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ビザンチン帝国の歴史


5.ビザンチン帝国の全盛期と帝国の変質(11〜12世紀)

 8世紀後半から順調に国勢を伸ばしてきた帝国は11世紀はじめに全盛期を迎えた(前項の帝国の版図を参照).領土的には6世紀のユスチニアヌス時代には及ぶべくもないが,6世紀の帝国の膨張が国力をすり減らしての(いわばかなり無理をしての)事業であったのと対照的に,9世紀から11世紀にかけての発展は増大する国力を背景として徐々に推し進められた,内実としてははるかに充実したものであった.実際11世紀初頭のバシレイオス2世の時代,宮殿の蔵には金銀財宝がうなるほど積み上げられて,それでも入りきらないため地下を掘り下げて蔵を拡張したという記録も残っている.
11世紀末のビザンチン帝国領(文献11より)
 帝国の国境線も安定しており,大きな紛争は見られなかった.おそらくバシレイオス2世が戦争を欲すれば,エルサレムやイタリアの奪回も可能ではあったろう.しかしそうしなかったのは,大金をつぎこんで無理な領土拡張を行った,ユスチニアヌス時代の歴史から学び現実的な対応をとっていたからとも考えられる.領土的に充実し国庫も豊かと,帝国の繁栄は永遠に続くのではと誰もが考えていた.
 しかし,バシレイオス2世が世継ぎを残さぬまま1025年に亡くなると,徐々に暗雲が立ち込めてきた.宮廷内ではバシレイオス2世の姪ゾエが権力を握り,彼女と結婚した男が皇帝となった(ゾエは何度も男を代えたから,短期間で皇帝が次々に代わった).彼らのほとんどは無能で,無駄な戦争や建築などで国家財産を浪費するばかりだった.国内的にはテマ制を支えてきた自作農の没落が目立つようになった.もともと8世紀以降の帝国の収入と軍を支えてきたのはアナトリア半島を中心とした自作農たちであった.
 しかし時代が下るにつれて農民の間に貧富の差が広がり,貧しい農民が土地を失う一方で,大土地所有者が没落農民を小作農として使うようになっていった.バシレイオス2世は農民の没落を防ぐために,貧しくて税金が払えない農民がいる場合は連帯責任として,同じ地域の裕福なものに課税するというちょっと無茶な政策を採っていたが,この制度は彼の死後金持ちの反対であっさりと撤回された.こうして自作農の没落,大土地所有の発展による国家収入の減少,軍隊の弱体化が始まったのである.
 こんな時久しく平和だった東部国境に出現したのが,新しいイスラム国家
セルジュク・トルコある.この頃から,アラブ人やペルシャ人に抑圧されれていたトルコ人が活躍を始める.セルジュク・トルコは中央アジアのアラル海付近に興り次第に勢力を西に広げ,1055年にバグダッドに入城しスルタンの称号を得た.その後も西進しアナトリアのビザンチン領にしばしば侵入してきたのである.しかし前述のようにバシレイオス2世以降の無能な皇帝たちはこの事態を放置するばかりだった.ようやく事態の重大さに気づいた皇帝ロマノス4世彼は久しぶりの軍人皇帝であった)が迎撃に向かったものの,1071年にマンツィケルトの戦いで大敗を喫し(注1),ロマノス4世自身が捕虜になる有様だった.以後帝国の威信は地に落ち,アナトリア半島は徐々にトルコ人に侵食されていった.
 
かくも短期間に状況が悪化したのは外敵の侵入もさることながら,内部の体制(テマ制)の崩壊によるところが大きい.帝国はまたまた滅亡の危機に直面してしまう.このような時に現れたのがアレクシオス1世(在位1081年−1118年)である.危機になると必ず救世主が現れるところがビザンチン帝国の凄いところといえよう.彼はこれまでの専制君主としての皇帝のあり方をやめ,貴族たちの第一人者として振舞ったのである.前述のようにこの時代には自作農が没落し,大土地所有者が新興貴族として勢力を増していた.アレクシオス1世自身もこれら新興貴族の一員であり,かれらの権益を積極的に認めることによって自分への協力(軍隊の供給や戦費の負担)を要請したのである.こうして多くの農民を支配して皇帝の支配が及ばない封土を持つ大土地所有者の連合体の上に皇帝が立つという,西ヨーロッパの封建制度に似たプロノイア制(日本の室町時代にも似ている)が以後の帝国の基本制度となっていく.しかしそれでもセルジュク・トルコの脅威は防ぎきれないと思われた.
 ここでアレクシオス1世はなんと,ローマ教皇
ウルバヌス2世に救援を求めたのであった.おりしもエルサレムを占領したセルジュク・トルコはこれまでのイスラム教徒(アラブ人やペルシャ人)とは異なり,聖地巡礼にやってきたキリスト教徒への迫害をすることもあったため,西ヨーロッパでは聖地奪回の機運が盛り上がっていた.こうした中にビザンチン皇帝自らの救援要請があったのだから,教皇にとっても渡りに船である(教皇にしてみれば,いよいよ自分が東西教会のトップになる時が来たと感じたであろう).1096年のクレルモンの公会議で十字軍の派遣が決定された(この時興奮した一人が自分の服を破り,胸に十字を描いたため十字軍になったと自分が中学時代の社会科の先生が言っていたが,裏付ける資料はない).
 こうして派遣された第1回十字軍は,当時イスラム側が分裂し弱体化していたことも手伝ってエルサレムの攻略に成功し,周辺に多くのキリスト教国が作られた(注2).ビザンチン帝国はこの十字軍によってセルジュクトルコが打撃を受けた隙をついて領土の回復を図る.この頃には帝国の海軍は弱体化していたため,当時勢力を増していた
ベネチア海軍の支援を受けた.この際にベネチアに対してコンスタンティノポリスでの商業上の特権(関税の免除など)を与えたが,このことが後の帝国の経済的な没落の遠因となる.
 十字軍はイスラム側の反撃が始まると,占領地を奪われ徐々に後退していった.一方帝国はアレクシオス1世,息子のヨハネス2世の時代に最後の繁栄を迎える.十字軍の開始によって東西の交流が飛躍的に増大し,コンスタンチノープルは貿易の中継地点として大いに栄えたのである.バシレイオス2世の死後たちまち空になった国庫に再び財宝が貯まりはじめた(注3).こんな時ヨハネス2世が死に,息子のマヌエル1世が即位する(1143年).彼は自分をユスチニアヌス1世になぞらえており,西方再征服の野望を抱いていた.国庫には先代の残した財宝がある.1155年ついに彼はイタリア遠征を開始した.当初ビザンチン軍は進撃を続け,イタリア半島東岸を占領する.しかし10世紀以来社会が安定し,国力を増大させていた神聖ローマ帝国を中心とする西欧諸国の反撃によって,結局イタリア遠征は失敗に終わった(注4).その後もマヌエル1世は各地で軍を起こししばしば戦果を挙げたものの一時的なものに終わり,6世紀のユスチニアヌス1世の時と同様,度重なる戦争のため国庫はまたまた空になってしまった.1180年マヌエル1世の死と共にビザンチン帝国最後の繁栄も終わりを告げた.


注1) このときのビザンチン軍は往年のテマ制による自作農主体の軍隊ではなく,傭兵と各地の大土地所有者(新興貴族)の私兵の連合軍であった.このため皇帝の下に結束するといった連帯感に乏しく,さらには皇帝に対する不信から逆に足を引っ張る貴族もいるほどであった.マンツィケルトの戦いにおけるビザンチン軍の敗北はある意味,関が原の戦いにおける西軍に似ている.
注2) 第1回十字軍によってエルサレムは占領され,エルサレム王国が建国された.しかし十字軍兵士には粗暴な振る舞いをするものも多く,イスラム教徒のみならずビザンチン帝国民の反発を買い,支配は長続きしなかった.12世紀末にはエジプト・アイユーブ朝の名君サラディンの反撃を受けエルサレム王国は滅亡した.
注3) ビザンチン帝国の通貨”ノミスマ金貨”は当時西欧から西アジアの広い範囲にわたって流通し,中世のドルと呼ばれている.
注4) このころ帝国は北イタリア都市であるベネチアと組んで東西貿易の利益を上げていたが,イタリア遠征ではこのベネチアも敵に回り帝国と戦った.この戦争は結局西欧とビザンチン帝国相互の不信感を高め,後の第4回十字軍の伏線となった.

 


 

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