ビザンチン皇帝の部屋 本文へジャンプ
トップページ

ミャンマー概要

ミャンマー1

ミャンマー2

ミャンマー3

ミャンマー4

ミャンマー5

ミャンマー6


アクセスカウンター
 SINCE 2011年9月25日
       

 ミャンマーの概要


1.ミャンマーの地理

 ミャンマーはインドシナ半島西部,北緯10度から28度,東経92度から101度に位置するやや南北に細長い国である.かつてはビルマと呼ばれていた.面積は68万平方キロで日本の1.8倍,人口は5140万である.首都はかつてはアンダマン海に面したヤンゴン市であったが,2006年に内陸のネーピードーに移った.
 国土の中央には広大な平原が広がり,大河が発達するなど大穀倉地帯となっているが(特にイラワジ川,シッタン川,チンドウィン川を3大河川とよぶ),周辺部は西のアラカン山脈,北東のシャン台地,東のペグー山脈など山々に囲まれている.東南アジア最高峰のカカボラジ山(標高5,881m)が国の最北部にある.これら自然の要害が国境

ミャンマー全図
 
を形成していて,西からバングラディシュ,インド,中国,ラオス,タイと接している.一方で南側はアンダマン海とベンガル湾に面している.また山がちな北部を上ビルマ,平野の広がる南部を下ビルマと呼ぶこともある.  


2.ミャンマーの気候

 ミャンマーは低緯度地帯に位置するため,基本的には熱帯気候に属する.ただ北部は北回帰線よりも北になり,しかも標高が高いため冬季(12〜1月)には10℃前後まで冷え込むこともある.
 ミャンマーにははっきりとした雨季と乾季があり,5月から10月までが雨季,それ以外が乾季とされている.乾季のうち11月から2月上旬までは北半球の冬の時期に当たるため気温が30℃に達しない日もあり過ごしやすい.同じ乾季でも2月下旬から4月にかけては気温がどんどん上昇して一年でもっとも暑い時期となる(この時期を特に暑季と呼ぶことも).一方で5月から10月の雨季は暑く雨が多いが,暑季に比べるとまだ気温は低い.雨季の降水量に関しては,北部山岳地帯や南部のヤンゴン付近は特に多く,月間500ミリを越えるが,中部のマンダレーやバガンは150ミリ程度と少ない.
   
   1月  2月  3月  4月  5月  6月  7月  8月  9月  10月  11月  12月
 北部(ミッチーナ) 24.2 26.7 30.0 33.3 32.7 30.6 30.0 30.6 31.2 30.3 27.4 24.6
10.3 12.7 16.4 19.5 22.3 24.6 24.2 24.3 23.4 21.2 16.0 11.6
8 18 26 46 159 535 513 411 285 158 28 9
 中部(マンダレー) 28.6 32.1 35.8 38.4 36.8 34.2 34.3 32.3 33.1 32.2 30.2 28.2
13.3 14.9 19.7 24.4 25.8 25.8 25.8 25.2 24.9 23.5 19.4 14.8
4 2 1 40 138 116 83 136 150 125 38 6
 南部(ヤンゴン) 32.2 34.5 36.0 37.0 33.4 30.2 29.7 29.6 30.4 31.5 32.0 31.5
17.9 19.3 21.6 24.3 25.0 24.5 24.1 24.1 24.2 24.2 22.4 19.0
5 2 7 15 303 547 559 602 368 206 60 7
   
ミャンマー各地の気候(上段から最高気温,最低気温,降水量)    


3.ミャンマーの歴史@ 〜近代以前〜

 ミャンマーの地にいつごろから人が住み着いたのかは不明だが,中国・チベット方面からイラワジ川を南下してきた人々が最初であろうと考えられている.各地に様々な部族が分散して小集落を形成していたようだが,この時代のことは記録が乏しくよくわかっていない.この国が歴史に登場するのは7世紀ごろのことである.当時ミャンマー北部にビュー族と呼ばれる人々が定住し,城壁で囲まれた都市国家を形成した.上座部仏教の伝来もこの頃とされ,以来ミャンマーに仏教文化が花開くことになる.
 現在のミャンマーにおける多数民族であるビルマ族がこの地に入ったのは9世紀ごろといわれ,その最初の王朝が11世紀半ばに成立したバガン朝である.この王朝の下で今に残るバガンの仏教遺跡群が建築された.
 13世紀末にバガン朝はモンゴル軍の侵攻によって滅び,以後ミャンマーは分裂状態となる.北部にはタイ系のシャン族による王朝が,南部にはモン族がペグー(現バゴー)を中心とした国を作り抗争を繰り返した.
 一方国を失ったビルマ族は中部のタウングーに逃れていたが徐々に勢力を盛り返し,15世紀後半には周辺の国家を併合し再びミャンマー全域の統一に成功した.これがタウングー王朝で,一時はタイのアユタヤ朝を服属させるなど大いに栄えた.しかし17世紀になるとインドに成立したムガール帝国の圧迫を受け,さらにはシャン族・モン族の反乱にあって弱体化,18世紀半ばに滅亡する.しかし王朝を打倒したモン族も国を統一するには至らず,ミャンマー北部のシュエボーにいたビルマ族からコンバウン王朝が興り国土を再統一しそのまま近代に至った.
   


4.ミャンマーの歴史A 〜近代以降〜

 18世紀末なるとインドがイギリスの勢力下に入り,コンバウン朝はそれと直接国境を接するようになった.両国の間にはたびたび紛争が発生したが,19世紀の3度にわたる英緬戦争に敗れたことによって王朝は滅亡しミャンマーはイギリス領インドの一部とされてしまった.
 植民地化されたミャンマーであったが,第一次世界大戦のころから独立運動が盛んになり,1930年代には各地で武装蜂起も起こったがこの時は鎮圧される.
 1941年12月日本がイギリスと開戦すると翌42年日本軍がミャンマーに侵攻,イギリス軍をインドに駆逐しほぼ全域を占領した.この時ビルマ独立義勇軍を率いて日本軍に協力したのがアウンサンである.1943年にミャンマーは日本軍の後押してビルマ国として独立を果たすものの,あくまでも日本に協力することを前提とする仮のものであった.
 1944年以降連合軍側の反撃が本格化し日本軍の劣勢が明らかになるとビルマ国内は動揺する.かねてから日本の傀儡であることに不満を抱いていたアウンサンは1945年3月27日日本に反旗を翻してイギリス側に寝返った.そして第二次世界大戦後の1948年ついにビルマ連邦としてイギリスから独立を勝ち取ったのである(独立を目の前にしてアウンサンは暗殺されたが彼は今でもミャンマー独立の父として国民の尊敬を得ている).
 独立後のミャンマーは少数民族の分離運動などで混乱する.そして冷戦下ベトナム戦争が始まると軍部によるクーデターが発生,以後ビルマ式社会主義を標榜する軍事政権時代に突入した.軍事政権は国民による民主化運動を弾圧する一方で,国際社会の制裁によって国の経済は停滞していった.
 冷戦が終結しソ連の崩壊以降も軍事政権が続いていたが21世紀に入ってようやく民政移管の流れが生まれ,選挙が行われて文民の大統領が誕生したのは2015年のことである.
   



 

ミャンマートップへ  旅行記(1)へ