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オーストリア旅行記(2)


2006年6月10日(土)


出発まで

 別なページでも触れているが,成田発のヨーロッパ行きは,基本的に午前中に日本を発つ便が多い.このため私のように地方に住んでいる人間は必然的に首都圏に前泊する必要があるのだが,今回我々が利用するオーストリア航空も午前10時40分に成田を出発するため,前日の6月9日は成田に前泊することにした.とはいえ6月9日は平日であり,夕方まで普通に仕事をしてから出発したため東京駅に着いたのは夜の10時であった.すでに成田エクスプレスも京成スカイライナーも終わっており,総武線と成田線を乗り継いでやっとこさ成田駅にたどり着いた(スカイライナーや成田エクスプレスを使わないと成田がいかに遠いかあらためて実感する).ここからタクシーでホテルに入った(今回泊まったのはヒルトン成田であった).
 翌6月10日朝8時にホテルからシャトルバスで空港に向かう.今回利用するのは新装成ったばかりの第1ターミナル南ウィングである(どこがどう新装なのかよく分からなかったが).ここのJTBのカウンターで航空券を受け取り,その後オーストリア航空のカウンターに行きチェックインを済ませるのだが,早めに行ったのが幸いしてか,スムーズにチェックインできた.近くの他の航空会社のカウンターにはサッカー日本代表のユニフォームのレプリカを着た人たちが大勢屯していた(我々の出発前日の6月9日に2006 FIFAサッカーワールドカップドイツ大会が開幕したのだった).チェックイン後は銀行でユーロの両替をしたり(ユーロ高に泣かされた),朝食を済ませたり(讃岐うどん全国チェーンの杵屋があったためそこに入った.オーストリアではうどんなど食えそうになかったからである)して過ごした.ところで,我々は今回の旅行にあたって,初めて国際携帯電話のレンタルサービスを利用した.実はこの年の春から,我が家ではゴールデンハムスターとチンチラ(猫ではなく齧歯類の一種である)を飼いはじめ,今回の旅行にあたって彼らをペットホテルに預けてきたのだが,万一に備えて連絡先を確保するためである(普段日本国内で使っている携帯電話の番号にダイヤルすると,自動的に転送されるシステムである.便利な世の中になったものだ).その後免税店をひやかしたりしていよいよ出発の時が来た.


オーストリア航空

 オーストリア航空52便はほぼ定刻に出発した.目指すウィーンまで約12時間の行程である.乗り込んだ飛行機はエアバスA340-300でシートは2-4-2の配列であり,ルフトハンザやエールフランスのようなジャンボ機ではなかった(その程度の需要というわけだ).
 しばらくして安定飛行に入ると飲み物のサービスが始まる.酒飲みの我々は早速ワインを注文した.オーストリア航空の客室乗務員は赤を基調としたユニフォームを着ていた.国旗が赤だという話もあるが,モーツァルトレッドを採用しているというウワサもある(謎).
 ところでモーツァルトはオーストリアを代表する作曲家であるが,先年ドイツで,最も有名なドイツ人という企画でモーツァルトが取り上げられた際,オーストリア人が激怒したという(「バカ世界地図」(一刀・著)という本の「バカ世界のご当地の噂」というコーナーに,「(オーストリア人は)モーツァルトがドイツの作曲家と紹介されると,我慢がならない」という話が紹介されているが,恐らくこのエピソードを踏まえているのだろう).「モーツァルトはオーストリア人だ!」という訳だが,当のモーツァルトは自分はドイツ人だと思っていたようである(ドイツ語を母国語としているのだから当然か).
 当時のドイツ(ドイツ語圏)はほぼ中世以来の神聖ローマ帝国の領域に一致しており,その中心は15世紀以来神聖ローマ皇帝位を世襲していたハプスブルグ家の本拠ウィーンであった.つまり元々オーストリアこそ,ドイツに他ならなかったのである.ところが17世紀の三十年戦争で神聖ローマ帝国は空中分解し,さらに19世紀初頭のナポレオン戦争で正式に消滅,ハプスブルグ家も大きく後退した.19世紀半ばにはその勢力も今のオーストリア,ハンガリー,チェコ,スロバキア付近にほぼ限定されてしまった.こうした中18世紀頃からドイツ語圏の東の辺境にあったプロイセン(ブランデンブルグ辺境伯領が元祖というからいかに辺地だったかがわかる)が勃興,19世紀後半には有名なビスマルクの下,北ドイツ連邦というオーストリアを排除したドイツ諸国の連合体を形成(この辺は今の民主党ができるにあたって,旧社民党の幹部や新党さきがけ代表の武村正義氏を強引に除外した,いわゆる排除の論理を彷彿させる)した.そして1871年普仏戦争勝利後ついにドイツ帝国が成立したのである.こうしてハプスブルグ中心だったドイツはプロイセン中心のドイツに変わってしまった(乗っ取られた格好?).このためオーストリア人にとっては元々自分とこがドイツだったのに,と言う思いがあり,こうした反発につながるのであろう(ドイツ自身も内情は複雑で,たとえばミュンヘンのあるバイエルン州で列車事故があった際,それを伝える新聞記事に「この事故で○人の男性と.△人の女性,×人のプロイセンが死んだ」という記述があったとの噂もある).
 なお,機内では他の航空会社のように,航行に関しての情報や各種の映画が上映されていたが,それらに混じってモーツァルトイヤーのプロモーションビデオ(正味3分ほど,しかし制作費はえらくかかってそうだ.ちなみにこれはモーツァルトイヤーの公式サイトからもダウンロードできる)やら,「リトル・アマデウス」というタイトルの,子供時代のモーツァルトが主人公の子供向けアニメ(何だか日本でいう「一休さん」みたいなノリだ)が流されていた.さすがモーツァルトイヤーだ(笑).
 飛行機は順調に航行していた.夏のヨーロッパ便は太陽を追いかけるように西に向かって飛ぶため,あたりは明るいままである.このまま飛べば,現地の夕方に到着する.つまり寝ないまま頑張ってウィーンに着けば,そのまますぐに寝られるだろうという考えである.幸い(?)気が高ぶっているためか,全く眠れない.そうこうしているうちに着陸態勢をとって,無事にウィーンの空港に到着した.
 


15年ぶりのウィーン

 ウィーンの空港は私にとっては初めてだった(Kは以前トランジットで寄ったことがあるらしい)ので,キョロキョロと,おのぼりさんのようにあたりを見渡しながら歩く.イミグレーションを通過して,航空会社預けの荷物がでてくるターンテーブル前で待っていると,上方になにやらモーツァルトと書いた看板が,驚くことに日本語の看板もあった.さすがモーツァルトイヤーなどと感心しながら税関を通過して到着ロビーに入った.ここでライブドア,じゃなかったライブデスクの現地係員と合流する.

モーツァルトイヤーを告げる空港の看板.日本語もありました
 
見ると我々のほかに一組の老夫婦と女性の一人旅らしい人の併せて3人が一緒であった.皆で迎えの車(ワンボックスカー)に乗り込み,市内に向けて出発となる.天気は上々であった(何でも今朝まで天気が悪く,丁度我々が着いた頃から晴れてきたらしい.日頃の行いが良いからだなどと,ほくそ笑みながら話を聞いていた).
 車はウィーン市内へと入っていくと,左手に川が見えてきた.ウィーンといえばドナウ川が有名なためこれをドナウ川と思う人も多いそうだが,ドナウ川はもっと郊外にあり,今見える川は運河らしかった.暫く走ると車はリンク通りに入っていった.リンクはウィーンの旧市街(元々のウィーンの町.16,17世紀のオスマントルコによるウィーン包囲で包囲されたのもこの部分である)を取り囲んでいた城壁のあったところで,今は路面電車の環状線が走っている.東京で言えば山手線,大阪なら大阪環状線のようなものだが規模ははるかに小さい(一周20〜30分程度).このリンク通りならびにリンクの内側にウィーンの見どころが詰まっている.今回我々が宿泊するグランドホテル・ウィーンはリンク通りの国立歌劇場や楽友協会の近くにある.これは,ヨーロッパのコンサートは日本に比べて開演時間が遅く,必然的に帰りも遅くなるため,治安の面を考えてホール近くにしたのと,リゾート型と違ってこういうアクティブに動く旅行では,ついつい買い物をしてしまい,荷物を置きにホテルに戻りたくなるシチュエーションが多いからである.今回のライブデスクの旅行者は全員このグランドホテルに宿泊であった.
 
 ホテルに着くと,まずはチェックインをして,その後ライブデスクの係員からコンサートのチケット(これが一番重要)を受け取って解散となる.我々も旅装を解きに部屋に向かった.ヨーロッパのホテルはアメリカや日本のホテルに比べてインターネット環境整備が遅れている印象があるが,ここの客室にはLANが付いていた.
 しばらく部屋でウダウダした後夕食に繰り出すことにする.長いフライトと時差で何となくボーっとしていることと,明日お昼から早速コンサートがある(ウィーンフィルの定演はなんと真昼に行われる)ことからこの日の夕食は軽く済ませようということになった.ホテルを出て国立歌劇場を左手に見ながらケルントナー通りを歩いていくと赤いお魚マークの店が目に入った.ここはヨーロッパ各地に店舗を持つ,”ノルトゼー(Nordsee 北海という意味)”という魚料理店である.セルフサービスで,値段が安く腹いっぱい食べられる店で,私も1991年のヨーロッパ旅行の際には何度も利用した.

我々が泊まったリンク沿いのグランドホテルです

この日の夕食会場となった.魚料理のチェーン店です
 
どうせ後は飲んで寝るだけと決めていた我々は,これ幸いとノルトゼーに入ってビールやワインを飲みながら食事をしたのだった.
 食事を終えて店の外に出るとあたりは薄暗くなっている.我々はホテルに戻り,長旅の疲れとアルコールのためバタンと横になったのだった.
 



 

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