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オーストリア旅行記(3)


2006年6月11日(日)


グランドホテルの朝食

 翌朝体内時計にしたがって目を覚ます.外は快晴,今日からいよいよウィーンの観光である.本日の予定は午前11時からウィーン楽友協会のGoldener Saal(黄金の間)にて,ウィーンフィルの定期演奏会の鑑賞と,夜7時からアン・デア・ウィーン劇場でのコシ・ファン・トゥッテの鑑賞である(それ以外の時間は何も考えていない).まずは朝食をとるべく会場に行く.一般にヨーロッパのホテルの朝食はホテルのグレードによって,コンチネンタルだったりアメリカンだったりするのだが(1991年に初めてパリに行った時に泊まったホテルは,パンとコーヒーのみという,いわゆるパリジャンブレックファストというやつだった),このグランドホテルは,さすがリンク沿いのホテルらしく豊富なラインナップを誇るビュッフェスタイルだった.サラダに普通のパンやハム,チーズはもちろんのこと,ご飯(当然ジャポニカ米)に味噌汁,漬物や海苔,納豆からさらには,朝っぱらからスパークリングワインまで揃っていた.あると飲みたくなるのが人情,かくして朝っぱらから赤い顔になる事態となったのである.
 朝食後はしばらく部屋でゴロゴロして,10時ごろから着替えをして出かけることにした.
 


ウィーン楽友協会

 コンサート会場であるウィーン楽友協会は,ウィーンフィルの本拠地として有名である.特にその中のGoldener Saalは正月のウィーンフィル・ニューイヤーコンサートの会場にもなるところだ.本日の定期演奏会の会場もその”Goldener Saal”である.我々は演奏はともかく,その会場に入れるということでわくわくしていたのだった.楽友協会はリンク沿いにあって,グランドホテルから直線距離にして200m程,歩いて数分の場所にある.6月とはいえ快晴のウィーン市内の気温はぐんぐん上がる.そんな中,パリッとした格好をして歩いていくのはなかなか厳しいものがあった.
 写真や音楽番組などでしばしば見た楽友協会の建物に着くと,既に大勢の着飾った人たちが入り口で屯していた.どうやら開門を待っているらしい(ヨーロッパのコンサートは結構,開演間近にならないと中に入れてくれないことが多い).

楽友協会の正面です

楽友協会の前で(暑いです)
 
我々も建物の写真を撮ったりしながら(完全におのぼりさん状態)待っていた.10時40分頃にやっと建物のドアが開く.チケットを見せて中に入ると,自分たちの席はどこだろうと改めてチケットに印刷された座席番号を見た.Reihe 1と印刷されている.オオッ最前列だ,と指定された席に着いたのだが…,せ,狭い.本当に,座ると膝がステージにぶつかりそうになるくらい最前列であった(まさに砂被り席).首を上方に曲げないとオケや指揮者が見えないのだった(実際,指揮者を見上げるような形であった).
 時間になりオケ,次いで指揮者が入場してくる.ホームグランドでの演奏会のためか,オケの面々は皆リラックスした表情だ.本日の演目はモーツァルトの交響曲32番,同じくモーツァルトのピアノ協奏曲27番とショスタコービッチの交響曲10番であった.今年ならではの組み合わせといえよう.演奏は休憩なしであっという間に進んでいく.「ウィーンフィルの響きはこのGoldener Saalでこそ映える」といった音楽評論家がいたが,それもうなずけるような演奏会であった(ピアノ協奏曲27番では,最前列過ぎてピアノのA. ブレンデルの足しか見えなかった).
 

憧れの,ウィーン楽友協会黄金の間です


我々の席は最前列で,指揮台を見上げる感じです


ホール内の装飾です.ウィーン・フィルの演奏はやはりここでこそ映えます
 


カフェ・モーツァルト

 ウィーンフィルの定演が終わった後,我々は一度ホテルに戻って着替えをした.演奏会用の格好ではとてもウィーン市内の観光などできないからである.時刻は1時を回っている.そろそろ昼食にしたい時間だ.昼食には,あの「第三の男」で有名なカフェ・モーツァルトに行くことにした.このカフェは1794年(モーツァルトの死後3年)創業というから,日本でいえば京都の有名な割烹並みの歴史を誇っている.場所は国立歌劇場の裏手になり,ホテルからも近い(1991年の旅行の際も私は訪れたことがあった.この頃はバブル真っ盛りで,このカフェの経営も日本人の手に渡っていた).近くには観光案内所もあり,多くの観光客で賑わっている.

白目をむいたモーツァルトの幟です
 
 ふと見ると,あちこちにモーツァルトの絵が.しかしよく見るとなんか変,みんな白目をむいているのだった.これがオーストリア人のギャグセンスなのかと思った私であった.目指すカフェ・モーツァルトに着いてテラス席に座る.ここで我々はウィンナー・シュニッツェル(ウィーン風カツレツ)とグーラシュ(ビーフシチューのようなハンガリー風スープ)を食べながらビールを飲んだ(もちろんKは後からケーキを注文していた.このカフェには「モーツァルト・トルテ」という,「地球の歩き方」をはじめとする各種ガイドブックで必ず紹介されている名物ケーキがあり,Kも食べてみたかったようである).昼食を終えて店を出たのは午後2時過ぎであった.  

映画「第三の男」にも出てきたカフェモーツァルトです

これがウィンナーシュニッツェル(仔牛のカツレツです)

Kはしっかりとデザート(モーツァルトトルテ)を頼んでいます
 


シュテファン寺院

 カフェ・モーツァルトでの昼食後我々は,ウィーン時代のモーツァルトが住んでいた家の一つである,”Mozarthaus Vienna(モーツァルトハウス・ウィーン)”に行ってみた.モーツァルト絡みの観光としては絶対にはずせない場所だからである.し,しかし…….ハウスの前には長蛇の列,大勢の観光客でごった返している.ざっと見たところ軽く30分は待ちそうだ(ディズニーランドのアトラクションみたい).このモーツァルトハウスは以前はフィガロハウスと呼ばれていたのだが,2006年モーツァルトイヤーの開幕前に大改装を施され,モーツァルトハウス・ウィーンとして生まれ変わったものである.以前は地味な感じの観光地であり,1991年(ちなみにこの年は没後200年だったはずだが)に私が行った時はほとんど貸切状態であった.

シュテファン教会の有名な尖塔です(工事中なので風情がありませんが <(_ _)>).
 
 こりゃだめだと諦めて他所に行くことにした(モーツァルトハウスは翌日の朝一番にあらためて来ることにした).ウィーンはリンクを中心に四方に広がっている都市である(リンク内部が旧市街,リンク外が新市街である)が,リンクの中心にあるのがシュテファン寺院である.この教会はなんと12世紀に造成が始まった歴史と伝統ある教会である(日本でいえば平安時代末期).当然各時代ごとに建築法が異なるため,場所によって趣が異なるのだった(ロマネスク様式,ゴシック様式,バロック様式が混在している).ウィーン旧市街には,このシュテファン寺院より高い建物を建ててはいけない決まりがあり,リンク内からはどこからでもこの教会を目にすることができるのだった.我々も教会の塔(14世紀に完成)に登ったり,モーツァルトの史跡(モーツァルトはこの教会で1782年にコンスタンツェ・ヴェーバーと結婚し,1791年には彼自身の葬儀がここで行われた)を見学したりして過ごした.   

教会の外観

聖堂の様子

モーツァルトの史跡
 


アン・デア・ウィーン劇場

 シュテファン寺院で時間をつぶしているうちに,時刻は夕方に近づいてきた.この日は19時から,アン・デア・ウィーン劇場(モーツァルト最晩年のオペラ「魔笛」が初演された劇場)で歌劇「コシ・ファン・トゥッテ」を観劇する予定になっている.ドン・アルフォンソをルッジェーロ・ライモンディが演じる舞台だ.
 我々は着替え等をするために一旦ホテルに戻った(こういう時にリンク沿いのホテルは楽である).部屋に入ってシャワーを浴び(6月のウィーンは意外に暑く,日中歩き回って汗だくである),夕食代わりのカップ麺(日本から持ってきた”きつねどん兵衛”など.ヨーロッパのコンサートは終演が遅く,行く前に何か食べておかないと途中でお腹が空いて大変な思いをすることになる)を食べて,またまたパリッとした服に着替えてホテルを出た.
 アン・デア・ウィーン劇場はリンク沿いから少し外れたところにある.歩いているうちに良く分からなくなって不安になったが,幸いなことに他の着飾った一団に出会ったため,彼らに付いていけばいいだろうと思い,そのまま付いて行ったところ無事劇場に到着した.
 アン・デア・ウィーン劇場は「魔笛」が初演されたことでもわかるように,貴族用ではなく民衆向けの劇場である.建物も国立歌劇場のように彫刻やら何やらで飾られているわけでもなく,通りに何気なく建っていた(庭などもないため,幕間には歩道に出て飲み物を頂かなくてはならないのだった).

これがアン・デア・ウィーン劇場のチケットです(結構いい席でした).

カーテンコールのワンカット.向かって右端がルッジェーロ・ライモンディでした

ここの劇場は去年までミュージカルが主体でしたが,今年からオペラもやるようです
 
 19時,いよいよ開演である.まずは序曲が奏でられ,幕が開く.「コシ・ファン・トゥッテ」は簡単に言えば,他愛もない男女の痴話げんかが主題である.第1幕の冒頭,二人の若者がそれぞれ自分の恋人(姉妹である)の貞節を自慢している.そこに老哲学者のドン・アルフォンソが登場し,女なんて油断ならないと笑う.二人の若者は怒って,アルフォンソと言い争いになる.このあたりの掛け合いが,なんとステージ上ではなく,客席の通路で繰り広げられるのが庶民的である.我々の席にもアルフォンソがやって来て歌っていたが,独特のひげ面,これが天下のルッジェーロ・ライモンディ!こんな至近距離で見られるなんてと感激した我々であった(今度は彼の当たり役である,ドン・ジョバンニを見てみたいものである).
 最初のやり取りが終わった後,ようやく歌い手たちはステージ上へ,ここからやっと普通の舞台になる.物語は淡々と進行し,あっという間に第1幕終了.ヨーロッパのコンサートでは,幕間になると観客はみんなロビーに出てきて,お酒を片手に世間話に興じる.休憩時間も日本に比べて長く20〜30分はザラだそうである.アン・デア・ウィーン劇場は建物がこじんまりとしていて,ロビーといえるような空間がない(劇場以外の余分なスペースがない)ため,劇場の外の歩道に屋台が出て酒類を販売していた.我々はスパークリングワインを飲んで時間をつぶした.
 長い幕間の後,第2幕が始まった.第1幕では戦地に行った(ことになっていた)恋人たちを思っていた姉妹であったが,アルフォンソとその手先になった家の女中にそそのかされて,徐々に気が移っていく.ついには姉妹はアルバニアの貴族(実は件の若者の変装)と結婚することを決意するが,ここで大どんでん返しとなり,結局元の鞘に収まってお芝居は終わる.ライモンディ以外は若手を起用した舞台であり,モーツァルトの軽妙な音楽と相まって良いステージにまとまっていたと思った.
 舞台が終わるともう夜の10時になっていた.一般に夏の西ヨーロッパは日が長いのだが,ウィーンは西ヨーロッパ大陸時間帯の東のはずれにあるため,日の出が早く,日没も早い(フランスやスペインなんかはかなり西にあるため夏は22時でも明るい).終演で外に出るとすっかり真っ暗になっていた.我々は家路に着く人たちに混じってホテルに帰って寝た.
 



 

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