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 SINCE 2011年9月25日


ビザンチン帝国の歴史


6.第4回十字軍による中断,そして再興(13世紀)

 マヌエル1世の死後帝国は混乱に陥った.度重なる戦争で国庫は空になり,後継の皇帝は無能であった.そこに(ビザンチンらしい)宮廷陰謀が起こる.1195年皇帝イサキオス2世は実の弟の起こしたクーデターによって両目をくりぬかれ幽閉された.クーデターを起こした弟が皇帝となったが,彼は先帝の息子アレクシオスをつれて遠征に出た.父の恨みを忘れていない息子は途中何とか脱走しイタリアに渡る.この時イタリアにはインノケンティウス3世(注1)の肝いりで始まった第4回十字軍が集結していた.

13世紀前半のビザンチン(ニカイア)帝国(黄色)とラテン帝国(ピンク)(文献3より改変)
 しかしこの十字軍は資金面で行き詰まりベネチアで立ち往生していた.こんな時にアレクシオスが現れたため事態は思わぬ展開を見せた.ベネチアが十字軍士に対して,アレクシオスがビザンチン皇帝になるように援助すれば,ビザンチン帝国が十字軍の聖地への渡航費用を工面してくれるに違いないと提案したのである.十字軍内部では同じキリスト教徒を攻撃するのは納得できないと反対する向きもあったが,資金がなくては十字軍そのものの目的が達成できないため,最終的には同意して第4回十字軍は聖地ではなく,コンスタンチノープルに向けて出立した.
 1203年6月突如現れた十字軍とベネチアの艦隊を前にしたビザンチンの国民はその威容に驚いた.十字軍はアレクシオスを押し立てて,「これが君たちの主人だ」と言ったが,もとより住民には何のことかわからない(そりゃそうだ,幽閉された先帝の息子など知るはずもない).このため十字軍はコンスタンチノープル攻撃を始める.さすがに陸方面は大城壁に阻まれ攻略は不可能だったが,海側の城壁に弱点があった(海側の城壁は陸側に比べて低い).7〜8世紀のアラブ人の船は高さが低く,城壁越えは不可能であったが,今回のベネチアの軍艦は巨大で優に城壁に迫る高さを持っていた.
 これは敵わぬと観念した皇帝は幽閉していた兄を釈放すると,自分はありったけの財宝を持って逃亡,こうして復位したイサキオス2世は息子アレクシオスを都に招きいれ,
アレクシオス4世として即位させたのだった.
 ここで新帝が十字軍に約束の金を払えば何も問題はなかったのだが,宮廷の金庫はスッカラカンであった.ない袖は触れないため皇帝は首都郊外に十字軍用の駐屯地を造り,金ができるまでそこで待機するよう命じた.十字軍士は物珍しさも手伝ってしばしば都見物に出かけたが,田舎者の悲しさか粗暴な振る舞いが多く(注2),たちまち民衆の反感を買った(この辺は源平争乱期の木曽義仲を髣髴させる.ちなみに木曽義仲が京都に入ったのは第4回十字軍のわずか20年前である).こうした中1204年1月にアレクシオス4世が暗殺された.十字軍にとっては約束の金が反故にされる事態となったのである.怒った彼らは首都攻略を決意した.この時ビザンチン側にはもう防衛の力はなく,1204年4月13日にコンスタンチノープルは陥落,首都は3日間の略奪に晒された.そしてフランドル伯ボードワンを皇帝とするラテン帝国が建国され,ここにビザンチン帝国は滅亡するはずだった.

 
しかし! それでも帝国は生き延びたのである.この時帝国が存続した最大の要因は,皮肉なことに11世紀以来の大土地所有の発展によるテマ制の崩壊とプロノイア制であった.帝国各地に大貴族が割拠するために,結果的に地方に強力な亡命政権が作られたのである.こうしたビザンチン人による地方政権はいくつかあったのだが,最も有力なのが首都陥落前の最終皇帝の弟であるテオドロス1世のニカイア帝国であった.
 ニカイア帝国の皇帝は,ラテン帝国の皇帝は単なる簒奪者であり,自分こそが真のローマ皇帝であることを内外に宣伝した.このためにわざわざ新たに総主教を選出して,皇帝即位の儀式も厳かに執り行っている.この後ニカイア帝国は国内の開発を進めて経済力を着けていった.幸いなことにこの頃バルカン半島においてラテン人に対する反乱が起こっており,十字軍は西方に転戦せざるを得ず,彼らが東方のニカイア帝国を攻撃してくる心配はなさそうだった(この後十字軍はは1205年のアドリアノープルの戦いで大敗を喫して壊滅する).こうした中ニカイア帝国は着々と反撃の機会をうかがい,1261年についにコンスタンチノープル奪回に成功したのだった.ここにビザンチン帝国は再興された(注3).


注1) ローマ教皇権絶頂期の教皇といわれる.ハインリヒ6世死去後の神聖ローマ帝国皇帝選挙での「教皇権は太陽,皇帝権は月」という演説は,当時の教皇の圧倒的な権力をしめすセリフとして有名.その他イギリスのジョン王(失地王.彼の悪政によってイギリスに大憲章(マグナカルタ)」ができた)を破門したりしている.

 インノケンティウス3世(在位1198−1216)

注2) 当時ビザンチン帝国内にはイスラム教徒も多く住んでおり,首都コンスタンチノープルにもモスクがあった.ビザンチン人は古くから異教徒との付き合いも多く(古くはユダヤ教やゾロアスター教,7世紀以降はイスラム教),たとえ宗教が違ってもそこはそれ,大人の対応をしていた.これに対して西ヨーロッパに逼塞していた十字軍士は”異教徒=敵”という単純な図式で首都在住のイスラム教徒に迫害を加えたのだった.
注3) 当時ニカイア帝国が周辺諸民族の攻撃を免れた原因の一つにモンゴル人の存在がある.ビザンチン帝国が中断した13世紀はモンゴル人の大征服の時代であり,東ヨーロッパからアルメニアといった地方もモンゴル人の攻撃を受けていた.このためニカイア帝国周辺の国家もモンゴルの余波を受けて勢力を弱めていたのである.


 

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