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オーストリア旅行記(8)


2006年6月16日(金)


ザンクト・セバスチャン教会

 さて,なんだかんだ言ってザルツブルクに丸1日いられる最後の日である.この日は午後から,ザルツブルクから少し離れた湖水地方,ザルツカンマーグートへ出かけるツアーに参加する予定である.午前中は空いているので,この時間帯に昨日回れなかったスポットを訪ねることにした.
 まずはホテルで朝食を摂り(ヨーロッパのホテルでは珍しく,朝食にスープがあった.ウィーンのグランドホテルでも洋風のスープはなく味噌汁のみだった),早速出かける準備に取り掛かった.まず目指すは新市街にあるザンクト・セバスチャン教会である.
 ザンクト・セバスチャン教会は1499年に建立された教会で,実はモーツァルト家の菩提寺(菩提教会?)である.ここにはW. A. モーツァルトの父,レオポルトが眠っている(モーツァルトの祖母や,更に不思議なことにモーツァルトの妻,コンスタンツェや彼女の再婚相手のニッセン氏まで一緒に葬られているらしい).墓地の入り口から入ってすぐのひときわ目立つところに,その墓はあった.ガイドブックにはよく載っている中央に立派な墓石があり,左右に2枚の石版が設置されてあるお墓である.向かって右側に父レオポルドの碑が,左にヴェーバー家の碑が立っている……ハズであった.
 
しかーし!我々が訪れた時,何と右側の石版,つまり父レオポルトの石版が無くなっていたのである.あたりを見渡しても何もない,別に風で吹き飛ばされたわけではないようだ.さらに,荒らされた形跡もないことから,酔った北溟寮生が持っていったわけでもないらしい(北溟寮とは弘前大学の寮であり,私も住んでいた処です).
 ところで,実は「モーツァルトの頭蓋骨」といわれているものが,現在も国際モーツァルト財団に保管されている.モーツァルトは死後ウィーンの共同墓地に埋葬されたため,遺体の正確な埋葬場所はわからなくなっているのだが,1801年に墓堀人夫が彼の頭蓋骨と称するものを掘り起こし,それが現在に伝わっているのである.

モーツァルト小橋です

小橋に佇む私(嬉しそう)

我々が見たモーツァルト
家の墓です

以前はこのように石版が2枚あったはずです
 
その真贋の決着をつけるために2004年,オーストリア放送協会のプロジェクトのもとでDNA鑑定が行われた.そのとき比較するためのサンプルに使われたのが,どうやらこの墓から掘り出された遺骨だったらしい(比較サンプルに用いられたのは祖母と姪の遺骨であると報道されていた).
 そして2006年1月にその結果が発表されたのだが,どの骨から検出されたDNAも,それぞれ配列が全く一致せず,結局この頭蓋骨がモーツァルトのものかどうかは確認できなかった……という,まるで水曜スペシャルのような結末となったのであった.今回ここにあったはずの父親の石版がなくなっていたのは,もしかするとこの出来事とも関係あるのかもしれない.それにしても墓暴きなんて東アジア(特に中国)では絶対に行われそうにないことである.昔中国の春秋時代に楚の伍子胥が父と兄の敵である,暴君平王の墓を暴いて屍に鞭打ったのは,逆に言えばそれほど恨みが深かったことを示している(中国では遺体に鞭打つことは最大限の侮辱であるという).
 後日,NHKの「毎日モーツァルト」でレオポルトの死を取り上げた回(第140回)があったが,この時流された墓の映像でも石版は1枚しか写っていなかった(しかし,その直後にレオポルトと書かれた石版のアップが写るシーンがあり,これは一体どういうことか?と不思議に思った我々であった).この墓には我々以外,日本人観光客はいなかったが,欧米の団体観光客がガイドに案内されて墓参りに来ていた(日本のツアー会社の市内観光にはこの教会は入っていないらしい). 
 


レジデンツと新レジデンツ

 レオポルドの墓石のありかが気になりながら,セバスチャン教会を後にした我々はそのまま旧市街を目指した.次なる目的地はかつての大司教の宮殿,レジデンツである.大聖堂のすぐそばにあるこの巨大な建物は,かつてこの地を支配したカトリックの大司教の絶大な権力を象徴しているといえよう.このレジデンツは今は博物館になっていた.
 レジデンツの入場には勿論,ザルツブルグカードが有効である(本当に便利なカードだ).内部は豪華な装飾が施された巨大な部屋が沢山並んでいて,まさに宮殿といった趣である.ガイドフォン(残念ながらここには日本語のフォンはなかった)を聴きながら進んでいく.こうしてみると,カトリックの大司教というものがいかに世俗化した権力者だったかよくわかる気がする.少なくともここには聖パウロの頃の原始キリスト教時代の面影は全くない.
 考えてみればカトリックの歴史は教会権力の世俗化と堕落,それに対する修道院からの改革,再び世俗化による堕落という歴史の繰り返しである(修道院出身の気合の入った教皇が出現すると,世俗権力との対立が起こる.カノッサの屈辱で有名なグレゴリウス7世などはその代表格である).
 部屋には絵が沢山飾られていたのだが,その中にモーツァルトがザルツブルグに住んでいた当時の大司教であるヒエロニムス・フォン・コロレド伯爵の肖像画もあった(2006年秋に放送された,NHK「毎日モーツァルト」の特番で案内人の山本耕史氏が決別の場面を演じていたあの絵である).番組では山本氏は絵の間近でしゃべっていたが,普段は立ち入り禁止なので我々は遠くから眺めるばかりであった.

 レジデンツを出た後,今度はレジデンツ広場を挟んで反対側にある新レジデンツを訪ねることにした.ここも博物館になっており,今年はモーツァルト生誕250年ということで,「ビバ!モーツァルト展」という特別企画が行われているのだった(当然ザルツブルグカードも有効である).ここでは主にモーツァルト時代の生活用品や彼の直筆の手紙,関係者の肖像画,またモーツァルトの研究者に関する写真や資料などが展示されていた.ここにはまた,モーツァルト時代にはやった(?)射的が体験できるコーナーもあり(1プレイ2ユーロ),参加するともれなくモーツァルトの絵柄が描かれた的がもらえるのだった(ここでKは他人のお尻を覗き込んでいるモーツァルト絵柄の的をもらっていた 笑).
 ひと通り見学を終えると丁度昼頃になった.ザルツカンマーグートへのツアーは午後2時に出発するため,ここで昼食を摂ることにした.この日行ったのは旧市街にあるトマセッリ(Tomaselli)というカフェであった.ここはなんと1705年(宝永2年 元禄の次の元号)創業という老舗である.日本でいえば赤穂浪士の討ち入りの3年後にできた店ということになる(モーツァルトも通ったらしい).ここでは名物のオムレツを注文して食べた(言うまでもなく,Kは後からケーキも注文していた).なお,このカフェがある建物では,モーツァルトの未亡人コンスタンツェが1820年から26年まで,第2の夫ニッセン氏と暮らしていたらしい(そのことを記録したプレートが掲げられていた).

有名なコロレド伯爵の絵が飾られた部屋です

モーツァルトの敵役コロレド
大司教です.彼も晩年は哀
れだったようです

ガイドフォン(日本語ではありません)を聴きながら進みます

ハプスブルグ皇室の肖像画のある部屋もありました

レジデンツ内は天井にも見事な宗教画が描かれています

こちらは新レジデンツの入り口で,博物館になっています

モーツァルトも通った老舗のカフェ”トマセッリ”です
 

ここはコンスタンツェが後夫のニッセン氏と住んでいた場所でもあります

Tomaselliの中です.大勢の人で賑わっています


お尻を覗き込むモーツァルトの絵柄が描かれた的

 


ザルツカンマーグートへ

 昼食を終えた我々は,本日のメインイベントであるザルツカンマーグートへのツアーに参加すべく,集合場所(ミラベル宮殿の向かいにある観光バス発着所,通称赤い小屋)に行った.ザルツブルグに関係するバスツアーはほとんどここを拠点としており,様々な人種の人たちがたむろしていた.我々が参加するツアーは当然日本語のツアーである(最近すっかりものぐさになってしまい,多少料金が割り増しになっても日本語ツアーに参加する我々であった.もちろん日本語ツアーが存在しない場合は他言語ツアーに参加するわけだが).しばらく待っていると,一人の寡黙な感じの日本人男性がやって来た.どうやらこの人がガイドらしい.ガイドは人々にバスに乗るよう促した.
 ツアーの参加者は14~15人くらいだった.子供はいなかったが,新婚旅行っぽい若いカップルから年金生活者と思しき老夫婦まで年齢層は様々であった.我々はバスの中で,ガイド氏の説明を受けたのだが,このガイド氏は新宿駅前のNOVAでドイツ語を学んだ人らしい.本気で学ぼう,やろうという気があれば,別に留学でなくても,NOVAでも十分に海外のツアーガイドになるための勉強はできるのだなあと,あらためて感心した我々であった(このガイドさん,かなりドイツ語が堪能であったが,NOVAで200時間の講習を受けたといっていた.NOVAの講習はそんなに凄いのか).
 この日のツアーは,まずバスでフシュル湖経由でヴォルフガング湖のほとりにある小さな街ザンクト・ギルゲン(モーツァルトの母マリア=アンナの出身地)へ行き,そこから遊覧船で対岸の町ザンクト・ヴォルフガングへ出,その後再びバスに乗って,映画「サウンド・オブ・ミュージック」でマリアとトラップ大佐が結婚式を挙げた教会がある町モントゼーを訪ねて帰ってくるというものである.この日も天候がよく(普段の行いが良いから 笑),こうした湖水地方を巡るには最適な気候であった.

車窓から見えるフシュル湖

市庁舎前のモーツァルト像

姉ナンネルの住んでいた家

ヴォルフガング湖のクルージングに出発
 
 まず最初の目的地は,モーツァルトの母マリア=アンナの出身地,ザンクト・ギルゲンである.モーツァルトの母マリア=アンナは,1720年にこの町で,大司教宮廷の地方管理官の娘として生まれた(なお,この地方管理官だった父親,つまりモーツァルトの母方の祖父ペルトゥル氏は,若い頃聖ペテロ修道院聖歌隊のバス歌手でもあったらしい.ちなみに名前はモーツァルトと同じ「ヴォルフガング」だそうである).しかし3歳の時に父親と死別し,その後間もなく生活のためにザルツブルクへ出てきたため,そんなに長い間この町に住んでいたわけではないようだ.しかし後にモーツァルトの姉ナンネルも,結婚してこの町に住んだため,この町もモーツァルトがらみの観光地として名が知られるようになったというわけである.なお,モーツァルト本人がこの町に足を踏み入れた形跡は残念ながらないようだ.
 我々はバスを降りて,まずザンクト・ギルゲンの市庁舎(町役場?)前の広場へと向かった.この広場の前には,少年時代のモーツァルトがバイオリンを弾いている小さな銅像が立っている.これは小さな泉の中央に立っているのだが,思わず泉の中にコインを投げ入れたくなってしまう(笑).そして湖岸にある,モーツァルトの母の生家を外部から見学した.なお,この家には後に,結婚した姉ナンネルも住んでいたそうだ(ナンネルの夫も地方管理官だったらしい.なお,この夫は,先妻2人と死別したバツ2男だったそうである).要はこの家,官舎だったということか(笑).内部はモーツァルト展示室になっているらしいが,残念ながら今回,内部を見学する時間はなかった(ガイドさんの説明によると,気が向いた時しか開けていないらしい 泣).
 その後我々は船着場へと移動し,乗船チケットを受け取って,ザンクト・ヴォルフガング行きの遊覧船に乗り込んだ.この船は直接ザンクト・ヴォルフガングへ行くわけではなく,途中何箇所かの船着場を経由して行くらしい.そのため我々はガイドさんに,「途中で降りないでくださいね.途中で降りてしまって行方不明になっても責任は負えません」と念を押された.途中で降りてしまって帰れなくなる人がそんなにいるのか……(汗).
 


白馬亭と黒馬亭

 間もなく船はザンクト・ヴォルフガングへと向けて動き出した.所要時間は約30分である.湖ではいたるところで,泳いだりボートやヨットで遊んだりしている人々の姿が見える.オーストリアには海はないので,この辺の人達は泳ぎたい時はここへ来るのであろう.ちょうど夏の田沢湖と似たような感じである.船の中で我々は,丁度そばにやって来たガイドさんに,今朝のザンクト・セバスチャン教会での話をし,レオポルトの石版の行方について知っているかどうか訊ねてみたが,この人もずっとそこへは行っていないらしく(日本のツアー会社の市内観光でもコースに入っていないらしい),詳細はわからないとのことであった.
 そのうち船は対岸のザンクト・ヴォルフガングに到着した.ここはベナツキーのオペレッタ「白馬亭にて」の舞台として知られるホテル「白馬亭」があることで知られる町である……とガイドブックには書いてあるのだが,そもそも我々は「白馬亭にて」を観たことがない(泣).そのため,この地に来てもイマイチピンとこないのである.むしろこの「白馬亭」(Hotel im Weissen Rössl)のすぐ近くにあった「Hotel Schwarzes Rössl」(黒馬亭?)のほうが,我々の琴線をくすぐった.どう考えても,白馬亭に対抗して建てられたとしか思えない(ゾロか 笑).やはりどこの国の人も,考えることは大して変わらないのだなあと思った次第である.個人的にはこの黒馬亭の方に泊まってみたいと思った.
 さて,ここザンクト・ヴォルフガングの見どころが,教区教会にあるミハエル・パッハー製作の祭壇である.15世紀に製作されたというから,ゆうに500年以上前のシロモノだ.この祭壇はオーストリアでもっとも重要な文化財のひとつらしい.なんでも,後から作り直そうという企画も出たのだが,パッハーの作のあまりの素晴らしさに,断念したとのウワサもある.

海から眺めるザンクト・ヴォルフガングの教区教会


なぜ,ここに教会があるかというと,聖ヴォルフガングが「手にした斧を投げて,落ちた所に教会を建てよというお告げを聞いたからだそうです


ザンクト・ヴォルフガングの街は教会とホテルが主体となった,レイクリゾートの小さな町でした(人口は2800人だそうです)
 

この教会内部に有名な
祭壇画があります

ここが,ベナツキーのオペレッタ「白馬亭にて」の舞台となったという,有名なホテルWeissen Rössl(白馬亭)です.格式が高そうです

白馬亭の近くには,黒い馬をあしらったホテルSchwarzes Rössl(黒馬亭?)というのもありました.個人的にはこっちに泊まりたいです
 
 教会を見学した後我々は街中を歩きながらバスを目指した(ザンクト・ギルゲンで我々を下ろした後,先回りして待っていたらしい).バスに乗って次に向かうのはモントゼーの町である.モントゼーとは日本語で「三日月湖」という意味で,その名の通り三日月形をした湖の畔にある町である(昔のドラゴンクエストにでてきたリムルダールの町や,FFⅠのクレセントレイクの町を髣髴させる).ここには映画「サウンドオブミュージック」でマリアとトラップ大佐の結婚式のシーンが撮影された教会がある.一般にヨーロッパの教会には内部の撮影お断りとされているところも多いのだが(先のザンクト・ヴォルフガングの教区教会もそう),ここモントゼーの教会はすっかり観光地化されたためか,撮影可であった(我々も中を見学したり,写真を撮ったりした).ところで,日本では非常に人気の高いサウンドオブミュージックであるが,実は地元オーストリアではあまり知られていないのだという.意外な気もするが,ひとつには映画のドイツ語版ができたのが遅かったことがあるらしいが,その一方で映画のテーマが,ナチスの迫害から逃れる一家というものであることも関係しているのだろう.何と言ってもオーストリアにとって,ナチスはできれば触れたくない歴史であろうから.
 モントゼーを出発するとあとはザルツブルグに戻るばかりである.件のガイド氏はザルツブルグでしか手に入らないお土産品として,カフェ・フュルストのモーツァルトクーゲルン(Mozart Kugeln)を推薦していた.モーツァルトクーゲルンはモーツァルトの絵が描かれたチョコレート菓子で,オーストリア土産の定番ともいえる商品である.あのモーツァルトの顔が描かれた赤と金の包み紙のお菓子を見たことがある人は多いだろう.しかし,この赤いモーツァルトの顔が描かれたモーツァルトクーゲルン,実はゾロ品なのである.本家本元のモーツァルトクーゲルンは,ここザルツブルグにある”フュルスト”というカフェで作られたものであり,銀紙に包まれて全体的に青っぽい色調となっている.一つ一つ手作りらしく,形も真球には程遠く,値段も高めなのであった(ゾロ品のクーゲルンは空港はじめ,いたるところで購入できるが,本家のクーゲルンはザルツブルグの店でしか手に入らない.我々もザルツブルグに戻ってすぐに”フュルスト”に直行したことはいうまでもない)
 

ザルツカンマーグート地方にそびる山です

ここがトラップ大佐とマリ
アの結婚式のシーンで使
われた教会です

内部には祭壇画などが飾
ってありますが,映画に
比べて狭く感じます

モントゼー教会の周囲にはカフェや土産物屋が並びます
 


オーストリア最後の夜

 フュルストで本家のモーツァルトクーゲルンを購入した我々は,一旦ホテルに戻った.6月10日からの旅行もいよいよおしまいが近づいてきた.シャワーを浴びて着替えをして,オーストリア最後のディナーと洒落こむ予定である.
 この日は旧市街までは足を伸ばさずに,新市街のレストランに入ることにした.場所はミラベル宮殿近くの郷土料理店である(たまたま通りかかったら日本語版のメニューがあったため入ったというウワサである).中は高級料理店ではないが,大衆料理店よりは少しグレードが高い感じであろうか.
 我々はこの店で,ビールと共にスープ(コンソメスープにクレープの細切りが丁度マグヌードルかなんかのように入っていた)と,メインディッシュとして私はホワイトソースのかかった豚肉の料理,Kは玉ねぎのソースがかかった牛肉の料理を注文した.よく考えてみると,今回の旅行では,夕食にあまりきちんと整ったメニューの料理を食べていなかったなあと気づいたのであった.今回の旅行は夜にオペラやコンサートに出かけることが多く,ゆっくりと店で食事をすることがほとんどできなかったのである.最後の夜だけでも,ゆっくりと食事をすることができたのは大変貴重であった.
 今回の旅行は,到着の日からずっと晴天が続いていたのだが,この食事をしている最中から,どうも雲行きが

これがカフェ・フュルスト製の元祖モーツァルトクーゲルンです

こちらは後発メーカー製のゾロ品です(他にも何種類かある)

オーストリアではこのように地下に公衆トイレがあります
 
怪しくなってきたようである.そのうち外から大きな雷の音が聞こえてきた.ザルツブルクは周囲を山に囲まれているため,結構雷の音が響くのである(元々地形からして雷が多そうだ).あまり店でうだうだしていると,帰りに雨に降られそうだ.実際小雨も降っていたので,我々は食事を終えると早めに清算を済ませ,ホテルへと急いだのであった.さあ,いよいよ帰るばかりである(涙).  



 

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