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フランス旅行記(5)


2008年4月 2日(水)


”新選組 IN パリ”の始まり

 明けて4月2日,いよいよ「新選組 IN パリ」の朝がやってきた.今回のフランス旅行の目的の90%がこのイベントにあると言っても過言ではないほどのビッグイベントである(笑).早起きして朝食を食べ,着物を着こみ小道具を持ってロビーに降りた.
 この企画,パリの観光名所に繰り出して写真や動画を撮るというものである.パリは公共交通機関が発達した街であり,それこそ地下鉄(メトロ)を使えば大抵の場所には行くことができる.イベントにあたり当初はその手で行くことも考えた.しかしパリは地域によっては治安が悪い場所があり,新選組装束みたいな目立つ格好でウロウロして悪い人に捕まるのはもちろん,万一警察の職務質問にあった場合も言葉の問題もあり(フランス人は結構自国の言語にプライドがあり,知っていてもワザと英語を話さない人も多い)トラブルになりかねない.ここは助っ人が必要だ,というわけで地元の日本人ハイヤーをチャーターすることにした.
 あらかじめメールでパリで時代扮装がしたい旨を伝えると,「できるだけ協力します」という返事が返ってきた(笑).そしてこの日朝9時にホテルのロビーで待ち合わせをしていたのである.
 さて時間になり運転手がやってきた.見た目若そうな男性である.なんでもパリに10年以上住んでいるらしい.あらためて「すごい恰好ですね」と驚かれ(呆れられ)た.
 案内されるままに車に乗り込む.事前の打ち合わせで行きたい場所はリストアップしてある.まずは凱旋門,シャンゼリゼ大通り,コンコルド広場,そしてエッフェル塔がよく見えるポイントとして北のシャイヨー宮と南の旧陸軍士官学校前(昨夜も行った所),モンマルトルのサクレクール寺院にシテ島のノートルダム寺院である.その他アンヴァリッドやモンパルナスタワーも惹かれたが,チャーター時間が3時間だったので諦めた.これらのポイントをどう回るかはすべてドライバー任せである.さあ出発だ.
 


モンマルトルと凱旋門

 ホテル前を出発したハイヤーはまず北の方へ向かう.目的地はモンマルトルである.
 パリ北部18区にある小高い丘であるモンマルトルはゴッホやルノアール,ピカソといった多くの芸術家が拠点としていた地域である.現在でも絵描きの修行をしている人たちを見ることもできる.その一方周辺はパリを代表する歓楽街が広がっており,数多くの飲食店が立ち並んでいる地域でもある(有名なムーランルージュもここにある).ハイヤーはどこをどう通ったかわからないような細い路地を走って
サクレクール寺院についた.本来ここは下界からえっちらおっちら坂や階段を登ってたどり着くのだが,今回は寺院まで直接乗りつけることができた.昼間には大勢の観光客でごった返す寺院だが,まだ朝早いためか人影はまばらである.早速写真撮影を開始した.合間には日本人カップルやロシア系らしい観光客に話しかけられ記念写真に納まったりした.
 撮影後再び車に乗り込み丘を下る.途中ムーランルージュ
に寄って今度は西のシャルル・ド・ゴール広場を目指した.ここはシャンゼリゼ通りの西の端にあたり有名な凱旋門が建つところである.この凱旋門は1805年のアウステルリッツの三帝会戦(フランス帝国皇帝ナポレオン,神聖ローマ皇帝フランツ2世,ロシア皇帝アレクサンドル1世の3人の皇帝が会した戦いといわれる)で勝利したナポレオンの命で建設された記念碑である.ただ彼の生存中に完成にはいたらず,彼自身は死後ここを通って埋葬されている.パリを代表する観光スポットであり,パリに行ったことがある人なら一度は訪れていると思われる.したがってここでの撮影は絶対に外せないのであった.
 とはいえ,この凱旋門のあるシャルル・ド・ゴール広場はまた車の難所としても知られている.ここは実に12本もの道路が交差する巨大ロータリーになっているのだ.フランス人のロータリー好きは有名(信号待ちが嫌いなのか,フランスの交差点はロータリーが多い)だが,確かに4差路,5差路程度なら信号付交差点でどうにかなるものの,さすがに12差路ともなれば信号で捌くのは不可能

モンマルトルのサクレク
ール寺院にて

早朝のモンマルトルの丘からパリ市街をバックに

夜は派手なネオンが目立つムーランルージュも朝はひっそり

有名な凱旋門です.ロー
タリーは車でいっぱい
 
である.必然的にロータリーになるわけだ.しかしこの巨大ロータリー,進入したのは良いが周囲の運転は強引で荒っぽいし(一般にヨーロッパではラテン系諸国の運転は荒っぽい)、自分が退出すべき道路を逃してまごまごしているうちにどんどんロータリーの内側に追いやられ永遠に出られないという悲劇に襲われてしまうのだ.
 今日の運転手は慣れているためそのような事はなかったが,それでも駐車場所を確保するのは大変である(パリの警察は駐車違反にも厳しい).ロータリーを巧みに泳ぎながらスペースを見つけ,なんとか駐車に成功した.さっそく凱旋門に駆け寄って写真を撮り,急いで車に戻った(周囲には大勢の観光客がいたが,急いでいたためほとんど目に入らなかった).
 

図説: こうして気の弱い人は凱旋門のロータリーに嵌っていく
 
 
次々と新手の車がロータリーに進入してくるため,気が弱い人は後続車によってどんどんロータリーの内側に押し込まれていき,永遠に凱旋門の周りを回り続けるのだった…  


シャンゼリゼ通りとエッフェル塔

 ハイヤーはシャンゼリゼ通りを東に向かって走った.シャンゼリゼ通りは西のシャルル・ド・ゴール広場から東のコンコルド広場まで続く全長2キロの大通りである.途中のRond-Point des Champs-Elysees (ロン・ポワン・デ・シャンゼリゼ シャンゼリゼロータリーとでも訳せばよいか?)を境に西側は高級ショップやオフィスが並ぶ繁華街,東側は通りの両脇に公園が広がる緑地帯になっている.できれば凱旋門をバックにさっそうと歩くシーンを撮影したいため,繁華街の途中で降ろしてもらった.さっそく撮影開始,であったが歩道の真ん中を歩くと背景に凱旋門が映らない,とはいえまさか車道を歩くわけにもいかないため歩道のギリギリ車道よりを歩いて撮影した.偶然近くに警官と思しき男性が数人立っていたが,私が余りに堂々と歩いていたため,なんかのロケと勘違いしたのか職務質問されることはなかった(笑).
 さてシャンゼリゼ通りの撮影のあと,いったん大通りを離れて南下する.次の目的地はエッフェル塔である.
 エッフェル塔は1889年のパリ万国博覧会に合わせて建設された鉄塔である.その(当時としては)異様な外観から一部の人々に忌み嫌われ(当時大のエッフェル塔嫌いだった作家のモーパッサンがエッフェル塔を見たくないため毎日エッフェル塔のレストランに通ったというのは有名な話である),博覧会終了後は取り壊されることになっていたが,市民が慣れてきたことと,塔が当時発達しつつあった無線通信のアンテナに役立つことが分かったことから結局存続が決まり現在に至っているものである.今ではパリのランドマークとしてあまりにも有名な観光スポットである.
 このエッフェル塔を見学する代表的なスポットが北のシャイヨー宮と南の士官学校であり,まずはシャイヨー宮を目指した.ここは1937年のパリ万博(パリでは都合7回万博が行われている)の会場として造られたものである.エッフェル塔見学のスポットということで大勢の観光客でごった返していた.そんな中で撮影開始,しかしこの時間ここからのエッフェル塔は逆光になってしまいイマイチきれいに撮れない.ということで今度は南の士官学校に向かった.ここは昨夜も訪れたスポットだったが,先ほどの

シャンゼリゼ通りの全景

こうして歩道端を歩かないと凱旋門が入りません

シャイヨー宮からは逆光
になってしまいます

こちらは士官学校側から
見たエッフェル塔です
 
シャイヨー宮に比べて観光客も少なく,ゆったりと時間をかけて撮影をすることができた.  


コンコルド広場とシテ島

 エッフェル塔の撮影が終了するといよいよこのイベントも後半戦である.次なる目的地はシャンゼリゼ通りの東の終着点コンコルド広場である.ここは18世紀半ばに造られた広場で,当時はルイ15世広場と呼ばれ,国王の騎馬像が置かれていた.しかし1789年のフランス革命によって騎馬像は撤去され,革命広場と呼ばれるようになる.特にロベスピエールに代表されるジャコバン派が政権を握った時期(1793〜1794年頃)にはこの広場に断頭台が置かれ,国王ルイ16世や王妃マリー・アントワネットら大勢の人々が処刑された.ジャコバン派が失脚した後に現在のコンコルド広場と名を変え今に至っている.広場の西側はもちろんシャンゼリゼ通りであるが,北にはパリ随一の高級ホテルクリヨンと旧海軍省の華麗な建物が並んでいる.東にはチュイルリー公園とその奥にはルーブル美術館が続き,中央にはエジプトから持ってきたオベリスクが聳え立っている.ここでも写真や動画を撮影しながら走り回った.
 コンコルド広場が終わるといよいよ最後のシテ島である.目的はもちろんノートルダム大聖堂だ.ここでは正面だけでなく,土産物屋やセーヌ川沿いにも繰り出して写真を撮った.途中地元の若い人たちにせがまれて記念写真に納まったりもした.
 こうして撮影は無事終了,ちょうどお昼時である.ハイヤーの運転手ご推薦のシテ島内レストランでランチを摂り,こうして今回の旅行のメインイベント”新選組 IN パリ”は無事に終了したのである.

ホテルクリヨン(左)と海軍省(右)の間にマドレーヌ教会が見えます

コンコルド広場のオベリスク

セーヌ川のほとりで黄昏る
 
 ちなみに新選組 IN パリの完成版はこちらです(新選組 IN パリ).  

カルチェラタンでお土産を物色

地元の中学生(高校生?)

今回泊まったホテル前
 


キャバレー ”ムーラン・ルージュ”

 昼食の後ホテルに戻った.午後は特に予定を入れていなかったため,近くのカフェでビールを飲んだりしてのんびりと過ごした.
 さてこの日の夜は今回のフランス旅行最後の夜となる.というわけで,日中の新選組 IN パリでも行ってきたモンマルトルの有名なキャバレー”ムーラン・ルージュ”に繰り出すことにした.日本ではキャバレーというと風営法が絡む大人の男性向けの店のイメージだが,本来のキャバレーはダンスやショーを見せながら食事等を提供する娯楽施設であり,男性のみならず女性客も多い.ムーラン・ルージュは1889年創業のパリを代表する老舗のキャバレーで,画家のロートレックをはじめここを愛した有名人は多い.ウチのKも以前から行ってみたかったとのことで,今回訪問と相成った.ただムーランルージュのあるモンマルトル地区は夜間は特に治安の悪いところ(新宿の歌舞伎町や札幌のススキノのようなところ)であり,夜遅くにメトロで帰るなんていう事態は避けたいので,前日のシティラマ社による送迎つきプラン(ディナー付)を利用することにした.
 送迎バスから降りて派手な赤い風車のネオンの下店内に入る.受付でクーポンを提出すると係員の案内で席に通された.ディナー付とはいえ,ここは本来レストランではないのでテーブルの一人分あたりのスペースは広くない.料理はオードブルとメイン,そしてデザートというシンプルなスタイルだった.食事中,ステージでは女性歌手が歌っていたのだが,なんと!テレサ・テンの「時の流れに身をまかせ」が日本語の歌詞で披露されていた.今では日本の大衆文化も世界各地で広く知られているとはいえ,ここムーラン・ルージュで日本語の歌謡曲が聴けるとまではさすがに思っていなかったので,懐かしく,かつ嬉しくなってしまった.
 食事が終わりいよいよショーが始まる.ムーラン・ルージュといえば,昔から知られるフレンチ・カンカンや,羽飾りをまとったダンサーたちによるダンスを連想する方も多いだろう.まさにそのような,華やかなレビューが目の前






 
で繰り広げられていた.それだけでなく,あるときは舞台上に巨大な水槽が現れ,その中でダンサーが水棲の蛇と戯れていたり,大型犬ぐらいのサイズしかない馬(ミニチュアホースか?)が登場したりするなどの動物が登場するショーあり,天井からワイヤーで吊るされて「空中演技」を繰り広げるショーあり,そして幕間には小コントもあるなど,まさに上質のエンターテインメントという言葉がふさわしいショーであった.まさに華やかな大人の時間を楽しめたのはいうまでもない.そして終了の時間がやってきた.我々はキャバレーを後にして迎えのバスでホテルに戻ったのだった(入り口では今夜2回目のショーを見る客が大勢待っていた).
 さあ,明日はいよいよパリ滞在最終日である.
 



 

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