチヌス11世は全てが終わったことを知った.この時彼に従っていた騎士はわずかに三騎,周囲は逃げ惑う兵士や住民で大混乱であった.侵入してきたトルコ軍は羊を襲う狼のように,そんな彼らに攻撃を加えていた.コンスタンチヌス11世は紅の大マントを脱ぎ捨て,皇帝の印である服の飾りを自ら剥ぎ取り,「わたしの胸に剣を突き立ててくれる,一人のキリスト教徒もいないのか」(文献13)とつぶやき,ひとりトルコ軍の中に切り込んでいった.

 その後皇帝の姿を見たものは誰もいない.

 1453年5月29日,コンスタンチノープルは陥落し,1000年以上にわたって続いた東ローマ帝国(ビザンチン帝国)は滅亡した.同日午後スルタン,メフメト2世は市内に入城し,聖ソフィア寺院でアラーの神に感謝の祈りを捧げたのだった.この時からビザンチン帝国の都コンスタンチノープルはオスマントルコ帝国の首都イスタンブールになった



注1) 十字軍の時代から海軍力が衰えたビザンチン帝国は,ベネチアやジェノヴァに商業上の特権(関税の免除など)を与えるのと引き換えに彼らの海軍力を利用するようになっていた.このためパライオロゴス朝時代の帝国は,いくら交易を行っても利益は全てこれらイタリア都市に行くようになっていたのである.
注2) 当時シチリア島を支配していたのはフランス系の王朝であり,住民であるイタリア系と対立していた.1282年3月30日にフランス人兵士が地元の女性に手を出したことに住民が怒り暴動が発生,4000人以上のフランス兵が殺されたという.暴動が発生した時に晩鐘が鳴ったことからこの事件をシチリアの晩鐘(シチリア島の夕べの祈り ヴェルディに同名のオペラがある)と呼ぶ.
注3) 特に1389年に起こったコソボの戦いは有名である.この戦いでセルビアはオスマン帝国に屈服し,長い冬の時代に突入した.この事件は最近のコソボ紛争の遠因にもなっている.
注4) 度重なる十字軍の失敗によってローマ教皇の権威は地に墜ちた.また従軍していた騎士や諸侯が戦死するなど没落し,相対的に国王の権力が強まった.その一方14世紀前半のペストの大流行で農村人口が激減すると,耕作に当たる農民は貴重な存在となりその権利を強めていった.こうして西ヨーロッパの封建制度は崩れていき,かつてのように教皇が号令をかけると軍隊が集まる時代ではなくなっていたのである.
注5) 当初ウルバヌスはビザンチン宮廷にこの大砲を売り込んだが,当時のビザンチン側には代金を支払うだけの財産がなかった.

注6) 古来コンスタンチノープルには街を開いたコンスタンチヌスと同じ名前の皇帝の治世に滅亡するという言い伝えがあり,丁度当時の皇帝がコンスタンチヌス11世であったことから,この預言がまことしやかに広がっていた.

オスマントルコの若きスルタン
メフメト2世

ビザンチン帝国最後の皇帝
コンスタンチヌス11世


G. デュファイ作曲によるコンスタンチノープル聖母マリア教会の嘆き
 

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