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イスラエル旅行記(6)


2016年9月17日(土)


34.主の祈りの教会

 明けて9月17日となった.昨夕から始まったユダヤ教の安息日もまだまだ続く.昨夜寝たのが早かったせいか,この日は朝4時に目が覚めた.寒かったので空調を切って二度寝する.次に起きたのはモーニングコールの6時だった.身支度をして朝食へ,定番のブッフェスタイルだがこの日は卵料理がなかった(安息日だからか?).その後準備をして8時に出発する.まず目指すのはオリーブ山,エルサレムにやって来たイエスが祈りのためにしばしば訪れていたところである.
 最初に訪問したのは山頂にある主の祈りの教会,ルカ福音書11章にあるイエスが弟子たちに主の祈りを教えた場所とされる地に立つ教会である.オリジナルは4世紀のコンスタンティヌス帝の母ヘレナがこの地を巡礼した際に建てられたとされる(ここに限らずヘレナはエルサレムにゆかりの場所が多い).現在の教会は1874年に造られたらしい.かなり敷地の広い教会であるが,特筆すべきは壁に世界各国の言語による主の祈りが刻まれたレリーフが埋め込まれていること.もちろん日本語のそれもあった.聖堂はこの規模の教会の割には地味な印象である.建物自体は近代のものであるが,地下には中世の頃の遺構があり見学することができた.

主の祈りの教会

様々な言語の主の祈り

教会の回廊
 

聖堂はちょっと地味

入り口の十字架がカトリック的

日本語の主の祈り
 

地下に降りる

中世の遺構

誰が描いたのでしょう
 


35.主の涙の教会

  境内を一通り散策した後は展望台へ.ここからはエルサレムの旧市街が一望できる.有名な岩のドームや聖墳墓教会の頭が見えた.町の東側の谷がダビデの町,手前の白い荒涼とした部分がギドロンの谷であろう.こうして城壁に囲まれた街を遠望すると,古のネブカドネザル王もかくありきという気分になった(もっとも彼の時代には岩のドームも聖墳墓教会もなかったが…).   

旧市街の遠望


岩のドーム(右)と聖墳墓教会(中央)

黄金門

 

アル・アクサー寺院

ダビデの町

記念撮影
 
 展望台を降りてそのまま徒歩で結構急な坂道を下る.周辺には白い直方体の石が並んでいると思ったら,どうやら石棺のようだ.ものすごい数の棺が所狭しと並べられている光景はなんとも神妙な気分にさせられた.
 坂を下った先にあるのが次の訪問地,主の涙の教会である.ルカ福音書19章にある,イエスがエルサレムの滅亡を預言して涙した場所に建つとされる教会だ.現在のものは1954年にフランシスコ会によって建てられたが,そのドームは涙の滴を象ったものだそう.内部はというと,ドームの天井が金ぴかで,さっきの主の祈りの教会とはだいぶ趣が違っていた.ちなみに,この聖堂の市街地に向いた側に窓があり,そこに十字架が描かれている.内部から十字架を見て,さらに視線を市街地に移すと,なんと!岩のドームと聖墳墓教会が一直線に並んでいることがわかる(キリスト教の2つの施設でイスラム教の施設を挟むという意味なのか?). 

山を下っていきます

石棺が
 

主の涙の教会

完全に一直線ではありません

金ぴかの天井
 


36.ゲッセマネの園

 教会を出て道をさらに下っていく.次に向かうのはゲッセマネの園,最後の晩餐を終えたイエスが最後の祈りを捧げた場所である.「私が祈っている間ここにいて目を覚ましていなさい」と言われたにもかかわらず,みんな眠っていたため弟子たちが怒られた場所でもある.ゲッセマネというのはアラム語で油搾りの意味で,当時はここにたくさんのオリーブの木があったといわれている.今ではその多くが失われているものの,若干は残っていて往時の姿を偲ぶことができた.ここでイエスは彼を裏切ったユダに引率された人々に捕縛されることになる.  

ゲッセマネの園

オリーブの木が

後ろは万国民の教会
 


37.万国民の教会

  続いてはゲッセマネの園の隣に建つ万国民の教会へ.万国民のという名前はこの教会をたてるために様々な国の人々から寄付があったことに由来する.別名苦悶の教会とも呼ばれ,これは苦悩に満ちた最後の祈りに由来する.オリジナルの教会が建てられたのは4世紀と言われるが,8世紀に起こった地震で崩壊してしまった.その後小さい聖堂が建てられるなどした後,現在の建物が造られたのは1920年代である.ただ教会の構造に4世紀のバジリカの形が残っているともいわれる.教会の入り口は旧市街の城壁に面しており,入り口から城壁を見ると真正面に黄金門が見える.ここは旧約聖書のエゼキエル書に救世主が入場すると書かれているほか,イエスがエルサレムに入場する際にここから入ったとされている門である.ユダヤ教&キリスト教双方にとって重要な門ということになるが.オスマントルコ支配の時代にこの門は閉鎖されてしまった(イスラム教徒にとってはユダヤ教やキリスト教の救世主の登場は好ましくないということなのだろう).

万国民の教会

壮麗な教会です
 
 教会はフランシスコ会のものであるが,その内部は様々な壁画などで飾られており,カトリック教会というよりもギリシャ正教会風な感じである.祭壇正面には岩があり,イエスがここで苦悶の祈りをささげたとされている.この日はミサが行われており,残念ながら岩に近づくことはできなかった.聖堂正面上部には3枚の壁画があり,正面が「苦悶するイエス」,左が「ユダの接吻」,右が「イエスの捕縛」となっている.  

司祭の手前の白い岩がイエスが祈った岩

紫系のステンドグラス


天井の装飾が宇宙的

 

ユダの接吻

苦悶するイエス

イエスの捕縛
 


38.鶏鳴教会

  教会の見学の後は再びさっきのオリーブの木のあるところを通ってバスに乗り込み,次の目的地鶏鳴教会に向かう.ここはかつて大祭司カヤパの屋敷があった場所に建てられているという教会である.マタイ福音書の中で,ペテロがイエスを3度拒絶した直後に鶏が鳴いたというエピソードからその名がある.場所はシオンの丘,この界隈は昨日も訪れた場所だが,時間の関係上この教会には来られなかったからである.というか,聖書の物語的には

 最後の晩餐 → ゲッマネの祈りと捕縛 → 大祭司の屋敷への連行

という流れになるので,この観光順で間違いないといえる. 
 この教会もオリジナルは5世紀のビザンチン時代に建てられ,現在の聖堂は1931年に改築されたものらしい.まずは中に入ってみる.聖堂は祭壇上部の壁に聖書の場面が大きく描かれているなどややビザンチン風だが,近代的でとても聖書時代の面影はない.しかし,地下に降りてみると,そこには当時の貯水槽や馬小屋の跡といわれる空間が保存されており,そのひとつが捕縛されたイエスが最後の夜を過ごした場所とされている.今は地下になっているが,当時はここが地表面だった可能性もあり,歴史の重みに身震いを感じたのだった.
 再び外に出る.先述のように教会の建物は新しいが,実はこのそばに2000年前のものと学術的に確認された階段が発掘されている.今ではだいぶ荒れてしまっているが,当時は大祭司邸に至る道としてきれいに整備されていたはずであり,イエスや弟子たちもここを歩いた可能性がある極めて貴重な空間なのである(階段の上にはイエスの捕縛の場面を描いたレリーフがある).

鶏鳴教会

聖堂

5世紀の教会の床
 
 このように宗教的にはかなり厳しい場所であるものの,教会のお土産コーナーには鶏が描かれたマグカップが売られているなど世俗的な一面もあり興味深い.また教会の庭にはペテロがイエスを拒んだ場面の像が設置されていて,その上部にもしっかり鶏がいるのがなんだか微笑ましかった.  

イエスが最後の夜を過ごしたとされる牢獄

有名なペテロの否認の像

これが1世紀の階段

 

弟子たちとオリーブ山に向かうイエス

捕縛され連行されるイエス


鶏のマグカップ

 


39.キブツと昼食

 そんな印象的な鶏鳴教会を後にして一同いよいよエルサレムに入場! と思ったら昼食のために一旦郊外へ(笑).この日は旧市街から南に離れた場所にあるkibbutz ramat rachel というホテル内のレストランだった.Kibbutz(キブツ)というのは日本語の器物とは全く関係ないユダヤ人の共同体である.イメージとしては旧ソ連のコルホーズに似ているが,社会主義国家の制度ととしてのコルホーズと違い,キブツはユダヤ教徒たちが自らの宗教心により自発的に作ったものという点で決定的に異なる.かつては無報酬の労働と引き換えに生活費が無償となる共同体だったが,今ではある意味で会社化しているらしい.このホテルもそうしたキブツ関係のホテルらしかった.ランチは一般的なイスラエルのパターンでサラダブッフェとメインディッシュという組み合わせである.  

昼食レストランのあるホテル

メイン料理のブース

いただきま〜す
 


40.いよいよ旧市街へ

 昼食後は今度こそエルサレム旧市街への入場である.旧市街内部は基本的に車両通行禁止なため,観光は徒歩ですることになる.この日は東のライオン門から場内に入った(門にはライオンのレリーフがあるが,一方でここはステファノ門という別名もある.これは原始キリスト教時代に最初の殉教者であるステファノが群衆によってこの門から外に引きずり出されて石打にされたことに由来する).
 門から旧市街に入り西に向かって歩いていく.これから我々が歩いていく道が,ヴィア・ドロローサと呼ばれ,死刑判決を受けたイエスが十字架を背負わされて歩いた道行きである.まさにキリスト教徒のもっとも重要な巡礼コースというわけである.この道行は全部で14のステーションから構成されており,エルサレム旧市街北東部のライオン門からほど近いところの,総督ピラトの官邸があったとされる場所をを起点とし,市街を西に向かいながら、かつてゴルゴダの丘があったとされる聖墳墓教会まで続いていく.以下各ステーションごとに紹介する.

旧市街外縁部

ダマスカス門(車窓)
 

ライオン門付近の城壁

ライオン門

旧市街に入りました
 


41.ヴィア・ドロローサ

 
第1ステーション
ライオン門から徒歩数分の場所.元はピラトの官邸跡だった場所で,現在はムスリムの学校になっている.自分が訪問した時間は終業前だったので中には入れなかった.ここでイエスはピラトによる裁判を受け,十字架刑の判決を受ける.
 

ヴィア・ドロローサの始まり

この道を歩く

第1ステーション
 
第2ステーション
第1ステーションのすぐ西側,イエスが十字架を背負わされローマ兵によって鞭打たれたとされる場所である.今は鞭打ちの教会が立っている.内部は周辺よりも低くなっていて昔の床が残っている.
ここから少し西に行ったところにエッケ・ホモ教会がある.これは「この人を見よ」の意でピラトがイエスをさして群衆にそう呼びかけた記事に由来する.ここには十字架が置かれていて,毎週金曜日の午後フランシスコ会の修道士がこの十字架を担いで実際にこのルートをたどるのだそう.第1&第2ステーションと,このエッケ・ホモ教会はかつてアントニオ要塞と呼ばれるローマ軍の駐屯地だったところらしい.

鞭打ちの教会

第2ステーション
 

イエスが十字架を背負わされた場所

その場面がステンドグラスに描かれています

一段低いのは古代の床だと言われます
 

エッケ・ホモ教会

エッケ・ホモアーチ

フランシスコ会の十字架
 
第3ステーション
エッケ・ホモ教会から西に進み,エル・ワド通りにぶつかるT字路の曲がり角,イエスが最初につまずいたとされる場所である.ただしこのエピソードは聖書にはなく他の伝承による.ここと次の第4ステーションは1856年に建てられたアルメニア正教の教会敷地内にある.

さらに進みます
 

第3ステーション

アルメニア正教の教会

躓きの像が
 
第4ステーション
第3ステーションの曲がり角を左折し南下して少し行った道の左側,十字架を背負ったイエスをマリアが目撃した場所とされている.このエピソードも聖書の記述にはない.ここの古い床にはビザンチン時代のモザイクがあり,そこにはマリアのサンダル跡が描かれている.

第4ステーション
 

アルメニア教会の聖堂

地下のイエスとマリアの像

マリアのサンダル跡
 
第5ステーション
第4ステーションのすぐ先を右折してヴィア・ドロローサ通りに入る.そのすぐ南側に第5ステーションがあり,ここは兵士たちがイエスの十字架をキレネ人のシモンに担がせたとされるポイントだ(マルコ福音書の15章に記事あり).ここの壁には倒れかかったイエスが触れたとされる岩があり,歴史上数えきれない巡礼者たちが触ったため,かなりすり減っている. 
 

第5ステーション


多くの巡礼者が触りすり減っています

この辺から土産物屋が
増えてきます
 
第6ステーション
第5ステーションからのヴィア・ドロローサ通りは狭い歩行者専用,周囲にはお土産物屋が立ち並び賑やかな通りである.その途中に第6ステーションがあり,ベロニカという女がイエスの顔をハンカチで拭ったとされる場所である.今はギリシャ正教の聖堂が建っている.
 

第6ステーション

ギリシャ正教の聖堂

歴史映画のような光景
 
第7ステーション
ヴィア・ドロローサ通りをさらに進みハン・アルザイト通りとの交差点に第7ステーションがあり,イエスが2度目につまづいたとされる場所である.1世紀当時エルサレム市街はここまでで,ここに市外への城門があったという.当時ここにイエスの罪状が掲げられたと考えられている.今でこそゴルゴダの丘とされる聖墳墓教会は旧市街内部にあるものの,穢れを極端に嫌うユダヤ教世界において市内に処刑場があったとは考えにくいからである.
 

第7ステーション

かなり世俗的な光景
 
第8ステーション
ハン・アルザイト通りに左折しすぐの道を右折,少し西に行ったところが第8ステーション,イエスがエルサレムの娘たちに語ったとされる場所である(ルカ23章).ここにもギリシャ正教の教会が建っていて,壁には十字架が描かれている.
 

第8ステーション

十字架が描かれています
(写真左端)
 
第9ステーション
来た道を戻り再びハン・アルザイト通りを南下し,少し行った先を右折するとそこが聖墳墓教会である.この教会の入り口に第9ステーションがあり,イエスが3度目につまづいた場所とされる(これも聖書には記事のない伝承).ここはコプト教会の管理下にある. 
 

いよいよ聖墳墓教会

第9ステーション
 


42.聖墳墓教会

 この後第10ステーション以降はすべて聖墳墓教会の中にある.聖墳墓教会はキリスト教における一大聖地であり,今でもギリシャ正教・アルメニア正教・コプト教・シリア正教・エチオピア正教,そしてローマカトリックが仲悪く(笑)共存している.特に教会の入り口のドアを誰が管理するかでもめるため,現在そのカギはイスラム教徒が管理している.巨大な教会は諸教会のセクションに細分され,それぞれの教派が独自に運営するその姿は,俗っぽく言えば教会のショッピングモールといった趣だ.

聖墳墓教会の巨大な門
 
ちなみにエチオピア正教はオスマントルコの時代からこの聖地を守ってきた重要な教会だが,19世紀以降に起こった他教会との勢力争いに敗れたためモールの中には入れず,その聖堂は外にひっそりと建っている.  

コンスタンティヌス大帝の母ヘレナの聖堂

聖墳墓教会外にあるエチオピア教会

エチオピア教会内部
 
第10ステーション
聖墳墓教会の入り口手前右側の階段を登ったところにある.ここはイエスが衣をはぎ取られた場所とされ,今はカトリックの小さな聖堂になっている(次の11ステーションとは隣接しているが行き来はできない(覗き込むことはできる)). 
 

第10ステーション

カトリックの聖堂
 
第11ステーション
聖墳墓教会の入り口から入ってすぐ右側の階段を上ったところにある(前述の10ステーションとは隣接しているが行き来はできない).イエスが十字架に打ち付けらえた場所とされている.ここもカトリックの聖堂で,正面にその場面を描いた絵がある,たくさんの巡礼者であふれているが,聖歌を歌っている欧米系の人たちがいた. 
 

教会内部の階段を上がります

第11ステーションの絵

巡礼者の方々
 
第12ステーション
イエスが息を引き取った場所,すなわちゴルゴダの丘の十字架が建てられていた場所である.巨大建築物の2階が丘だといわれてもピンとこないが,そのスポットには丸い穴があり,昨日訪問した聖誕教会の星同様訪れた人々が代わる代わる手を触れていた.第11ステーションの隣にあり,ここはギリシャ正教が管理している.

ゴルゴダの丘のポイント
 

上記ポイントの直上にあります

十字架が立っていたとされる岩

なんとなく仏像チック
 
第13ステーション
マリアがイエスの遺骸を引き取ったとされる地点である.第11ステーションと第12ステーションの間にあって,ひっそりと祭壇がある(ヴィア・ドロローサ全行程の中で第10ステーションと並ぶ地味なスポットかも).スターバトマーテル ドロローザ(悲しみの聖母)の絵が置かれている.


聖母画
 
第14ステーション
ヴィア・ドロローサの終点はイエスが埋葬されたとされる場所だ.巨大なドーム内に小さなドームがあってその内部に石棺がある(マトリョシカ状態).最大の聖地のため長い行列ができていた(自分が行ったときは30〜40分で入れたが,ガイドさんによるとこれはかなり短い方でひどいときは2〜3時間待ちになるらしい).受付の司祭さん(?)に5〜6人ずつ順番に内部に誘導されて参拝する.ただし30〜40秒ほどでさっさと出されてしまう(そうでないと熱心信者さんが長居してきりがないからだろう).ここの写真撮影はガイドブックによっては大丈夫となっているが,その日の係員次第なところがあるらしく,この日はダメと言われてしまった(泣).ちなみにキリスト教の教義ではイエスは3日目に復活するので,ここに遺骸があるわけではない.そのためここは復活聖堂と呼ばれている.

最終ステーションに向かう途中にあった絵です

復活聖堂脇にあった絵
 

長い行列

復活聖堂

幻想的なドーム
 
 復活聖堂の向かいには殉教聖堂というギリシャ正教の華やかな聖堂があり,ちょうどミサが行われていた(祭壇のところに立っていた黒づくめの司祭が,最初人形だと思っていたら動きはじめたので本物だと悟ったというのはナイショです 笑).
 一通り見学を終えて1階に降りると,そこには十字架から降ろされたイエスの聖骸に香油を塗った場所とされる1.5畳くらいの大きさの大理石があり,そこも大勢の巡礼者が熱心に触っていた.
 こうしてヴィア・ドロローサの道行きは終了である.もちろんこの道が制定されたのは中世以降であり,本当にイエスがこのコースを歩んだという証拠はない.それでも1000年以上にわたって多くの巡礼者たちが歩いたであろう道を自分も歩くというのは非常に意味深い経験だった.

絵画のように美しい殉教聖堂

まさにギリシャ正教です
 

香油を塗られるイエス

香油の大理石

こちらも触るスポット
 


43.安息日の終わり

 聖墳墓教会を後にしてそのまま西に向かう.これまではキリスト教的な観察をしながらだったので,帰路はこの町のエキゾチックな雰囲気を味わいながら歩いた(久保田早紀さんの「異邦人」の歌のイメージに近い町って案外ここじゃないかと思ったりした).15分ほど歩いて旧市街西端のヤッホ門に到着,見渡すとダビデの塔が見えた.ここでバスに乗りこむ.車内で夜のオプショナルツアーに参加する人たちの点呼があったのだが,申し込んでいたはずの我々の名前が呼ばれない.おかしいなと思ってたずねたら,我々の申し込み方法が特殊だったので把握されていなかった模様

エキゾチックな風景
 
(笑 このツアーは元々クラブツーリズムのツアーだったのだが,我々はいつも利用しているクレジットカードの旅行デスクを介して,共催である近畿日本ツーリスト側から申し込んでいた.理由はそうした方が旅行代金が割引になってお得だからなのだが,そのせいか旅程表の表紙が我々だけ違っていた).確認を取ってもらったらチケットはちゃんと確保されていたので一安心である.
 ホテルに戻りしばし部屋で休憩,日中撮った写真を確認して感慨にふける.そういえば今日はユダヤ教の安息日だったハズだが,観光中まわりはキリスト教の巡礼者など外国人観光客ばかりだったから全くそういうイメージがなかったなぁ,などと言っているうちに日没になり安息日は終わった. 
 

総菜屋さんです

鳥がいます

こ,これは…
 

イスラエルの救急車

ヤッホ門

ダビデの塔
 


44.ダビデの塔のナイトツアー

 この夜はオプショナルツアーに出かけるため,早めに夕食を済ませる必要がある.日没と同時にレストランに行き夕食をいただいた.これからまた歩くのでアルコールは控えめである(笑).
 その後集合時間になったのでロビーに行く.見渡したところ今回のツアー客の多くが参加していたようだ.一方で我々の1日後,9月14日に日本を出発した同じツアーの人たちも来ていた.そちらの参加者ともお話したのだが,人数は10人ちょっとで我々とは違い,だいぶこじんまりとしているらしい.この辺は参加費の関係もあって13日出発に人が集中したせいだろうと想像できたが,そっちの方が小回りが利いて楽そうだなとは思った(まあ参加者にもよるが,添乗員さんの苦労は少なさそう).
 というわけで,3年1組&2組に加えて2年1組も参加のオプショナルツアーとなった.バスに揺られて向かった先は先ほどバスに乗った旧市街西側のヤッホ門,ここで降りて,さきほど目にしたダビデの塔と呼ばれる城塞に向かう.ダビデの名が冠されているが,旧約聖書のダビデ王とはあまり関係はなく,ここが造られたのは紀元前1世紀のヘロデ王の時代らしい(オペラ好きの間でヘロデというと,サロメの父親を連想するが,そちらのヘロデは息子の方で,こちらのヘロデは偉大なユダヤの王である).

月に照らされるダビデの塔

たくさんの観光客

ショーの始まり
 
 ヘロデはこの地に3つの城塞を建造したが,その後の戦乱で2つは破壊されてしまい,唯一残ったものが紆余曲折を経てダビデ王の塔と呼ばれるものなったということだ.今夜はそのダビデの塔(というか要塞)の壁面をスクリーンにして聖書時代から現代までのこの町の歴史を映し出そうという趣向である.基本的に言葉は使用せず映像だけで見せるという.この辺の歴史が大好きな自分にはまったく問題ないシチュエーションで,じっくりと堪能することができた(やっぱりビザンチン時代が出てくるとワクワクするのは自分がビザンチン皇帝であることの宿命だろう).
 終了後は1時間ほどフリータイム,夜のエルサレムなんて知らない人が聞いたら怖いと思うかもしれないが,ダビデの塔周辺はショッピング街になっていて灯りも煌々としており,基本的な注意事項さえ守れば大丈夫なのである.
 そんな感じで時間を過ごし,バスでホテルへ.部屋に戻ってから持参したお酒を飲んで明日に備えたのだった.
 
ローマ帝国時代
夜の商店街

ストリートミュージシャン
 



 

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