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ビザンチン帝国の歴史


3.東ローマ帝国からビザンチン帝国へ(7〜8世紀)

 ユスチニアヌス1世の死後帝国を取り巻く情勢はたちまち暗転した.まるでユスチニアヌスの死を待っていたかのようにランゴバルド(ロンバルド)族によるイタリア半島侵入が始まったのである.この新たな敵に立ち向かえるだけの力はもはや東ローマ帝国には残されていなかった.なんとか旧西ローマ帝国の首都のラヴェンナ(注1)と半島南部は確保できたものの,ローマを含むイタリア半島の大部分をランゴバルド族に明け渡してしまったのである.
8世紀半ばごろのビザンチン帝国領(文献1より改変).
 また時を同じくして西ゴート族の反撃が始まり,帝国はイベリア半島の拠点も失ってしまった.こうしてユスチニアヌスが20年の歳月と国家財政を傾けてまで行った旧領土の回復の努力は,そのほとんどが水泡に帰してしまったのである.
 しかしながらこれら西方の領土喪失はまだ諦めがつくものであった(元々なかったと思えば).7世紀にはいると東ローマ帝国の本領に危機が訪れた.まずは東方からペルシャの攻勢が再開された.西方での戦争で疲弊しきっていた帝国軍は次々に敗走,瞬く間にシリア,パレスチナ,エジプトを占領されてしまった.パレスチナの喪失は精神的な衝撃(キリスト教の聖地であるため)であったが,産業の先進地シリアと穀倉地帯エジプト(注2)の喪失は帝国にとって大きな経済的打撃となった.しかもこれらの国難に対応すべきユスチニアヌスの後継皇帝はいずれも無能ものばかりだった.
 この危機的状況の中登場したのが当時アフリカ総督(ユスチニアヌス1世が奪回した旧カルタゴ付近西アフリカの総督)の息子だったヘラクレイオス(ヘラクレイオス1世)である.彼は首都の民衆の熱狂的支持により帝位に登った(610年).
 皇帝となったヘラクレイオスがまず手を付けたのは,ローマ帝国以来の伝統というべきパンとサーカスの廃止&縮小であった.帝国の穀倉地帯であるエジプトを失った以上,パンの無料配給などできるはずもなかったからである.一方のサーカスも年数回と大幅に規模縮小がはかられた.その上で彼は対ペルシャ戦争のための新たな資金調達を考えた.それは教会に対する課税,ユスチニアヌス1世以来の戦争で帝国の国庫はカラになっていたが,教会にはまだ多くの財産があったからである.しかし教会に対する課税には抵抗が予想された.このためヘラクレイオスは,この戦争がペルシャによってエルサレムの聖使徒教会から奪われた
聖十字架奪回のための戦いであることをことさらに強調した.聖遺物奪回のための戦いならば,教会がそれに協力するのは当然至極だからである.こうして資金を得たヘラクレイオスは622年から本格的に反撃を開始した.
 
戦いは順調に進み,ヘラクレイオスはペルシャに奪われた失地を全て回復すると共に,聖十字架の奪回にも成功した.この間626年には首都コンスタンチノープルがペルシャとアヴァール人によって包囲される事件が起こったが,留守を預かる総主教のセルギオスが聖母マリアのイコンを掲げて城兵を励ますなど奮闘し,何とかこの危機を乗り切った.628年ペルシャを打ち破ったヘラクレイオスは都に凱旋し,盛大な式典が催されたのだった.ヘラクレイオスにとっては人生最良の時であったろう.こうして帝国は再び隆盛を迎えるかに見えた.
 
しかし,この時東方では歴史を動かす大きなうねりが起こっていた.イスラム教の勃興である.ムハンマドが創めたこの新しい一神教は静かにアラビア半島に広がっていた(ヘラクレイオスがペルシャに対して反撃を開始した622年は,奇しくもムハンマドがメッカからメディナに移った”ヘジラ”と同じ年になる).ムハンマドの死後アラビア半島を統一したイスラム教徒は,634年からいよいよ東ローマ,ペルシャ両国に対して攻撃を開始した.今しがたまで死闘を繰り広げていた両国にはもはやこれを支える力はなかった.イスラム教徒はたちまちのうちにペルシャ,東ローマの領土を席巻していった.ペルシャは642年のニハーヴァンドの戦いで敗れ,ついに651年に滅亡してしまう.一方の東ローマはヘラクレイオス自らが迎撃に向かったものの,636年にシリアで大敗を喫してほうほうの体で退却する.以後わずか数年であれほど苦心してペルシャから奪回したシリア,エジプトを再び失い,641年ヘラクレイオス1世は失意の中亡くなった.
 この641年のヘラクレイオス1世の死から,717年の
レオン3世の即位までの3/4世紀は東ローマ帝国の暗黒時代といわれている.ヘラクレイオス1世の死後もイスラム教徒の進撃は続き,7世紀後半には西部アフリカ(カルタゴ地方)の領土も全てイスラム教徒の手に渡り,地中海はイスラム教徒のものとなった(注3).その一方バルカン半島ではセルビア人,クロアチア人,ブルガリア人などのスラブ系民族の進入が始まり,半島のスラブ化が急速に進行した.
 帝国にとって政治的には暗黒時代であったが,一方この時代はまた,古代ローマ的な要素を残した東ローマ帝国から中世的なビザンチン帝国に静かに脱皮していった時代でもあった.領土的にはアナトリア半島とバルカン半島の一部を有するのみに縮小したものの,帝国内の宗教的に異端が優位であった地域が支配を離れたことから(次項参照),宗教的な統一がなされ,数世紀以来の異端問題が解決した.人種的にはほぼギリシャ人の国となり(注4),従来のエジプト,シリアといったセム・ハム系語族に代わって以後はスラブ人が重要な隣人となった.国内の体制も既にパンとサーカスは事実上廃止され無産市民がいなくなるとともに,傭兵に頼った軍制から,各地域(属州)ごとに軍事と政治の両方の権限を持つ一人の司令官(ストラテーゴス)がその地域の住民から徴兵して編成する
軍管区制(テマ制)へと変化していった(同時期均田制が崩れ始めた唐で,ビザンチンのストラテーゴスと似た権限を持つ節度使が発達したのは興味深い).皇帝はもはや市民の第一人者などではなく東洋風の専制君主であった(ユスチニアヌス時代にはかろうじて命脈を保っていた皇帝に逆らう群集などどこにもいなかった).717年レオン3世が即位した時,そこにあったのは往年のローマ帝国とは似ても似つかない国,ビザンチン帝国であった.


注1) ローマ帝国の首都は本来ローマであったが,3世紀以来退廃と産業の不振がひどく,4世紀になると代わってミラノが首都的役割を果たすようになった.その後帝国が東西に分離し始めると東方はコンスタンチノープル,西方はミラノから4世紀末にはラヴェンナが首都となったのである.ローマは西ローマ帝国滅亡前から既に衰退していたのである.
注2) エジプトはローマ帝国の,ついで東ローマ帝国の穀倉地帯であった.帝政開始後の首都でのパンとサーカスの伝統も,エジプトからもたらされる豊富な穀物があればこそであった.エジプトの麦の収穫率は異常に高く,たとえば中世ヨーロッパでは蒔いた麦の2〜3倍の収穫があれば御の字であったが,エジプトでは数十倍の収穫を挙げることもあったという.
注3) イスラム教徒はシリア,エジプトから西アフリカのビザンチン領を席巻,ジブラルタル海峡を越えてイベリア半島に侵入すると当地の西ゴート族を滅ぼした.
注4) 領土がバルカンとアナトリアに縮小する7世紀頃から,帝国の公用語もラテン語からギリシャ語に代わった.また皇帝のマントの色もローマ帝国時代の紫色から緋色になった.

   
   


 

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