西ローマ帝国滅亡後の東の帝国はゼノン,アナスタシウス1世といった有能な皇帝が続き,国内の安定が図られていた.依然としてゲルマン諸族やペルシャとの戦争は続いていたものの,財政的にはアナスタシウス帝の時期に膨大な富が国家に蓄えられていた(注1).こうして充実した国力を背景にして登場してきたのがユスチニアヌスである.
518年後継者を残さぬままアナスタシウス1世が死ぬと,次の皇帝に選ばれたのは農民出身の将軍だったユスチヌスである. |
565年ユスチニアヌス1世死亡時のビザンチン帝国領(文献1より改変) |
ユスチヌスは実直ではあるが無学であり(字が書けなかったという)皇帝の器ではなかったようだ.ただ当時宮廷を牛耳っていた宦官のアマンティウスは自分の思いどおりになる傀儡皇帝を作るべく無学なユスチヌスに目を付けたらしい.ただユスチヌスは無学ではあるが決して愚かではなく,傀儡に甘んじる気は毛頭なかった.彼はアマンティウスを排斥すると優秀な自分の甥を片腕に抜擢したのである.この甥が後のユスチニアヌス1世であった.既にユスチヌス1世の時代からコンスル(執政官)として政治に深くかかわってきたユスチニアヌスは伯父の死後,満を持して皇帝になった.527年のことである.
皇帝になったユスチニアヌス1世の目標はただひとつ,失われたローマ帝国の威光を取り戻すことであった.西ローマ帝国の滅亡から50年,いまは蛮族の支配に晒されている旧領を取り戻すことが彼の夢であり,その実現に全精力を捧げたのであった.ただ彼にはそれを実行に移す前に片付けなければならない2つの問題があった.ひとつは足元の首都コンスタンチノープルの内乱,そしてもうひとつは東方のササン朝ペルシャとの戦争である.
まず国内の混乱から見ておこう.当時のコンスタンチノープルにはローマ帝国の「パンとサーカス」の伝統が残っていた.首都に住む自由民には食料(パン)と娯楽(サーカス)が無料で配給されていたのである.これは皇帝の人気取り政策の一環であった.元々ローマ帝国の皇帝というのは絶対専制君主ではなく,ローマ市民の第一人者だったからである.このためローマ帝国には生まれながらの皇帝というものはなく,市民や元老院の支持があってはじめて皇帝になりうるのである(ローマ皇帝が必ずしも世襲ではないこともその事実を物語っている).ユスチニアヌス1世にしても先帝ユスチヌス1世の甥だからというだけで皇帝になったのではない.彼はユスチヌス1世の時代から元老院や教会に多額の金をつぎ込むなどして,自分が次の皇帝になれるように世論形成を行っていたのである.そんなわけだから当時の市民にも皇帝を畏怖するといった空気は薄く,逆に「皇帝は自分たちの支持があるから帝位にいられるのだ」という雰囲気であった.
今でもそうだがスポーツ観戦は人々を熱狂させる.ユスチニアヌス1世時代のサーカス(娯楽)とは戦車競争であった.この時代の戦車競争はチーム別の戦いであり,当時は青党と緑党が二大勢力であった.彼らを応援する市民が戦車競争に熱中し興奮するあまり街で乱暴狼藉を働くことも多々あった(この辺はサッカーのフーリガンに似ている).こんな時にユスチニアヌスによる新税の徴収が発せられたのである.これからローマ帝国の再興を目指す戦いが始まるのだから資金はいくらあっても足りない.皇帝にとっては当然のことであったが,食料と娯楽がただで手に入ると思っている市民には理解できなかった.競技場で興奮した彼らはユスチニアヌスに罵詈雑言を浴びせ,市中で暴動を起こすと共にアナスタシウス1世の親類を引っ張り出してきて皇帝に即位させようとしたのである(注2).この暴動でコンスタンチノープルの街は灰燼に帰し旧聖ソフィア寺院も崩壊してしまった.さすがのユスチニアヌスも事態を絶望し国外に逃亡しようとする.この時毅然と彼に思いとどまるよう説得したのが后妃テオドラであった.彼女は熊使いの娘で若い頃はストリッパーをやっていたといわれる美貌の女性であり,肝っ玉は皇帝以上に据わっていたようだ.彼女は言う「逃げ出すしか救いはないとしても,私は逃げ出そうなどとはけっして思いません.帝冠を戴いた者は,それを失ったのちまでも生きながらえるべきではないのです.緋色の衣(皇帝の衣)は美しい経帷子だという古い諺が私は好きです.」(文献3より抜粋).この言葉によってユスチニアヌスはわれに返り善後策を協議し始めた.幸い彼が頼みとする将軍ペリサリウスが首都に帰還しており,ただちに反撃が始まった.ペリサリウスは軍を率いて競技場に乱入,暴徒に対して徹底的な攻撃を加えたのである.こうなると元々統制などなく,勢いで騒いでいるだけの群衆はひとたまりもなく崩壊した(3万人の市民が殺されたという).こうして首都を揺るがしたニカの乱は鎮圧されたのである.
次に東方の情勢を見てみよう.これから西方に向かって進撃を開始しようとするユスチニアヌスにとって東方の平和はなくてはならないものであった(二正面作戦を避けるのは戦略の鉄則である).このころ帝国の東方にあったのは3世紀以来の宿敵ササン朝ペルシャであった.ゾロアスター教(注3)を国教とするこの強大な国家は当時名君ホスロー1世を戴き全盛期を迎えていたのである.527年から531年にかけてのペルサリウスの対ペルシャ戦争も決定的な戦果は得られないまま終わった.早く西方に対する進撃を開始したいユスチニアヌスはやむなく自らにとって不利な条件でホスローと講和する(532年).多額の金を払ってペルシャとの間につかの間の平和を作ったユスチニアヌスはいよいよ西方に向かって進撃を開始した.
533年ペルサリウスはまず北アフリカ,旧カルタゴ一帯を占領していたゲルマンの一派ヴァンダル族を攻撃してこれを撃破した.続いて535年からイタリア半島に対する進撃を開始,当時半島を支配していた東ゴート族と激戦を繰り広げる.この戦いは約20年に渡る壮絶なものとなったが,ようやく勝利を収めイタリア半島全域を奪回することに成功した(さしものペルサリウスも十分な戦果を挙げられず更迭されたほどである).その後軍団はイベリア半島に進み550年から554年にかけて西ゴート族と戦いイベリア半島の南東部を奪うことに成功した.こうして約20年の戦争によってイタリア半島,北アフリカ,イベリア半島の南東部を奪回したユスチニアヌスはなんとか地中海を再びローマの内海にすることに成功した.しかしイベリア半島の大部分やガリア地方などは結局奪回できないままに終わったのである.
この20年におよぶ戦いの結果帝国の国庫はスッカラカンになってしまった.何とか占領した地域もそこの蛮族を滅ぼしたわけではなく,いつ反撃を受けるかわからない状態であった.しかもせっかく占領した旧領も戦乱のためすっかり荒れ果ててしまっており,経済的な価値はゼロに等しかった(かつての首都ローマもようやく奪回に成功した時,その人口はなんとたったの500人にまで落ちぶれていた).この間にペルシャ王ホスローは和平条約を破ってしばしば帝国に侵略してくる.もはや東ローマには蛮族から奪回した地域を守る力も残されてはいなかった.結局ユスチニアヌスの壮大な夢は帝国の死せる部分を復活させようとして,逆に生ける部分を疲れさせただけの結果に終わった(文献3より).565年ユスチニアヌス1世が死んだ時帝国に残されていたものは,広大な抜け殻のような領土であった(注4).
注1) 一説に黄金1万5千キロもあったといわれる.
注2) この時彼らは口々に「ニカ(勝利)」と叫んだことから,この内乱をニカの乱と呼ぶ.
注3) 善悪二神論からなる宗教.紀元前10世紀ごろ起こった.拝火教ともよばれる
|
|
|
注4) ここでは詳しくは述べなかったが,ユスチニアヌス1世には文化的な功績も多い.ひとつは有名な聖ソフィア寺院の建設であり(これはニカの乱で古い寺院が焼失したため新しく建造したもの),当時最高の職工を集めて作らせたドーム式の教会である(6世紀当時としては考えられないほどの建造物であり,竣工式で感極まったユスチニアヌスが思わず「ソロモンよ!我は汝に勝てり」と叫んだのは有名な話).また古来のローマ法をまとめたローマ法大全を編集させたのも彼であり,この大全は現代の法体系にも重大な影響を与えている. |