フランス時間の夜早めに寝たのだが,体内時計はまだ日本時間のままらしく夜中の2時に目が覚めてしまった.こんな時間に起きてもしょうがないため頑張ってまた朝まで寝た.7時に起きて朝食を済ませてさあいよいよ活動開始である.
本日の予定は午前中はパリに残るモーツァルトの史跡めぐり(Kの希望),午後からは幕末関係の史跡めぐり(もちろん私の希望)である.
古典派の重要な作曲家W. A. モーツァルトはその生涯で2度パリの地を踏んでいる.一度目は1763年彼が7歳の時,父レオポルトが息子の才能をヨーロッパ中の著名人に知らしめようと企画した一家揃っての大演奏旅行の一環として,二度目は1778年22歳の時にザルツブルグの宮廷楽団の職を辞し,就職活動のための旅をしていた時である.まずは一度目の旅行(1763年)でモーツァルト一家が滞在した「オテル・ド・ボーヴェ」を訪ねてみることにした.
オテル・ド・ボーヴェは,「マレ地区」と呼ばれる16〜18世紀にかけて建造された貴族の館が多く遺されている一角にあり,当時ここに住んでいたフランス駐在バイエルン大使の夫人がザルツブルクの名家の出身だったという関係で,モーツァルト一家の滞在先になった館である(なお,この大使夫人は,当時7歳のモーツァルトを大変可愛がってくれ,彼もこの夫人に懐いていたようであるが,まもなく急病で亡くなってしまったらしい). |
モーツァルトが最初にパリに滞在した際に寄宿していた”オテル・ド・ボーヴェ”です |
中庭に入るとこんな感じです |
表にはモーツァルトが滞在した旨が記されています |
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当時「神童」ともてはやされ,まさに時代の寵児であったモーツァルトが滞在したこの館は,「フランソワ・ミロン通り」の68番地にある.メトロ1号線で「St.Paul(サン・ポール)」駅まで行き,ここを出てしばらくこの通りを歩いていると,ほどなくこの館が見つかった.フランスの邸宅としてはよくある感じの小奇麗な建物である.建物の中には入れないようであるが,入り口付近から中庭には入れるようである.とりあえず入り口にある受付らしき窓口の人に話しかけてみるものの,相手はフランス語でしゃべってくるので,何を言っているのかよく分からなかった(別に入場料を取られるとか,そのような説明はどこにもなかった).しかし入り口から少し中に入ったところの壁に,モーツァルトが滞在した旨の記述がある記念プレートが掲げられていたので,とりあえず写真だけ撮って逃げてきたのであった.
〜史跡に掲示されていた文章〜
The Hotel de Beauvais was built between 1656 and 1660 for Pierre de Beauvais,
advocate, counsellor to the king, and Catherine Bellier, first loby-in-waiting
to Anne of Austria. It was designed by Antoine Le Pautre, architect of
the king's buildings.
On 26 August 1660, Mazarin, the queen and the court watched the state
entry into Paris of Louis ]W and Maria Theresa of Apain from the balcony
of the mansion. (以下略)
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次の訪問先は,1778年春に,就職活動のためパリに出てきた際に滞在した住居2ヶ所である.モーツァルトは最初,ブール・ラベという通り(メトロ4号線の「Etienne
Marcel(エティエンヌ・マルテル)」駅の近く)のさる商人の家に間借りしていたのであるが,ここの部屋はかなり日当たりが悪かった上に,食事も高い割りに質が悪かったらしく,同行していた母マリア・アンナには特に厳しい環境だったようである.そのためすぐに,クロワッサンという通り(最寄り駅はメトロ3号線の「Sentier(サンティエール)」)にある,もう少し条件の良い部屋に移ることにしたのであった.
しかし神童ともてはやされた子供時代とは全く異なり,パリの聴衆は22歳のモーツァルトにはかなり冷たく,就職活動も難航を極めたのであった(もっとも,就職活動の不調に関しては,モーツァルト自身にも少なからず問題点はあったと言える.実際,当時彼がお世話になったさる男爵は,「彼は世間をよくわかっていないし,積極性に欠ける上に騙されやすい」と評していた).
さらに追い討ちをかけるように,7月には母親とも死別してしまうという悲劇にも見舞われ,このパリ旅行はモーツァルトにとって苦い思い出の残るものとなってしまったのであった.
先に我々はブール・ラベの住居を訪ねてみることにした.この通りはパリの路地としては短い部類なので,歩いて探してみることにしたのであるが,やはり滞在期間が短い場所だったせいか,それらしいプレートが掲げられているわけでもなく,結局どれがモーツァルトの住居だったのかよく分からないまま終わったのであった.なお,確かに通り全体は道幅も狭く,日当たりもあまり良くないように感じられた(道路の両脇には,縦列駐車の車がずらっと並んでいて,ある意味壮観であった).
一方,後で移り住んだ方の住居は,「Sentier」駅を出て,クロワッサン通りを歩いていると,アッサリ見つかった.入り口にでかでかと「MAISON MOZART」と |
ブール・ラベ通りのプレート |
とても短い通りです.モーツァルトが滞在したという標は見つかりませんでした |
クロワッサン通りにある,モーツァルト滞在のプレートです |
ここが22歳のモーツァルトが母と死別した家です |
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書かれているので,よく目立つのである.確かにブール・ラベと比べると,明るい感じのする住居である.残念ながら内部は公開されていないようであるが,入り口付近には,確かにモーツァルトが母親と暮らしていた旨の記述があるプレートが掲げられていた.なお,この家で1778年7月3日,モーツァルトは母マリア・アンナと死別したのである. |
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最後にモーツァルトの史跡めぐりの締めとして,我々は母マリア・アンナの葬儀が行われた,サン・トゥスタッシュ教会を訪ねることにした.ここは16世紀に建造されたパリで最も優美といわれる教会で,骨組みがゴシック様式,内装がルネサンス様式という変わったつくりになっている.またフランス史における各界著名人ともゆかりの深い教会としても知られ,モリエールやリシュリュー,ポンパドゥール侯爵夫人らがここで洗礼を受けている.音楽史の世界では,フランス近代音楽の祖ともいわれるベルリオーズ(1803〜1869)がここのオルガンを弾いていたそうである. |
こちらがモーツァルトの母の葬儀が行われたサン・トゥスタッシュ教会です |
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我々はメトロ4号線の「Les Halles(レ・アール)」駅で下車し,この教会まで歩いていった.我々が普通教会というと,高い尖塔をイメージしたくなるが,ここは教会とはいえ,むしろ宮殿のような外観である.確かに壮大で,内部もかなり広い.しかしモーツァルトの母親の葬儀の時は,ほとんど数人の参列者しかいなかったらしく,かなり寂しいものだったようだ.今回写真は撮らなかったが,内部にはモーツァルトの母親の葬儀が行われたことを記念するプレートが飾られていた.なお,母親の遺体の埋葬場所はどうも諸説があるらしく,残念ながら墓は残っていない(どうやら埋葬後,パリ郊外のカタコンブに収容されたというウワサあり).いずれにしても,子供時代の栄光とは全く異なり,逆風の最中で最愛の母と死別したモーツァルトの心境に思いを馳せながら,我々は教会を後にしたのであった. |
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