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 SINCE 2011年9月25日


ビザンチン帝国の歴史


4.ビザンチン帝国の発展と東西教会の対立(9〜10世紀)

 8世紀初めにレオン3世が即位した時,ビザンチン帝国は滅亡の危機に瀕していた.前世紀以来中東からアフリカ北岸,イベリア半島と地中海世界を席巻したイスラム教徒(ウマイヤ朝)が,コンスタンチノープル攻略を目指して押し寄せてきたのである.717年から718年にかけて首都はイスラムの陸海軍によって包囲された.イスラム側は今度こそ街を陥落させようと(注1)大軍を動員してきたのである.
 陸側については想像を絶する高い城壁(テオドシウス2世の大城壁)に阻まれ攻略は困難であり(侵攻前にビザンチン側では城壁前の堀を更に深くして敵の攻撃に備えていた),主攻方面は海側であった.

10世紀末のビザンチン帝国領(文献1より改変).
 イスラム教徒は1千隻もの大海軍(主としてカルタゴやエジプトから徴集したという)を押し出して海側の城壁に攻めかかった.数の上では圧倒的に優勢である.しかし,「火の船」と呼ばれるビザンチン側の特殊艇の活躍によって,イスラム船は次々に焼き払われた.この特殊艇に使われたのが「ギリシャの火」と呼ばれた秘密兵器である(注2).さらにはブルガリア人による援軍や717年の冬の寒さがイスラム軍を苦しめ,結局718年彼らは撤退を余儀なくされた.テオドシウスの大城壁とギリシャの火,そしてスラブ人の援軍によって帝国は危機を脱したのである.
 
この717年から718年の包囲を撃退したことによってビザンチン帝国の危機は一段落し,この後徐々に発展期に入ることになる.体外的な危機が去った帝国に次に起こった問題が宗教問題であった.
 ローマ・ビザンチン時代を通じて宗教問題は常に国を揺さぶってきた.7世紀にエジプト・シリアがあっさりと帝国の支配を離れたのも宗教問題が絡んでいる.392年のテオドシウス大帝によるキリスト教の国教化以来,異端問題は常に帝国の悩みの種であった.古くは4世紀の
アリウス派アタナシウス派の対立があり,コンスタンチヌス1世はニカイアの公会議でアタナシウス派(三位一体説)を正統とし,アリウス派を異端として追放した.5世紀にはネストリウス派の問題が起こり,さらに6世紀には単性説が盛んになった.ユスチニアヌス1世の時代,后妃テオドラが単性説に好意的であったこともあり,これらの教義はエジプトやシリアで優位に立っていた.正統説と単性説の対立は教会内部の主導権争いも絡んで次第に複雑化する.7世紀にヘラクレイオスは両者の妥協を図るべく,新たに単意説(これには時の教皇ホノリウスも乗ったという)を作ったがこれは両陣営からあっさりと拒絶されて不発に終わった.こうした状況下でペルシャやイスラム教徒の侵攻が始まったのである.エジプトやシリアなど単性説が優位な地域は,まるで近親憎悪のように妥協できない正統説のビザンチン帝国の支配よりも,宗教的にはより寛容(と思われた)なペルシャやアラブの支配を選んだのである.
 しかし,結果的に単性説の地域が切り離されたことで国内の宗教問題は解決した.以後はもっぱら外部との問題になっていく.具体的には西方の
ローマ教皇との対立である.4世紀以降ローマ皇帝はキリスト教の保護者であった.5世紀の西ローマ帝国の滅亡後も形式上はビザンチン皇帝が全キリスト教会の保護者を任じていた.一方キリスト教会では各地に総主教座が置かれていたが,もっとも権威があるのはローマ総主教座(ローマ教皇)である.聖ペテロを始祖とするローマ総主教座はなんと言っても教会の最高権威であり,この点については首都コンスタンティノポリスの総主教も一目置く存在だったのである.古代キリスト教には5大聖地があったが,ローマのみが西方で,他の4つ(コンスタンティノポリス,アンティオキア,エルサレム,アレキサンドリア)は全て東方に存在していた.5世紀以降帝国が東方化すると,ローマ教皇のいるローマ市のみが次第に切り離されていったのである.それでも6世紀のユスチニアヌスの時代まではローマ市が帝国領に復活した時期があった.また歴代皇帝もローマ教皇に対する支援を続けており,教皇の周囲のゲルマン人もその多くが異端のアリウス派であったため,教皇も遠く離れた皇帝を頼らざるをえなかった.しかし7世紀以降帝国が決定的に東方化し,西方ではゲルマン人で唯一アタナシウス派を受け入れたフランク族が勃興してくると,次第に両者の関係はギクシャクしてくる.
 遠くの親戚より近くの他人という言葉は世の東西を問わない.遠い首都コンスタンチノープルにいて,何もしてくれない皇帝に対する不信感が湧き上がってくるのも不思議はないだろう.またそんな皇帝のそばにいて,繁栄する都でぬくぬくと暮らしているコンスタンチノープル総主教に対する妬みもあっただろう(教皇といえども人間,教会の最高権威者である自分がこんな惨めな境遇におかれているのに,首都で偉そうにしている総主教は憎たらしい存在だったに違いない).その一方フランク族は教会に土地を寄進してくれた(いわゆるピピンの寄進),教皇としては泣くほど嬉しかったに違いない.こんな時に決定的な事件が起こる.
 きっかけは8世紀に帝国の危機を救ったレオン3世が始めた,いわゆる聖像破壊運動(
イコノクラスム)である.元々キリスト教はユダヤ教の中から生まれた宗教であり,偶像崇拝(聖像礼拝)を禁止していた.聖書にも神の像を作って拝んではいけないと書いてある.聖ペテロやパウロの時代(原始キリスト教の時代)には聖像などなかったのである.しかし時代が下ってくると,キリスト教も変化してくる.ゲルマン人などへの布教には,聖像はなくてはならないものだったからである(無知な大衆に神を信じなさいといった時,「神様ってどんなの?」と聞かれて,形而上学的な難しいことを言うより,聖像を見せて「これが神様だ」といったほうがよっぽど簡単である).しかもキリスト教では神が受肉という形で人間の姿をして現れるため,人間の姿をしたキリストを崇めることは許されるはずだという議論も現れた.ゲルマン人への布教を積極的に進めていたローマ教皇はもちろん聖像礼拝賛成派であった.しかし皇帝レオン3世は原始キリスト教の理念に帰ろうとばかりに聖像を破壊し,従わない聖職者を処罰し始めた.ローマ教皇は激怒する.いくら皇帝とはいえ,教会の教義の問題を勝手に決めるとはけしからんというわけでだ.しかし,レオン3世以後もコンスタンチヌス5世(注3)など聖像破壊論者の皇帝が続き,ローマ教皇との関係はどんどん険悪になっていった.こうした中ついに教皇は思い切った行動に出る.800年にフランク王国国王カール大帝(シャルル・マーニュ)に西ローマ帝国の帝冠をかぶせたのである(注4).これは,「今後はもうあなたには頼りません」という教皇からビザンチン皇帝への意思表示に見えた.もっとも,さすがにこれは僭称の臭いがするためか1代限りで終わったが(ビザンチン皇帝からすれば,フランク王など蛮族の酋長にすぎず,そんな奴が皇帝を名乗るなどチャンチャラ可笑しかったに違いない),10世紀に東フランク王オットー1世が神聖ローマ皇帝の帝冠を受けると,ローマ教皇はいよいよ西方に独自の道を歩むようになるのであった.
 こういう状況下で東西教会の分裂は決定的になり,9世紀半ば(863〜867)にフォチオスの分裂を経て,11世紀半ばにローマ教皇の使節とコンスタンチノープル総主教がお互いに破門しあって両教会は最終的な分裂に至るのである(この相互破門は20世紀後半になるまで解消されなかった).
 このように宗教的には不安定な時代であったが,政治的には安定しており(このころには,さすがのイスラム帝国も分裂して勢力を弱めていた),軍管区制(テマ制)と優秀な官僚機構(注5)のおかげて国家の収入は着実に増加し,一方テマ制から動員される優秀な兵員は帝国の軍事力の向上に貢献していた(注6).このような力を背景にビザンチン帝国は東西に向かって再びその領土を広げていった.10世紀には久しぶりにアンティオキアやパレスティナ・シリアの一部,クレタ島などを奪回し,西方ではブルガリア人を撃破してバルカン半島のほぼ全域を支配下に治め,さらにはイタリア半島南部の確保にも成功したのだった.


注1) アラブ人は674年から678年にわたって最初のコンスタンチノープル包囲を行っていた.
注2) 帝国を何度も危機から救ったといわれる秘密兵器.筒のようなものから,火炎放射器のように火を噴出すように使ったらしい.水をかけても消えず,かえって燃え広がったという.「燃える水」,「液体の炎」とも呼ばれる.生石灰,松脂,石油,硫黄などを原料としていたといわれているが,門外不出とされ,帝国の滅亡と共にその製法も失われてしまった.
 ギリシャの火を使っているところ.
 
注3) 彼は父レオン3世以上に徹底した破壊論者であり,後の教会からコプロニュモス(糞)とあだ名された.
注4) この時シャルルマーニュに戴冠したローマ教皇の名はレオ3世.奇しくも聖像破壊令を出したビザンチン皇帝と同じ名前(ラテン語読みとギリシャ語読みの違いはあるが)だが,もちろん赤の他人.
注5) ビザンチンの官僚機構といえば,非効率的など評判が悪いが,この9〜10世紀ごろの官僚機構はシンプルで(中央官庁の定員が600名程度と以外に少なかった)その能力も,同時代の他国の官僚と比べて優秀であったと言われている(文献1)
注6) テマ制の軍隊は農民からの徴兵によって成り立っており(軍役が税金の代わりになるなど農民に対する保護政策も取られていた),傭兵主体のユスチニアヌス時代の軍よりも士気ははるかに高かった.


 

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