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オーストリア旅行記(7)


2006年6月15日(木)


モーツァルトの生家(Mozarts Geburtshaus)

 翌朝,6月15日も,またまた快晴であった.今日の予定は夕方からマリオネット劇場で歌劇「セビリアの理髪師」(ロッシーニ作曲)を観劇する予定で,日中は全てザルツブルグ観光に充てるつもりだ.まずは朝食をとるべく会場に向かう.ここのホテルの朝食は,さすがにウィーンのグランドホテルみたいに和食メニューはなく,パンやハム,チーズを主体にして卵料理もあるいわゆるアメリカンスタイルだった.朝食後早速街に繰り出した.
 昨日も歩いたバス通りを進み,ザルツァッハ川に出た.昨日とは違う橋を渡ろうと,川沿いを少し上流に歩き,この日は歩行者のみが通れる小さな橋(モーツァルト小橋というらしい)を渡って旧市街に入った.
 まず目指すはモーツァルトの生家「Geburtshaus」である.旧市街のメイン通りゲトライデ通りに面している,この家はすぐに見つかった.ガイドブックなどでよく目にする黄色い外壁が特徴的であり,壁にはMozarts Geburtshaus(ドイツ語でモーツァルトの生家の意))と書かれている.朝早いせいか(8時50分くらいに行った),まだあまり観光客は来ていない.我々は入り口で待機して,ほとんど一番乗りで9時の開店(?)と同時に中に入った.
 2006年10月にNHKハイヴィジョンで放送していた,「毎日モーツァルト」の特番(案内人の山本耕史さんがモーツァルトゆかりの地を旅して歩く企画)では,オーストリア人ガイドに案内されて中を見学していたが,我々をガイドしてくれる人はいなかった(普通そうか).

新市街と旧市街を分けるザルツァッハ川です

シュターツ橋にて

ここが有名なゲトライデ
通りです.朝早いのでま
だあまり人はいません
 
 Geburtshausは5階建てだが,全てがモーツァルトの家という訳ではなく,当時一家(父レオポルト,母マリア・アンナ,姉ナンネルとW. A. モーツァルトの4人)が暮らしていたのはここの4階部分である.中には一家が暮らしていた様子を再現した部屋もあった.この部屋の片隅に1台の古ぼけたクラヴィーアがあったが,これが「毎日モーツァルト」の特番で山本氏が「えっ!これ,モーツァルトが実際触ったやつなんですか!」と感激していたクラヴィーアである.もちろん通常は”触ってはいけません”だが,山本氏はNHKの取材ということで,特別に許可されたらしく,触りまくっていた(笑).また,当時の台所と思われる部屋(山本氏は中に入って見学していたが,我々は外から眺めるだけだった)もあった.一方でモーツァルトへの音楽教育に重要な役割を果たした,父レオポルトが執筆した”バイオリン教程”や本人の毛髪なども展示していた.家全体の印象はといえば,ウィーンのモーツァルトハウスのような高級住宅といった感じ(ウィーンの家にはビリヤード台があるなど,セレブな雰囲気が漂っていた)はなく,つつましい一家の暮らしがしのばれる家であった.  

ここが,あまりにも有名なモーツァルトの生家です

ちなみに裏から見るとこんな感じです(一応Geburtshausと書いてあります)

街中いたるところにモーツァルトが.これは1月のモーツァルト週間のポスターでしょうか
 


大聖堂広場のパレード

 Geburtshausの見学を終えて外に出た我々は,ゲトライデ通りを大聖堂方面に歩いていった.大聖堂に近づくと人だかりが出来ている.何だろうと思って行ってみると,大聖堂前の広場を様々な衣装(昔風の衣装の人が多かったが,僧服や修道士の服装の人も多かった)を着た一団がねり歩いていた.一団の中心にはザルツブルグ大司教座の重鎮と思しき,ひときわカラフルな僧服を着た人たちもいて,何らかの宗教的なイベントであることはすぐに理解できた.
 実はこの日6月15日(木)は聖体節なのである(カトリックの祝日で,復活祭から数えて50日目の日曜日の次の木曜日.したがって日にちは毎年異なる).目の前で繰り広げられているのはその聖体節のパレードのようであった.パレードが大聖堂広場を一巡するとおもむろにミサが始まった.昨日の大聖堂でのミサにも登場した大司教のような人(ザルツブルグには今でも大司教座があるんだろうか)が進み出て,お祈りを始めたのだった.
 思えばザルツブルクは今でこそオーストリアの一都市だが,かつてはローマ教皇が任命する大司教が統治する大司教領の都市で,ウィーンのハプスブルグ家ですら手が出せない街であった.こうして見てみると,ザルツブルクは宗教都市であるということが実によくわかる.日本でいえば高野山などがおおよそこんな感じであろうか.司祭が祈りの言葉を唱え,会衆がそれに続いて唱和する.一方で香を焚いてお清めを行う人もいる.こうやって見てみると,宗教儀式というものは,どこの国でもあまり変わりはないのかもしれないと思ったのであった.

聖体節のパレード

僧服を着た一団

一番奥が大司教でしょうか?

お祈りをしています
 


ザンクト・ペーター教会

 しばらくして我々は大聖堂のパレード見学の列から離れた.まだ午前中だというのに「あ,暑い…」.次はホーエンザルツブルグ城(以下城)の観光に行こうと思った我々だったが,とりあえず城行きのケーブルカー発着場近くにある,ザンクト・ペーター教会に避難した(昨日の大聖堂で,教会内部が涼しいことを知ったため).予想通り中は冷房が効いたようにヒンヤリしている(ああ,涼しい).
 しばらく中で涼んだ後,教会に付属した墓地を見学することにした.実はここの墓地は2つの意味で有名なところである.ひとつはモーツァルトの姉(マリア=アンナ 通称ナンネル)のお墓がある場所として,もうひとつは映画「サウンド・オブ・ミュージック」でナチスに追いかけられたトラップ一家が隠れた場所としてである.
 モーツァルトの姉ナンネルは当初,自分が死んだら父レオポルトが埋葬されたザンクト・セバスチャン教会に埋葬されることを願っていたのだが,弟の妻コンスタンツェが自分の第2の夫ニッセン氏を父と同じ場所に埋葬したために(なぜそういうことをしたのか不明.自分を認めてもらえなかった腹いせなのか,自分の前夫の家族にお近づきになりたかったのか,それとも何も考えていないのか),遺言書を書き換えて,現在のこの場所に埋葬されたということである.
 このペーター教会のすぐそばには,岸壁をくり貫いて造られたカタコンベ(地下墓所という意味)があり,ナンネルの墓はこのカタコンベの入り口にあった.墓石を見るとW. A. モーツァルトの姉”マリアアンナ”(ナンネルのこと)の名前と共に,ヨゼフ・ハイドン(交響曲の父と呼ばれる有名な作曲家)の弟でザルツブルグの宮廷楽団のコンサートマスターやオルガン奏者等を歴任したミハエル・ハイドンの名前もあった.
 なんと,二人は同じところに眠っているらしい.どういう関係だったんだろうと素朴な疑問を抱く私であった.
 ナンネルとM. ハイドンのお墓を見学した後,今度はサウンド・オブ・ミュージックでトラップ一家が隠れた墓石などを見て回り,ホーエンザルツブルグ城に登るケーブルカーの乗り場に向かった.

ザンクト・ペーター教会の
外観です.中は冷房が効
いたように冷えてます
カタコンベから見下ろした教会の墓地です

サウンド・オブ・ミュージックでトラップ一家が隠れたお墓です

ここにモーツァルトの姉ナ
ンネルとM. ハイドンが一
緒に眠っています
 


ホーエンザルツブルグ城

 ホーエンザルツブルグ城は1077年(ローマ教皇グレゴリウス7世と神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世が聖職者叙任権問題を争った,有名な”カノッサの屈辱”と同じ年)に築城が始まったといわれる,典型的な中世の城砦である.小高い山の上にそびえる山城であり,日本でいえば越後の春日山城(上杉謙信の居城)のような趣である.徒歩で登ると結構堪える距離であり,我々はケーブルカーで登ることにした.
 城砦行きのケーブルカーは約10分間隔で運行されており,先着順に定員になり次第締め切られる(往復2.1ユーロだが,ザルツブルグカードを持っていると無料になる).我々が行った時は丁度直前のケーブルカーが出発した直後だったらしく誰もいなかった.しばらくボーっと待っていると,客を満載したケーブルカーが山から下ってきた.我々は,乗客を全て吐き出して空になったケーブルカーに乗り込む.我々の後から続々と観光客が乗り込み,すし詰め状態になってから出発した.
 ケーブルカーは満員の乗客を乗せながらも,スルスルと山を登っていく.たちまちペーター教会の墓地が眼下に遠ざかっていく.なんとなく愛媛の松山城を髣髴させる(松山城は街からロープウェイで城に登っていく)が,決定的に違うのは松山城は走行中に,松山の観光案内が車内放送で流れるのに対して,ホーエンザルツブルグ城のケーブルカーには車内放送が全くないことであった(最もここに限らず,ヨーロッパの乗り物には車内放送はほとんどない).数分で城に到着した.
 ケーブルカーを降りると,例によってうだるような暑さである.乗り場の付近にはカフェやレストランがならんでいて,ビールが飲みたい衝動に駆られたが,ぐっと我慢して先に進んだ.城壁からはザルツブルグの街が一望できた.大聖堂はもちろんのこと,ザルツァッハ川の向こう,新市街のミラベル宮殿もよく見える.確かに攻城砲などなかった中世には,ここは難攻不落の城砦だったことがよく分かる.

ザルツブルグのシンボル,ホーエンザルツブルグ城です

城にはケーブルカーが便利

城から下界を眺めます

遠くに山が見えます
 
 城砦の内部には多くの部屋があり様々な展示物が飾られていたが,さすがに元々要塞だっただけに,軍事関係の展示が多く,軍事マニアの私をワクワクさせるものも多かった(その他,拷問部屋などという,いかにも中世ヨーロッパ的な部屋もあった).
 ひと通り見学して外に出ると,丁度お城の中庭のようなところに出た.ここには長椅子とテーブルが並べられており,ここで休憩して下さいということであろうか?しばらく座って休んでいたが,直射日光の当たる屋外であり,かなり環境的には厳しい.早々に立ち去って昼食にすべく,ケーブルカー乗り場付近のカフェに入った.カフェで我々は例によってビールを飲みながら,スープとパスタを頂いたのだった(このときKが頼んだスープが,唐辛子が利いて,オーストリア風チゲといった趣だったらしい). 
 

大砲と兵隊を表しています

19世紀末の機関砲でしょうか

昔の軍服です
 

城壁に咲いていた花です.一瞬高山植物かと思いましたが,やっぱり違うようです

城の中庭です.ここでは何かイベントが行われるのでしょうか.気になります

昼食のカフェにて.Kが手にしているのはモーツァルトが飼っていた犬です
 


新市街のモーツァルトの家

 昼食を摂った後我々はケーブルカーで下界に降りた.急に降りたため何となく耳が痛い.そこから今度は,ホーエンザルツブルグ城の反対側の高台であるメンヒスベルグに向かって歩いた.途中夏のザルツブルグ音楽祭のメイン会場である祝祭劇場やサウンド・オブ・ミュージックにも出てきた馬洗いの池(この池の前がカラヤン広場である.20世紀を代表する名指揮者の一人であるヘルベルト・フォン・カラヤンはここザルツブルグ出身である)を見物する.
 祝祭劇場は翌月に控えたザルツブルグ音楽祭に向けて改修工事の真っ最中であった(今年はモーツァルト生誕250年ということで,かなり気合が入っているようである).馬洗いの池は切り立ったメンヒスベルグ山の崖下にあり,付近には岩盤をくり貫いて造った駐車場と地下通路があった.この地下通路が涼しくて,外から中に入ると実に心地よいのである.
 さて,目指すメンヒスベルグの山頂行きのエレベーター(有料だが,ザルツブルグカードを持っていれば無料)は馬洗いの池から更に北西に進んだところにある.徒歩で行く散策路もあるらしいが数十分かかるらしいので,面倒くさがりの我々はエレベーターで行くことにした.受付でザルツブルグカードを提示してチケットをもらってエレベーターに乗る(後でわかったのだが,このエレベーターは乗り口と降り口が別になっているのだった).エレベーターはスルスルと昇り始め,30秒くらいであっという間に山頂に到着した.
 メンヒスベルグの山頂には展望台があり,旧市街および,それを挟んで反対側にあるホーエンザルツブルグ城がよく見えた.また,ここには2004年に近代美術館も建てられ,街の新たな名所になっているようであった(残念ながら我々は時間がなくて入らなかった.ちなみにここはザルツブルグカードは効かないらしい).あたりをしばらく探索して,山頂のカフェで寛いだ後再びエレベーターで下山した.
 その後我々は旧市街側から,ザルツァッハ川の河畔に出て,モーツァルト橋を渡って新市街に戻った.新市街側のモーツァルトの住居(Mozart-Wohnhaus)へ行くためである.モーツァルト一家は1773年に,旧市街側の家が手狭になったためにこちらの新市街のマカルト広場に面した住居へと引っ越してきた.以後,この家は父レオポルトが亡くなる1787年までモーツァルト家の住居として用いられていた.第2次世界大戦中にアメリカ空軍の爆撃を受けて半壊してしまったが,その後当時の姿に再建され,現在は記念館として公開されている.(なお,この再建に当たっては各方面から多くの支援があり,特にあの第一生命が多額の寄付をしたらしい.また個人でも多くの人が支援したらしく,支援者の氏名も出入り口のプレートにずらりと並んでいたが,作家の永井路子さんの名前もあった)我々も受付でガイドフォンを借り(日本語バージョンあり.この記念館設立には日本人からの寄付ももたらされたことへの感謝なのか?),中に入ることにした.午後に入場したということもあり,中は結構賑わっている(言うまでもなく,ここはザルツブルクカード有効である).ちなみに,この家の前の道路は,路線バスも通るなど,結構交通量が多いことが判明したので,歩く時は注意したほうがよいだろう.
 こちらの家は生家とはまた趣が異なり,広々として小奇麗な住居である.モーツァルトや家族はこの家でしばしば演奏会を催したということだが,確かにこれくらいの広さがあれば,演奏会も開けそうである.このような家で暮らし,なおかつ犬や小鳥も飼っていたそうであるから,決して貧しい階層ではなかったということがよくわかる.そして家の中には例によって,教科書やグラビアでおなじみの肖像画(あの有名な家族の肖像画もこの家に展示されている.モーツァルトと姉ナンネルがクラヴィーアを連弾し,父レオポルトがバイオリンを手にし,パリで旅行中に亡

ザルツブルグ音楽祭の会場になる,祝祭劇場です(音楽祭に向けて工事中でした)

サウンド・オブ・ミュージックでも有名な馬洗いの池です

この池はメンヒスベルグの断崖の下にあります

とても涼しい地下通路

メンヒスベルグから見た旧市街です

午後2時くらいでムチャクチャ暑いです

モーツァルト家の新居です.旧市街の家より広いです

モーツァルトの家の前は広い道路で交通量もあります
 
くなった母の肖像画を囲んでいる,あの絵である)や楽譜,実際に使っていたクラヴィーアや,グラスハーモニカ(濡れた指でグラスの縁をこするとほわーんという音が出るが,その原理を用いた楽器である.モーツァルトは晩年,この楽器のための作品を2曲(K.617と617a)残している)等の楽器が展示されていた.家具や調度品もあるにはあったのだが,残念ながら家具類のほうはモーツァルト家の人が実際に使っていた品という訳でもないようである(父レオポルトの死後,遺産は多くが競売にかけられてしまったらしい.なお,モーツァルトの直系の子孫は残っていない(彼の息子2人が生涯独身だったので,ここでモーツァルト直系の血は絶えてしまった.
 姉の子供の血統も20世紀初頭で絶えてしまったらしい.残念である)ので,こうした遺産の管理は,主に国際モーツァルト財団が行っているようだ).なお,展示品の中でとりわけ目を引いたのは,射的ゲームの用具一式である.モーツァルト一家は近所づきあいの一環として,よく射的ゲームを楽しんだらしく,そのとき用いられた射的の銃(エアガンみたいなものか?)や的が展示されていた.この的には様々な絵が描かれているのだが,その中の1つは,モーツァルトらしき人物がズボンを下ろした男の子のお尻を覗き込んでいるという,まさに「なんだかなー」という感じの絵であった.また,別の部屋にはスクリーンと音響設備が用意されており,ここで腰掛に座りながらオペラの映像を楽しむことができるようになっていたのであるが,ここで座りながらついミネラルウォーターを口に含んでいたら,係員に「飲食はご遠慮下さい」と注意されてしまった.ひー,ごめんなさい(泣).
 


ミラベル宮殿

 新市街のモーツァルトの家を後にした我々は,そのまま川に沿った道を北上した.この通りには州立劇場,マリオネット劇場(今夜来る予定である),モーツァルティウムといった音楽関係施設が立ち並んでいる.ちなみに当地で購入したガイドブックによると,モーツァルティウムはこの時,健康に害のある建築材(おそらくアスベストのこと,どうしてこんな回りくどい言い方をするんだろう.まるでしゃぶしゃぶを食べさせる風俗店みたいだ 笑)の使用が判明し,改装工事中とのことであった.通りからモーツァルティウムの反対側には有名なミラベル宮殿と庭園が広がっている.この宮殿は17世紀に当時の大司教が,愛人のために造らせたそうである(カトリックの聖職者は妻帯は禁止されているが,愛人についてはその限りではないらしい.そういえばモーツァルトの従姉妹のベーズレも聖職者の愛人になって子供を産んだそうだ).

現地で購入したガイド
 

 ところで,モーツァルティウムの庭にはモーツァルトが歌劇「魔笛」を作曲した小屋(魔笛小屋.元はウィーンにあったのが移築されたそうである)があるらしい.ここは魔笛の依頼主,シカネーダーがモーツァルトに提供したものである.当時モーツァルトは他の仕事にも取り掛かっており,魔笛の作曲がなかなか進まなかったため,ここに缶詰になっていたのかと考えてしまった.現地のガイドブックによると,魔笛小屋のあるモーツァルティウムの庭の入り口はミラベル庭園側にあると書いてあったため,懸命に探したのだがなぜか,入り口は発見できず,魔笛小屋は見られなかった(何か呪文を唱えないと,入り口が開かない仕掛けになっているのか?秋の毎日モーツァルトの特番で,山本耕史氏は魔笛小屋を見学していたがどうやって入ったのか不思議である).   

ここが国際モーツァルティウムです(アスベストのため工事中のようでした)

有名なミラベル宮殿です.かつては大司教の愛人の館だったそうです

宮殿の庭はベルサイユやシェーンブルンのような幾何学的な模様です
 


マリオネット劇場

 さてミラベル庭園を見学した後夕方になったため,一旦ホテルに戻ることにした.今夜はマリオネット劇場でオペラを見る予定になっているからである.ザルツブルグはうだるような暑さだったため,帰路アイスクリーム屋に寄ってしばらく涼んだ.
 ホテルに戻ってシャワーを浴びて,再び外に出る(マリオネット劇場は有名なオペラを人形劇で演じる劇場であり,ウィーンの歌劇場のようにそれほど気合の入った服装をする必要はない場所である).
 この日の演目はG. ロッシーニの歌劇「セビリアの理髪師」であった.「セビリアの理髪師」はボーマルシェの3部作の最初の作品で,若き日のアルマヴィーヴァ伯爵とロジーナの結婚騒動に理髪師のフィガロが絡む筋書きである(有名なモーツァルトの「フィガロの結婚」はこれの続編にあたる).ロッシーニは1792年生まれのイタリアの作曲家であり,イタリアはもとより,ウィーンやパリでも活躍した19世紀前半の人気オペラ作家である.

夜の女王の人形です

こちらの人形はモーツァルトの両親という噂です
 
当時ウィーンで頑張っていたベートーベンやヴェーバー(モーツァルトの妻コンスタンツェの従兄弟)は人気面でどうしてもロッシーニに勝てず,ヴェーバーはロンドンに去ったし,ベートーベンは友人への手紙にそのことについての不満を書いている.もっともロッシーニ自身は若い頃にオペラ作曲でしこたま儲けて,しかもフランス政府から年金が支給されるようになると,わずか38歳でオペラ作曲をやめてしまい(最後の作品が有名な「ウィリアム・テル」),後半生は宗教曲や器楽曲をちょこちょこと書きながら,グルメ三昧の生活を送った人である(なんだか大橋巨泉みたいな人生だ).
 そんなロッシーニの代表作が「セビリアの理髪師」である.実はそれ以前にパイジェッロという作曲家が同名のオペラを作曲してそれなりの評判を得ていた.そこにロッシーニが新作(原作はボーマルシェの作品)として取り上げたため,パイジェッロ派の人達が上演の妨害をしたため,初演は散々だったという.しかし今では,先発品(?)のパイジェッロの作品よりも,こちらのロッシーニ作のほうが断然メジャーになっている.
 劇場に入って受付を済ませて中に入る.折角だからとパンフレットを購入した(CD-ROM付きの結構気合が入ったパンフだった).客席について待っていると,いよいよ演奏が始まる.舞台はあらかじめ録音されている演奏に人形があわせる形で進んでいく.この日の演奏はロジーナ役をテレサ・ベルガンサが歌っていた(ロッシーニのオペラ作品では,主要な女性キャラクターはメゾソプラノかアルトが務めることが多い.なぜなんだろう).
 ところで,マリオネットというと,子供向けの人形劇を想像する向きも多いと思うが,ここのマリオネットは,単なる子供向きのものではない.いってみれば,日本でいう人形浄瑠璃とか,現代であれば川本喜八郎氏(NHKの人形劇「三国志」や人形アニメ映画「死者の書」で有名)や辻村ジュサブロー氏(「新八犬伝」の人形作者)の作品に匹敵する,大人の鑑賞に十分堪えうる人形劇である(もちろん,「魔笛」とか「くるみ割り人形」のように,子供も楽しめる演目もあるにはあるが).
 今回は喜劇的内容のオペラということで,人形もコミカルな演技を披露してくれ(2幕のフィガロがバルトロの髭剃りをやっている脇で,伯爵とロジーナが愛を語る場面は,ポネル演出の有名なビデオ映画に似た構図だった),なかなか楽しい舞台であった.
 途中休憩を挟みながら,この2幕のオペラ(人形劇)は軽快に進んでいき,そして幕となった(上演時間を1時間半程度に集約するため,アリアやレシタチーヴォの一部が割愛されていた).我々は劇場を後にした後,ホテルのバーへ行って何か飲もうということになった.バーへ行き,カウンターに座ってそれぞれカクテルを注文した.Kは注文したロングアイランドアイスティーを,マスターに「きついよ」と言われながらも,構わず飲んでいた.バーのテレビでは,丁度スウェーデン対パラグアイの試合を放映しており,1−0でスウェーデンが勝っていた.
 



 

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