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 SINCE 2011年9月25日
       

ラオスの概要


1.ラオスの地理

 ラオスはインドシナ半島北東部,北緯14度から21度,東経100度から107度に広がり,北西から南東へ延びる細長い国である.東はベトナム,南はカンボジアとタイ,西をミャンマー,北を中国と周辺全てを陸の国境で接している.このため海を持たない内陸国でもある.
 総面積は23万6千8百平方キロとベトナムやマレーシアの7割,タイの5割程度を持つが,一方でその人口は約700万人と,約1億のベトナムや約7千万のタイの10分の1以下,より面積の小さいカンボジアの1300万人と比較しても半分程度しかなく,東南アジア諸国(ASEAN)連合加盟10ヵ国の中では面積が極端に小さいブルネイとシンガポールに次いで下から3番目である.

ラオス全図
 
 その国土は大半が山岳地帯であり,平野部は中部から南部のメコン川流域にわずかに存在する程度である.人口集中に適した平野が乏しいこともこの国の人口が少ない理由であろう.
 ラオスには人口100万人を越える都市はなく,最大の首都のビエンチャンでも人口は80万人程度である.その他の主要都市として観光都市として名高いルアンパバーンや南部のサワンナケートなども人口は軒並み10万人レベルである.
 


2.ラオスの気候

 他の東南アジア諸国と同様ラオスにははっきりとした雨季と乾季がある.一般には5月から9月までが雨季となり特に7,8月は降水量が200mmを越える.ただ日本の梅雨のように1日中しとしとと降り続けることは無く,スコールのような雨が一気に降る一方で,晴れ間が覗くことも多い.10月から4月までの乾季は青天の日が続き,この時期の降水量は雨季の10分の1程度になる.また乾季のうち3月から4月は特に気温が上がって暑さが厳しいため暑気と呼ばれる.ラオスは国全体が内陸で山がちなため,ミャンマーやベトナムのような気候の地域差はあまりない.    
   1月  2月  3月  4月  5月  6月  7月  8月  9月  10月  11月  12月
 ビエンチャン 28.4 30.3 33.0 34.3 33.0 31.9 31.3 30.8 30.9 30.8 29.8 28.1
16.4 18.5 21.5 23.8 24.6 24.9 24.7 24.6 24.1 22.9 19.3 16.7
7.5 13 34 85 246 280 272 335 297 78 11 2.5
   
 ビエンチャンの気候(上段から最高気温,最低気温,降水量)    


3.ラオスの歴史

 地理の項で開設したようにラオスは人口が少ないため,その歴史を概観すると常に周辺の大国の思惑に翻弄されてきた歴史となっている.
 この地域に人々が定住するようになったのは紀元前に遡ると言われているが,今のラオスの主要民族であるラオ族による最初の統一国家が形成されたのは14世紀のラーンサーン王国である(ラーンサーンとは百万頭の象の意).ファー・グム王によって建国され,首都はルアンパバーンであった.王はまた国家の宗教として上座部仏教を導入したことでも知られている(それまでのラオ族の間では土着宗教の他大乗仏教が信仰されていた).続くサームセンタイ王に時代に王国の税制や兵制が整備され国の基礎が固まった.
 16世紀後半セーターティラート王の時代になると隣国ビルマのタウングー王朝が隆盛しその圧迫を受けるようになった.このため首都が南のビエンチャンに移されることになる.その後一時タウングー王朝の支配下に置かれるも,17世紀初頭に独立を回復し,スリニャ・ウォンサー王の時代に仏教を中心とした芸術が繁栄した.
 しかしスリニャ・ウォンサー王の死後,王位継承を巡る内紛が起こり,18世紀初めにはルアンパバーン王国,ビエンチャン王国,チャンパーサック王国に3分裂した(この時代を三国時代と呼ぶ).国家が分裂したことで個々の国家の弱体化は否めず,三国は隣国シャム(タイ・アユタヤ朝)の影響を強く受けるようになった.
 18世紀後半になるとシャムとビルマの戦争が起こり,三国は外交的に微妙な立場に追い込まれる.戦争がシャムの勝利に終わった後,結局三国ともシャムに併合されることになってしまった(ただし形式としての王国は存続した).
 19世紀に入ると産業革命を経た欧米列強の進出がこの地域にも見られるようになった.イギリスがインドからビルマへと進出する一方で,インドシナ半島東部に進出したのがフランスである.1863年にまずカンボジアが保護国化され,1882年の清仏戦争を経てベトナムも植民地化された.この清仏戦争の過程で清国側の黒旗軍がラオス内で騒乱を起こしたことから,ルアンパバーン王国はフランスの協力を得て事態の収拾を図った.その結果ラオスに対するフランスの影響力が増大し,1893年の仏泰戦争を経てラオスはフランス領インドシナ(仏印)に編入されることになった.
 第二次世界大戦が始まりフランスがドイツに降伏しヴィシー政権が発足すると,日本が仏印への進駐を開始,これが太平洋戦争の呼び水となった.1945年にヴィシー政権が崩壊すると日本は仏印政権を解体し構成各国を独立させる.この一環としてラオスは形式上ルアンパバーン国王だったシーサワーンウォンを王として独立することになった.
 同年8月日本が敗戦したため,フランスが再び同地域の支配を目論み兵を出した.ただ各国では独立に向けてすでに人々の組織が形成されていたため,フランスの再支配への抵抗が起こった.1946年からのインドシナ戦争のさなか,1953年にラオス王国として正式に独立を果たす.しかしながら当時の北ベトナムや中華人民共和国の支援を受けた左派との間で内戦が勃発(ラオス内戦),結果1975年に左派が勝利したため,国王サワーンワッタナーは退位しラオス人民革命党の一党独裁によるラオス人民共和国が成立し現在に至っている.
 このように現在のラオスは共産主義体制下にあるが,一方で昔からの上座部仏教は以前とかわらず篤く信仰されており,共産主義体制でありながら聖職者の社会的地位が高いという独特な社会となっている.
   
     
     
     


 

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