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 SINCE 2011年9月25日


ビザンチン帝国の歴史


1.ローマ帝国の分裂と西の帝国の滅亡(4〜5世紀)

 2世紀に最盛期を迎えたローマ帝国は3世紀に入ると内憂外患(注1)のために弱体化し,国内は混迷の度を深めていった.軍隊によって次々と皇帝が立てられる軍人皇帝時代を経て,3世紀後半にディオクレティアヌス帝の登場によってようやく国内の安定が図られた.ディオクレティアヌスは広大になりすぎた帝国を二人の正帝と二人の副帝による四分割統治によって乗り切ろうとしたのである(注2).この後ローマ帝国は西方と東方がそれぞれ独自の歩みをすることになった.

4世紀東西分裂時の東ローマ帝国領(最新世界史図説より改変)
  4世紀にはいるとローマ帝国の重心は次第に東方に移っていく.元々帝国の穀倉地帯ともいうべきエジプト,文明の先進地であるメソポタミアやギリシャは東方にあり,さらにこの頃急速にその影響力を増してきたキリスト教の中心地もまた東方であったからだ.人口も東方に多く,ディオクレティアヌス亡き後の後継者争いを制したコンスタンチヌス1世が東方に新首都を建設したのはある意味で自然な流れと言えた.このコンスタンチヌス1世によって建設された新首都(第2のローマあるいは新ローマとも呼ばれた)こそコンスタンチノープル(注3),現在のイスタンブールである.
 4世紀後半になるとさらに事態は流動化する.元々ローマ帝国の西部および北部国境にはゲルマン人が定住しており,古くから交流も盛んだった.ゲルマン人はローマの豊かさに憧れ,ローマ人はゲルマンの兵士としての勇猛性を必要とし,両者の間には持ちつ持たれつの関係があったのである.特に2世紀以降ローマの軍事力はゲルマン人に支えられていたと言っても過言ではない(注4).そんな時,東方から遊牧民族であるフン族(紀元前後中国の漢の時代に西方に追いやられた匈奴の末裔と言われている)がヨーロッパに侵入してきたのであった.この恐るべき敵を前にしてゲルマンはローマに保護を求める.しかしこの時ローマの高官達のとった態度は実に愚かなものであった.困窮したゲルマン人に対して酷税を課したのである.その結果不満を募らせたゲルマン人は武器を持って大挙帝国内に侵入,ここにゲルマン人の大移動が始まった(375年). 
当初ゲルマン人が侵入してきたのは帝国の東方である.378年のアドリアノープルの戦いで領内に侵入してきた西ゴート族に一時的に敗れたローマ軍だったが,名君テオドシウス1世の登場で,なんとか彼らを臣従させることに成功する.テオドシウス1世はローマ帝国全体を統治した最後の皇帝であった.392年にキリスト教を国教化したことでも知られている(注5).しかしながら395年にテオドシウスが死に,二人の息子(アルカディウスとホノリウスによる東西ローマ帝国の最終的な分裂)の時代になると,西ゴート族はたちまち反旗をひるがえした.彼らは首長アラリックに率いられてバルカン半島を荒らし,首都コンスタンチノープルに迫ってきた.将軍スティリコの活躍で一時的な勝利を収めたものの帝国は明らかであった.ただこの時東の皇帝アルカディウスは驚くべき行動に出る.なんとアラリックを当時西の帝国領であったイリリクムの軍団長に任命したのである.ローマの反逆者が一転ローマの軍司令官になったのだからアラリックにすれば大出世だ.一方コンスタンチノープルの宮廷にすればアラリックを西方に追い払った形になった(皇帝にそういう意図があったかはわからないが結果的にはそうなった).以後西ゴートはイタリア半島を席巻し(410年にはローマ市を3日間にわたって略奪した),最終的にイベリア半島に落ち着き再び東ローマ帝国領に現れることはなかった.
 
ついで5世紀半ばになると西ゴート族の大移動の原因となったフン人が,アッティラに率いられて東ローマに侵入してきた.この恐ろしく好戦的な部族に対して東の皇帝は貢納金を支払うことで難局を乗り越えようとした.これに対してアッティラは要求をエスカレート,東の帝国は危機に陥ったものの,その後アッティラが西方に移動したため危うく難を逃れた(その後アッティラは451年にカタラウヌムの戦いで西ローマ・西ゴート連合軍に敗れ勢いを失うことになる).
 その後今度はテオドリックに率いられた東ゴート族が東ローマ帝国に侵入し,コンスタンティノープルを脅かした.首都の宮廷は対応に苦慮する.だがこの時西方で大事件が起こった.西ローマの帝位が断絶してしまったのである.この頃西ローマ帝国はゲルマン諸部族の侵入で大混乱に陥り,領土はほぼイタリア半島のみに縮小されていた.もはや自力で国家を防衛することもままならず,国防はゲルマン人の傭兵に頼っていた.ところが財政の逼迫から傭兵に対する給料の遅配・欠配がおこり,不満を募らせたゲルマン人傭兵隊長の
オドアケルが西ローマ皇帝ロムルスを幽閉し,東の皇帝に対して西ローマ帝位の断絶を通告してきたのである.帝位が断絶するということは帝国が滅亡したということでもある.時に476年のことであった.西方領土の消失は大事件ではあったが,東ローマはこの頃からビザンチン的な対応を見せ始める.なんと自分たちを苦しめている東ゴートに対して,西ローマを滅ぼしたオドアケルの討伐を命じたのである(もちろん討伐成功の暁にはイタリアの支配権をあげる条件で).かくて東ゴート族は勇んで西方に移動しオドアケルを滅ぼしてイタリア半島に落ち着いたのだった.


注1) 内憂の方は貧富の差の拡大による自由民の没落と無産市民の増加(3世紀のカラカラ帝は帝国内全ての自由民にローマ市民権を与えた.このため国家に寄生して生きる人々が増加し国家財政を揺るがした),外患はゲルマン人の侵入や東方ササン朝ペルシャの攻勢.
注2) ローマ皇帝の最大の仕事は外敵から国を守ることである.帝政初期のアウグストゥスの時代は周辺の脅威としては東方のパルチア王国くらいしかいなかったが,3世紀になると帝国周辺の諸民族が発展し,四方全てが脅威となっていた.このため一人の皇帝が四方八方全ての外敵に対応するのは土台不可能になっていたのである.
注3) 古くはビザンチオン,ビザンチウムと呼ばれた.
注4) この頃にはローマの軍事力を支えていた自由民が没落して都市の無産市民に成り下がっていた.彼らはパンとサーカスを配給してくれる国家に寄生するだけの存在になり,兵士になるローマ人は急激に減少した.
注5) キリスト教は帝政ローマ時代を通じて迫害を受けた.特にディオクレティアヌス帝による迫害は激しいものであったが信者が減ることはなく,ついに313年にコンスタンチヌス1世はミラノ勅令によってキリスト教を公認するに至った.ただこの時はあくまで公認であってこれまでの伝統的なローマの神々を崇拝する宗教との間での法的な差別がなくなったに過ぎなかった.
   
   


 

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