ビザンチン皇帝の部屋 本文へジャンプ
アクセスカウンター
 SINCE 2011年9月25日
       

オーストリア旅行記(6)


2006年6月14日(水)


ウィーン市立公園

 明けて6月14日,ウィーン滞在最終日の朝も当然のように快晴であった.すっかりなじみとなったグランドホテルの朝食を食べて,出かける準備である(「嗚呼,ウィーンの納豆飯も今日で終わりか…」と感傷に浸る私 笑).ウィーンを発つまでまだ少し時間があるので,もう少し市内を見て回ることにした.Kは聖マルクス墓地に行ってモーツァルトの墓参りがしたかったようであるが,墓地に出向くには時間が足りない(マルクス墓地へ行くには電車に乗る必要がある).また,他の作曲家の記念碑も訪ねてみたかったので,我々はウィーン市立公園に行くことにした.ここはホテルからも十分に徒歩で行くことができ,シュテファン寺院へ行くのと距離は大して変わらない.そしてこの公園には,あのJ.シュトラウスの金ぴかの像をはじめ,シューベルトやブルックナー,その他様々な芸術家の像が各所に建てられているのである.

金ぴかのヨハン・
シュトラウス像

ブルックナーの像です
 

 とりあえず公園まで歩いていき,中に入ってゆくのだが,やはり例のJ.シュトラウスの像は金色だけあってよく目立つ.そしてそのそばには,花時計があった.我々は公園内でジョギングをしていた現地在住らしき日本人夫妻に,この花時計とシュトラウス像の前で写真を撮ってもらった.その後,公園内の散策である.公園内をしばらく歩くと,まもなく目の前に,音楽の教科書にもよく載っているシューベルトの像が現れた.子供の頃はウィーン少年合唱団で歌い,その後は代用教員をしながら(なんか石川啄木みたい)数多くの作品を世に残したシューベルト(声楽をやる人は絶対に避けて通ることはできない作曲家である),その彼の像が今,目の前にあるのであった.シューベルトは享年31歳,そんな彼の年齢をいつの間にか超えてしまっていた我々であった(泣).更にその近くには,ブルックナーの胸像もあった.しかしこのブルックナーをはじめ,19世紀後半から20世紀以降にかけて活躍した作曲家の中には,顔つきがイマイチよくわからない人が結構いるのである.学校の音楽室にも,あまりブルックナーやマーラー,ドビュッシーやショスタコービッチの写真は置いてなかったような気がするので(教科書になら写真が載っているが),あまり印象に残らな

歌曲の王シューベルト

日時計の前で
 
いのかもしれない.このブルックナーも「ああ,こんな顔つきだったっけ」と思ってしまった.その他にもこの公園には,音楽のみならず各方面で活躍した人々の像が並んでいるのであった.
 また,この公園はブルク公園同様に,芝生が広がっており,日光浴を楽しむ人々の姿がわずかながら見られた(もっとも,平日かつ午前中なので,そんなにいたわけではないが).確かに寝転がったり,走り回ったりするのは気持ち良さそうであるが,ここではサッカーやキャンプはご法度らしい. 
 


ウィーンからザルツブルクへ

 市立公園から戻った我々は,チェックアウトのための準備に取り掛かった.荷物をまとめ,そしてこのホテルの地下にある店(デパートの食品売り場みたいな感じ)で,飲料水やおやつを買っておくことにした.ウィーン〜ザルツブルク間は列車での移動である.約3時間という所要時間なので,そのための準備ということもあった.
 買い物を終え,荷物をまとめてチェックアウトのためフロントへ行くと,最初の日と同じガイドの女性が迎えに来てくれていた.チェックアウトを済ませ,彼女の案内で我々は車に乗り,ウィーン西駅へと向かった.
 ウィーン西駅は主に国内の路線やドイツ,スイス,フランス方面の列車が発着する駅で,ザルツブルク方面へもこの駅から乗ることになる.訪問国内を列車で長距離移動するのは,1999年のノルウェー旅行以来(このときはオスロ〜ベルゲン間)である.それ以外はバスか空路ばかりだったので,新鮮である.駅に到着後,出発までまだ時間があったので,我々は駅のラウンジへと案内された.大きな荷物(スーツケース)があるためと,安全確保のためであろう.そして我々はラウンジでガイドさんの説明を受けた.我々が乗る車両は1等らしい.その後車内で食べる弁当を調達しようということになったのであるが,駅構内にある多数の売店の中から,Kはある中華料理屋を指名した.そこは焼きそばをはじめとする中華や海苔巻き,握り寿司などを販売する店で,ガイドさんの話にも登場していたところであった(結構この店で買って食べる地元民がいるらしく,そこそこ美味しいらしい).Kはこの店の焼きそばを是非食べてみたいということであった.ガイドさんは少し驚いていたが(日本人の場合,どちらかというとサンドイッチ類を希望する人が多いらしい),結局この店で焼きそばを買うことにした(寿司もひかれたようだが,気温が高めなのと長距離移動なのとで,鮮度の面が心配ということで見送った.しかしこの寿司,日本人にとって許容範囲内の味なのだろうか?)
 昼食とビールを調達し,時間となったので,我々はザルツブルク行きの列車に乗り込むことにした.ウィーン発ザルツブルグ行きの特急列車はガラガラに空いていた.いよいよ,モーツァルトの生地ザルツブルグに出発である.ヨーロッパの列車は基本的に日本とは異なり,車内放送はない.時間になると列車は音もなく走り出した.列車が出ると我々は先ほど購入した中華風(?)焼きそばを食べ始めたのだが,これがなかなか旨いではないか.ビールを飲みながらすっかりいい気分になってしまった.途中山と畑ばかりの景色が続くこと約3時間,途中ザンクトペルテン,リンツといった街を通過して,ようやくザルツブルグ中央駅に到着した(中央駅はあるものの,東ザルツブルグ駅や上ザルツブルグ駅があるという話は聞かない).列車から降りると,ムッと暑い熱気が襲ってくる.ウィーンよりも暑いんじゃないかと感じた(ザルツブルグは周囲を山に囲まれた盆地になっており,夏は暑く冬は寒い気候と思われる).駅のホームでは現地係員の女性が待っていた.案内されるままに外に出て,待機していた車に乗り込む.ザルツブルグ中央駅はその名に反して街の外れにあるため,車で街の中心部に入っていく.今回我々が宿泊するホテル”クラウン・プラザ・ザルツブルグ・ピッター”(長い名前)は,ザルツブルグの新市街,ミラベル宮殿の近くにあった.
 ホテルに入ってチェックインを済ませ,係員の方と話をする.どうやら明日6月15日は休日らしく,商店は大方閉まっているらしいこと,街では聖体節のお祭りが行われるらしい(パレードもあるらしい)ことを聞いた.その後部屋に入って荷物を解いて一休みした後,早速ザルツブルグの街に繰り出すことにした.
 


ザルツブルグの街

 ザルツブルグは中央をザルツァッハ川が流れ,川の右岸が新市街,左岸が旧市街になっている.新市街と旧市街の間には,いくつかの趣のある橋が架かっていた.
 ホテルを出た我々はバス通りを南に向かって歩いた.途中右手にミラベル宮殿が見える.そのまま歩いていくと,大きな川が見えてきた.これがザルツァッハ川であり,ここを渡った先が旧市街というわけである.川の向こう,小高い山の上に城砦が見える.あれがホーエン・ザルツブルグ城である.我々は大きな橋を渡って旧市街に足を踏み入れた(なんと大げさな).
 旧市街は道が狭く,いかにも”旧”といった趣である.狭い路地を潜り抜けていくと,何となく賑やかな通りに出た.これが有名なゲトライデ通りである.ここの見物は明日に回して,我々が目指したのはモーツァルト広場にあるInformation centerであった.ここでザルツブルグカードを手に入れるのが目的である.
 ザルツブルグカードは路面電車が乗り放題の上,モーツァルトの生家などの観光施設の入場料も無料になるという,非常にありがたいカードである.我々もザルツブルグ観光に備えて是非手に入れようとやってきたのだった(カードには有効時間によって24時間,48時間,72時間の3種類があり,我々が購入したのは48時間モノだった.

ザルツブルグカード.この街では無敵の強さを誇ります

シュターツ橋のたもと.対岸が旧市街です

見上げると,ホーエンザルツブルグ城がそびえてます
 
 カード購入後,少し街をぶらつくことにする.ザルツブルグ旧市街の中心は,ヨーロッパの大抵の町がそうであるように教会である.特にここザルツブルグは,古来カトリックの大司教が治める宗教国家であったため,街には数多くの教会関係の建物がひしめいている.その中心が大聖堂とその隣にあるレジデンツ(大司教の住処)である.さすが,大聖堂周辺はたくさんの観光客でごった返していた.中には路上で巨大チェスに興じている人たちもいる.
 旧市街にはモーツァルト広場,カラヤン広場などゆかりの人物にちなんだ広場がある(パパゲーノ広場なんてのもある.日本でいえば境港の鬼太郎駅みたいなものか 笑).レジデンツ近くの広場では大画面が設置され,周囲にはたくさんの国旗が掲げられていた.見るとサッカー・ワールドカップドイツ大会に出場する国々の国旗である(当然日の丸もあった).ここでみんなでワールドカップを観戦して盛り上がろうという企画らしい.オーストリア自身はワールドカップには出場できなかったものの,この盛り上がりは,やっぱりヨーロッパならではだった(ちなみにこの大画面,7月下旬からのザルツブルグ音楽祭では屋外コンサート用としても活躍するらしい).
 

大聖堂前では,巨大チェスに興じる人も(天童市みたい)

モーツァルトの像です

一部工事中の大聖堂
 


大聖堂のミサ

 地形が盛岡に似ているザルツブルグの夏は暑い.汗をたくさんかいているはずだが,湿度が高くないためすぐに乾燥してしまう.ふと,額をぬぐった指を舐めるとしょっぱい.塩が噴くとはこのことらしい.
 さて,我々はこの日夕方6時から大聖堂でミサが行われ,そこでモーツァルトの「リタニア K. 125」が演奏されるという情報を入手していた.リタニアとは司祭が主やマリアへの賛美を先唱し,信者が「ora pro nobis(我らのために祈り給え)」,「miserere nobis(我らを憐れみ給え)」などの折り返し句で応唱するという祈りの形式である(モーツァルト大全集の解説書より引用).モーツァルトはこのリタニア形式の曲を合計4曲作曲しており,この日演奏されるK.125は彼が16歳のときに作曲されたものである.我々はカトリックではないのだが,モーツァルトを愛好するものとして是非聞きに行かねばと思っていたのである.なお,モーツァルトは生後間もなくこの大聖堂で洗礼を受け(そのとき使われた洗礼盤が今もあるのだが,我々が見ることはできなかった),ザルツブルク時代には宮廷オルガン奏者としての活動の一環として,大聖堂での宗教作品の作曲も数多く行っている.
 5時50分位に大聖堂の中に入った.外はうだるような暑さだが,大聖堂の中は恐ろしくひんやりしている.まるで冷房が効いているように思われるが,実際にはそんなものはなく,分厚い大理石が断熱材の役割を果たしているためであった.以後我々はザルツブルグ観光で,暑くなると教会に避難するようになった(これが実に快適だ).会場内には既に多くの地元の人が集まっていた.観光客らしき姿もちらほら見られる.我々は演奏がよく聴けるように比較的前のほうの席に陣取った.大聖堂の脇のステージにはすでに演奏者(合唱団やオケ)が待機していた.
 6時になると鐘が鳴り,ミサの始まりを告げる.入り口からは教会幹部と思われる僧服を着た一団が入場してきた.ひときわ派手な服を纏った高齢の人がいたが,きっとこの人が大司教なのだろうと勝手に思った(ザルツブルグに今でも大司教座があるのかどうか,私には判らないが).司会進行役っぽい司祭風の人が出てきて,なにやら節の付いたセリフをしゃべると(これが実によく通る声.司祭になるには歌も上手くなくてはならないのか?),それに続いて一同応唱する(この辺はグレゴリオ聖歌などで知っているため我々は十分に対応可能である).こうして音楽が始まった.ミサはモーツァルトのリタニアの演奏を中心に,ところどころ司祭と会衆の掛け合いが入る(モーツァルトの曲はラテン語だが,司祭と会衆の問答はドイツ語であった).ミサは正味1時間ほどだった.大司教のお話があるのかと期待していたが,それはなく,一同荘厳に退場してミサは終了した.
 ミサ終了後大聖堂の外に出ると,やっぱり暑い.大聖堂に戻りたくなるが,いつまでもいるわけにもいかないため帰ることにした.帰りはせっかくだからと,買ったばかりのザルツブルグカードを使ってバスで帰った.
 その晩はホテルの地下にあるスポーツバーのような店に入って夕食にした.ここにもワールドカップ出場国の旗が飾られ,店内の大画面で試合が中継されていた(ちょうどこの時チュニジア対サウジアラビアの試合をやっていた).ここで我々はウィンナーシュニッツェル,サラダとソーセージの盛り合わせを注文した.ビールも飲んだのだが,何か入っているのか妙に甘いビールだった(銘柄は忘れてしまった).食事後部屋に戻り,一日の疲れが一気に出てバタンと寝てしまった.
 

これが実際のミサで使われた式次第です
 



 

 オーストリアトップに戻る   旅行記(5)へ   旅行記(7)へ