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フランス旅行記(3)


2008年3月31日(月)


モーツァルトの史跡

 フランス時間の夜早めに寝たのだが,体内時計はまだ日本時間のままらしく夜中の2時に目が覚めてしまった.こんな時間に起きてもしょうがないため頑張ってまた朝まで寝た.7時に起きて朝食を済ませてさあいよいよ活動開始である.
 本日の予定は午前中はパリに残るモーツァルトの史跡めぐり(Kの希望),午後からは幕末関係の史跡めぐり(もちろん私の希望)である.
 古典派の重要な作曲家W. A. モーツァルトはその生涯で2度パリの地を踏んでいる.一度目は1763年彼が7歳の時,父レオポルトが息子の才能をヨーロッパ中の著名人に知らしめようと企画した一家揃っての大演奏旅行の一環として,二度目は1778年22歳の時にザルツブルグの宮廷楽団の職を辞し,就職活動のための旅をしていた時である.まずは一度目の旅行(1763年)でモーツァルト一家が滞在した「オテル・ド・ボーヴェ」を訪ねてみることにした.
 オテル・ド・ボーヴェは,「マレ地区」と呼ばれる16〜18世紀にかけて建造された貴族の館が多く遺されている一角にあり,当時ここに住んでいたフランス駐在バイエルン大使の夫人がザルツブルクの名家の出身だったという関係で,モーツァルト一家の滞在先になった館である(なお,この大使夫人は,当時7歳のモーツァルトを大変可愛がってくれ,彼もこの夫人に懐いていたようであるが,まもなく急病で亡くなってしまったらしい).

モーツァルトが最初にパリに滞在した際に寄宿していた”オテル・ド・ボーヴェ”です

中庭に入るとこんな感じです

表にはモーツァルトが滞在した旨が記されています
 
当時「神童」ともてはやされ,まさに時代の寵児であったモーツァルトが滞在したこの館は,「フランソワ・ミロン通り」の68番地にある.メトロ1号線で「St.Paul(サン・ポール)」駅まで行き,ここを出てしばらくこの通りを歩いていると,ほどなくこの館が見つかった.フランスの邸宅としてはよくある感じの小奇麗な建物である.建物の中には入れないようであるが,入り口付近から中庭には入れるようである.とりあえず入り口にある受付らしき窓口の人に話しかけてみるものの,相手はフランス語でしゃべってくるので,何を言っているのかよく分からなかった(別に入場料を取られるとか,そのような説明はどこにもなかった).しかし入り口から少し中に入ったところの壁に,モーツァルトが滞在した旨の記述がある記念プレートが掲げられていたので,とりあえず写真だけ撮って逃げてきたのであった.

〜史跡に掲示されていた文章〜

  The Hotel de Beauvais was built between 1656 and 1660 for Pierre de Beauvais, advocate, counsellor to the king, and Catherine Bellier, first loby-in-waiting to Anne of Austria. It was designed by Antoine Le Pautre, architect of the king's buildings.
  On 26 August 1660, Mazarin, the queen and the court watched the state entry into Paris of Louis ]W and Maria Theresa of Apain from the balcony of the mansion. (以下略)


 
 次の訪問先は,1778年春に,就職活動のためパリに出てきた際に滞在した住居2ヶ所である.モーツァルトは最初,ブール・ラベという通り(メトロ4号線の「Etienne Marcel(エティエンヌ・マルテル)」駅の近く)のさる商人の家に間借りしていたのであるが,ここの部屋はかなり日当たりが悪かった上に,食事も高い割りに質が悪かったらしく,同行していた母マリア・アンナには特に厳しい環境だったようである.そのためすぐに,クロワッサンという通り(最寄り駅はメトロ3号線の「Sentier(サンティエール)」)にある,もう少し条件の良い部屋に移ることにしたのであった.
 しかし神童ともてはやされた子供時代とは全く異なり,パリの聴衆は22歳のモーツァルトにはかなり冷たく,就職活動も難航を極めたのであった(もっとも,就職活動の不調に関しては,モーツァルト自身にも少なからず問題点はあったと言える.実際,当時彼がお世話になったさる男爵は,「彼は世間をよくわかっていないし,積極性に欠ける上に騙されやすい」と評していた).
 さらに追い討ちをかけるように,7月には母親とも死別してしまうという悲劇にも見舞われ,このパリ旅行はモーツァルトにとって苦い思い出の残るものとなってしまったのであった.
 先に我々はブール・ラベの住居を訪ねてみることにした.この通りはパリの路地としては短い部類なので,歩いて探してみることにしたのであるが,やはり滞在期間が短い場所だったせいか,それらしいプレートが掲げられているわけでもなく,結局どれがモーツァルトの住居だったのかよく分からないまま終わったのであった.なお,確かに通り全体は道幅も狭く,日当たりもあまり良くないように感じられた(道路の両脇には,縦列駐車の車がずらっと並んでいて,ある意味壮観であった).
 一方,後で移り住んだ方の住居は,「Sentier」駅を出て,クロワッサン通りを歩いていると,アッサリ見つかった.入り口にでかでかと「
MAISON MOZART」と

ブール・ラベ通りのプレート

とても短い通りです.モーツァルトが滞在したという標は見つかりませんでした

クロワッサン通りにある,モーツァルト滞在のプレートです

ここが22歳のモーツァルトが母と死別した家です
 
書かれているので,よく目立つのである.確かにブール・ラベと比べると,明るい感じのする住居である.残念ながら内部は公開されていないようであるが,入り口付近には,確かにモーツァルトが母親と暮らしていた旨の記述があるプレートが掲げられていた.なお,この家で1778年7月3日,モーツァルトは母マリア・アンナと死別したのである.  
 最後にモーツァルトの史跡めぐりの締めとして,我々は母マリア・アンナの葬儀が行われた,サン・トゥスタッシュ教会を訪ねることにした.ここは16世紀に建造されたパリで最も優美といわれる教会で,骨組みがゴシック様式,内装がルネサンス様式という変わったつくりになっている.またフランス史における各界著名人ともゆかりの深い教会としても知られ,モリエールやリシュリュー,ポンパドゥール侯爵夫人らがここで洗礼を受けている.音楽史の世界では,フランス近代音楽の祖ともいわれるベルリオーズ(1803〜1869)がここのオルガンを弾いていたそうである.

こちらがモーツァルトの母の葬儀が行われたサン・トゥスタッシュ教会です
 
 我々はメトロ4号線の「Les Halles(レ・アール)」駅で下車し,この教会まで歩いていった.我々が普通教会というと,高い尖塔をイメージしたくなるが,ここは教会とはいえ,むしろ宮殿のような外観である.確かに壮大で,内部もかなり広い.しかしモーツァルトの母親の葬儀の時は,ほとんど数人の参列者しかいなかったらしく,かなり寂しいものだったようだ.今回写真は撮らなかったが,内部にはモーツァルトの母親の葬儀が行われたことを記念するプレートが飾られていた.なお,母親の遺体の埋葬場所はどうも諸説があるらしく,残念ながら墓は残っていない(どうやら埋葬後,パリ郊外のカタコンブに収容されたというウワサあり).いずれにしても,子供時代の栄光とは全く異なり,逆風の最中で最愛の母と死別したモーツァルトの心境に思いを馳せながら,我々は教会を後にしたのであった.  


高松凌雲が学んだ病院

 さてモーツァルトの史跡めぐりを終えた我々は,そのまま歩いてシテ島に入った.シテ島はセーヌ川にある中州で,パリ発祥の地とも言われる市内で最も古い地区である.古くは紀元前3世紀頃からパリシー族と呼ばれるガリア人の集落が存在していたらしい(紀元前1世紀のカエサルのガリア戦記にも記載がある).このためシテ島には今でも中世の建築物が存在する.特に有名なのがノートルダム大聖堂であり,建造が始まったのは12世紀後半(日本では平安時代末期)のことである.そのほかにも美しいステンドグラスで知られるサント・シャペルやフランス革命時にマリー・アントワネットが収容されていた監獄コンシェルジュリーも知られている.
 しかし私がぜひとも訪ねてみたかったのは,ノートルダム大聖堂の斜向いにある建物”Hotel Dieu”(「神の家」の意)である.Hotelとついているがホテルではなく,ここは市立病院なのである.実はこの病院は幕末の慶応三年(1867年)に開催されたパリ万国博覧会に当時の徳川幕府の代表団の随員として参加していた,医師
高松凌雲が学んだ病院なのである.昭和55年の大河ドラマ「獅子の時代」にも登場しており,劇中ここを凌雲と会津藩士(菅原文太さん扮する平沼銑次)が散策し,正面に掲げられている”Liberte, Egarite, Fraternite(自由,平等,友愛)”というフランス革命の理念となった有名なフレーズを二人で高らかに語るシーンが強く印象に残っていたのである.当時少年だった自分はいつかこの地を訪ねたいと思っていたのであるが,成人してから何度か

シテ島に架かるパリ最古の橋,ポンヌフです(新橋の意).

ノートルダム大聖堂

Hotel Dieuにて
 
パリを訪問したくせにすっかり忘れていたのである.今回ようやく訪問と相成った(まあ自分が医者になってこの地を訪れるとは,当時は夢想だにしなかったが).
 正面から入って行くと受付があり職員や患者らしき人たちが多数出入りしていた.我々は別に診察を希望しているわけではないため,人々の脇をすり抜けてそのまま中庭に出た.そこには獅子の時代にも登場した風景が広がっていた.幾何学模様のいかにもフランスという感じの庭である(ベルサイユ宮殿にもあるアレです).ふと見ると白衣を着たいかにも職員(医師なのか看護師なのか,はたまた薬剤師なのかは不明)という感じの人数名が談笑しながらタバコを吸っていた.さすが喫煙に寛容なヨーロッパという感じがした(アメリカはもちろん,日本でも最近この手の光景は見られなくなってきている).
 その後構内を散策して病院を後にした我々であった.
 

中庭です

中庭その2

このようなモニュメントも
 


アンヴァリッドの長州藩の大砲

 Hotel Dieuを後にした我々は近くのカフェで軽い昼食を摂り,メトロを乗り継いでセーヌ川の左岸に渡った.目的地は7区にあるアンヴァリッドである.ここは元々戦争で負傷した兵士を収容する施設(廃兵院)であり,現在もその役割には変わりはない.何年か前に第一次世界大戦での最後の負傷兵が亡くなった際には国葬が営まれたそうである.ちなみにフランスでは傷痍軍人に対する国民の敬意は大きく,電車など公共交通機関での席を譲るべき順位の第1位は傷痍軍人である.
 そんなアンヴァリッドだが,現在はナポレオンの棺が納められている場所としても知られている.だが今回ここを訪問した目的はナポレオンとは直接関係ない.実はこのアンヴァリッドの一角には青銅製の旧式の大砲がたくさん並んでいるのだが,その中に幕末期の
長州藩が使っていた大砲があるのである.長州の大砲が何故パリに! 実は元治元年に起こった馬関戦争でフランス海軍の陸戦隊が下関にあった長州藩の砲台を占領し,戦利品として持ち去ったものがここに置かれているのである(そのうち1門は貸し出しという形で山口県の長府に帰っている).
 北側の門から入ってすぐ右手にそれはあった.ずらっと並んだ大砲の中で右端に小型の大砲が2門並んでおり,その右から2番目の砲が長州の大砲なのであった(一番右はアロー号戦争で捕獲された清国の大砲らしい).見ると長州毛利家の家紋である一文字に三つ星がはっきりと描かれていた.その他に何やら漢字も書かれていたのだが,長い年月の風化のためか判読は困難であった.

アンヴァリッドの南側に
あるドーム教会

教会内の棺にナポレオン・ボナパルトが眠っています

北側からアンヴァリッドに向かうとこんな感じです
 
 馬関戦争から140年余りも異国に置かれた長州藩の大砲,もしかして高杉晋作や久坂玄瑞も触ったかもしれない砲身に触れると,新撰組愛好家の自分でさえ,身震いを禁じえないのだった.  

北側から門をくぐってすぐ右手に目指す大砲があります

砲身にはくっきりと毛利家の家紋一文字に三つ星が

ここは中庭になります.軍事博物館になっています
 


プチ・パレの桜

 この日は朝から曇り空で,アンヴァリッド訪問時には小雨もぱらついていたのだが,ちょうど軍事博物館を見学して外に出る頃にはすっかり晴れ上がっていた.気持ちがいいのでそのまま歩いて戻ることにした.
 アンヴァリッドから北上すると,セーヌ川に架かるアレクサンドル3世橋にさしかかる.ここは19世紀末にロシア皇帝アレクサンドル3世の代にフランスとの同盟(露仏同盟)が締結されたことにちなんで,後の皇帝ニコライ2世によって建設されパリ市に寄贈された橋である.

アレクサンドル3世橋です
 
セーヌ川に架かる数多くの橋の中でも装飾の豪華さで知られている.
 そんなアレクサンドル3世橋をわたってセーヌの右岸に入ると間もなく道路の左右に華やかな建物が見えてくる.向かって左手がグラン・パレ,右がプチ・パレで1900年のパリ万博の会場として建てられたものである.現在は共に美術館として整備されている.雨上がりのプチ・パレの前を通りかかるとなにやらピンク色の懐かしい花が…,そう桜である.考えてみれば,まだ雪が降る岩手県北部から転勤のドサクサでパリまでやってきたため,いまだ今年の桜にはお目にかかっていない.まさかこんなところで桜見物をするとは…と感慨にふけった私だった.
 

なんと,プチパレに桜が咲いていました


W. チャーチルの像.プチパレとグランパレの間はW. チャーチル通りです

ここが慶応三年のパリ万博の際,幕府一行が宿泊したグランドホテルです
 


星付きのレストラン

 結局そのまま歩いてホテルに戻るとすでに夕方であった.今回せっかくパリまでやってきたのだから,一度くらいは立派なレストランでディナーと洒落込もうと計画していた.パリといえば食の都とも称されるところ,それこそ星の数ほどレストランがあるのだが,今回はオペラ座とルーブル美術館のほぼ中間,ヴァンドーム広場に面して立つホテル・リッツ・パリ内のレストラン「エスパドン」をリザーブしておいた.ちなみにリッツ・パリは故イギリス王太子妃ダイアナさんが最後に宿泊していたホテルである.
 シャワーを浴びて着替えをして,さあ出発.こういうレストランに行く際はメトロや徒歩なんてのは野暮で,タクシーで乗り付けるのが一般的である.とはいえタクシーを呼び出すとお金がかかるので,経費節減のため通りで流しのタクシーを拾うという貧乏くさいことをやった.
 ホテルに到着すると係員の案内でレストランへ.エスパドンはリッツ・エコフィエ料理学校の創始者,オーギュスト・エコフィエが初代料理長を務め,有名なミシュランガイドでも常に星を維持しているレストランである.
 今回はコース料理であったが,その内容は前菜のムースに始まり,ブルターニュ産の蟹,魚介類のスープ,メインとして羊肉のロースト等だった.さすがに高級フレンチのコースだけあって,盛り付けも味も繊細である.食前酒のシャンパン,赤ワインとともに我々はこれらの料理を堪能したのであった(日本人の給仕もいて,ワインを選ぶ際にも言葉の問題もなかった).締めにはチーズも供されるが,普段雪印のベビーチーズばかり食べている私にとっては,全く味わいの異なる代物であった(笑).
 こうして優雅なひと時を堪能した我々は再びタクシーでレストランを後にしたのだった.
 

故ダイアナ妃が最期に宿
泊していたリッツ・パリです

リッツ内にあるレストラン,
エスパドンです

Kは和装で臨みましたが,
フランス人にウケていました
 



 

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