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 下北半島に斗南藩の足跡を訪ねる(2)


6.斗南ヶ丘

 下北半島は斗南藩の本拠とも言うべき場所である.藩庁は当初五戸に置かれたが,後に下北半島の田名部に移されている.会津藩士の多くもこの田名部を中心とした下北半島に移住していた.現在下北半島の中心都市となっているむつ市は,斗南藩の中心だった田名部と旧海軍の拠点だった大湊が合併してできた都市である.今では人口5万人を数え,少なくとも当時私が住んでいる町よりはよっぽど賑やかである.

斗南藩の視点から見た下北半島の観光地図です(拡大可能)
 
 斗南藩はわずか1年足らずで消滅した藩であり,下北半島に遺されている史跡も決して多いわけではない.そんな中,むつ市の郊外(むつ市中心部から尻屋崎に向かう途中)にある斗南ヶ丘は,斗南の名が冠された貴重な場所である.ここは領内開拓の拠点として市街地が整備されたところである.案内文によると,当時一戸建て30棟,二戸建80棟の家屋が立ち並び,一番町から六番町までの大通りによって屋敷割りがされ,また18箇所の井戸が掘られたという.しかし厳しい風雪や野火によって失われた家屋も多く,また廃藩置県によって斗南藩が消滅したことによる藩士たちの離散などから,結局ここに永続的な市街地が形成されることはなかった.今ではわずかに残った土塀跡から当時の痕跡が窺えるのみである.
 また,ここ斗南ヶ丘には秩父宮雍仁親王と勢津子妃が,昭和11年10月に当地を訪れた際の記念碑も建てられている.勢津子妃は元会津藩主松平容保公の四男,松平恒雄氏の長女である(すなわち斗南藩主松平容大の姪).明治維新以来朝敵の汚名を着せられていた会津の人々にとって,この婚儀は汚名を晴らすものと感じられたのだった(尻屋崎にはご夫妻の訪問に対する感謝の意味で「感恩碑」が建てられている 後述).
 

「斗南藩史跡地」と書かれた立派な石碑が立っています


史跡の分布を示す地図ですが,感恩碑の位置が不正確でした

斗南が丘の由来が記してあり,当時の苦労が偲ばれます

 

説明文全文

「斗南ヶ丘市街地跡」(上の写真一番右)
 
斗南藩が市街地を設置し、領内開拓の拠点となることを夢見たこの地は、藩名をとって「斗南ヶ丘」と名づけされました。
 明治三年一戸建約三十棟、二戸建約八十棟を建築し、東西にはそれぞれ大門を建築して門内の乗打ちを禁止し、十八ヶ所の堀井戸をつくりました。そして市街地は、一番町から六番町までの大通りによって屋敷割りされ、一屋敷を百坪単位として土塀をめぐらせて区画したといいます。
 しかし過酷な風雪により倒壊したり野火にあうなどした家屋が続出し、さらに藩士の転出はこの地にかけた斗南藩の夢をはかなく消し去り、藩士たちの努力も水泡に帰してしまいました。
 現在はわずかに残った土塀跡に当時をしのぶことができます。


今では,当時市街地だった面影はほとんど残っていません

旧斗南藩屋敷土塀跡
と書かれてあります
 

奥には秩父宮親王と勢津子妃のご成婚記念の碑が建っています

勢津子妃と秩父宮の成婚は,斗南の人々の大きな喜びだったようです

斗南が丘と斗南藩士の墓の場所の地図です.尻屋崎に向かう途中にあります
 

説明文全文


「秩父宮両殿下御成記念碑」(上の写真真ん中)
 
この碑は昭和十一年十月に高弟秩父宮雍仁親王殿下、同妃勢津子殿下(旧斗南藩主松平容大の令姪)が下北郡下を巡遊され、斗南ヶ丘に立ち寄られたことを記念して昭和十八年七月に会津相携会(現在の斗南会津会)が中心となり建立されました。
 昭和三年九月の秩父宮殿下と松平節子姫(御婚礼後勢津子と改名)との御婚儀は、戊辰戦争以降、朝敵という汚名に押しつぶされながら生き続けてきた会津人にとって、再び天皇家と強い絆を結ぶことができるようになった大きな出来事でした。
 やはり会津は逆賊ではなかったということが天下万民に知らしめられ、さらに最果てのこの地にまで両殿下に足を運んでいただいたという感激が、斗南藩が農業授産を夢見て建設した斗南の地に立つこの石碑に込められています。
 
     


7.斗南藩士の墓

 斗南ヶ丘の史跡からさらに,尻屋崎方面に数百メートル行った道路の反対側の高台に,旧斗南藩士のお墓がある.道路わきにちょっとした空き地があるのでここに車を停める.写真のような階段を登っていくと,旧斗南藩士の墓と書かれた棒とそのわきに,由来が記された比較的新しい説明板が立っていた.ここにはお墓にならんで,「斗南藩追悼之碑」と書かれた石碑もあった.以下にその全文を紹介する.

階段を登って行きます
 
「旧斗南藩墳墓の地」
明治元年九月、朝敵の汚名を着せられたまま廃藩となった会津藩は、翌明治二年九月、太政官より家名再興の沙汰をいただき、同年十一月松平容大公(数え年二歳)をもって陸奥国(現在の青森県の三戸・上北・下北の三郡と岩手県の一部)に禄高三万石の立藩が許されました。しかし豊かな会津盆地で生まれ、そこで育った人々には、斗南の地はあまりにも過酷で

  
みちのくの斗南いかにと人問はば
  神代のままの国と答へよ
    斗南藩権大参事 山川 浩

と言わしめたほどでした。天慈の覆育を祈り、開拓に夢を託した藩士達ではありましたが、志半ばにして命を失った者やこの地を去る者が続出したのでした。
ここではわずかに残っております旧会津藩士の墓碑を斗南ヶ丘唯一生き残りの島影家や会津ゆかりの人々が、あたたかく見守っています。
 

上がっていくと旧斗南藩士の墓と書かれた碑が出迎えます

「旧斗南藩墳墓の地」と書かれた比較的新しい案内板です

墓地の一角には「斗南藩追悼之碑」と書かれた碑が
 


8.感恩碑

 斗南ヶ丘にあった観光地図によると,斗南藩士の墓からさらに尻屋崎方面に行った先に,「感恩碑」という史跡があるらしいことがわかった.この感恩碑に関する情報は極めて少なく,私も2006年夏に下北に行った際,地図の場所を何回も走って探し回ったのだが,結局見つけられなかった極めて難易度の高い史跡なのである.しかしその後,ネット上で感恩碑を訪れた方のHP(下北見聞録)を発見し,2007年3月に再訪した次第である.

バックネットに向かって左側に奥に入っていく砂利道がある
 
 感恩碑は尻屋崎からさらに東に回りこんだところにある.場所としては尻屋小学校の近くであった.集落から山の方に入って行き,近くのグラウンドのバックネット脇から細い砂利道を登っていくと,目指す感恩碑が姿を現した.感恩碑は昭和11年10月21日に秩父宮夫妻がこの地を訪れたことに感謝して建てられたもののようであった.周囲には目印になるようなものは全くなく,予備知識なしでこの史跡を発見することは不可能であると思われた(感恩碑への行き方については下北見聞録の斗南藩史跡巡りから入って,感恩碑のページに詳しく述べられています).   

砂利道を登って行くと,何やら石碑のようなものが見えてきます

ついに発見,これがウルトラA難度の史跡「感恩碑」です


石碑の裏には文が
書いてあります
 
感恩碑裏の碑文
昭和十一年十月二十一日秩父宮同妃両殿下御成ノ光榮ニ感激シテ永久ニ紀念可致之ヲ建設ス
昭和十三年五月二十一日 尻屋部落民一同 正五位勲四等 工藤鐡男 謹書
 


9.円通寺と徳玄寺

 田名部地区の斗南藩史跡として円通寺および徳玄寺ははずせないポイントである.円通寺は恐山の本坊として知られるお寺であるが,斗南藩当時は藩庁が置かれ,藩校の「日新館」もここに開かれた(すぐに学校を開くあたりに,会津藩の教育熱心さが窺える).ただ円通寺は禅宗の寺で戒律が厳しく,肉食や妻帯が禁じられていたことから,藩主松平容大らの生活の場としては,隣接する徳玄寺が使われたようである(徳玄寺は浄土宗のため,戒律は緩やからしい).

今は恐山の本坊として知られる円通寺です
 
 円通寺は恐山の本坊といわれるだけあって,現役の寺であり,正面から見てもその威容に圧倒される.境内に入り,向かって左手にあるコンクリートの近代的な建物の前に招魂之碑が建てられてた.これは戊辰三十三回忌(明治33年)にこの地に建立されたもので,戊辰戦争で亡くなった多くの会津藩士の霊を慰めることが目的である.表面の「招魂之碑」は元藩主容大の書である(徳川家は源氏を名乗っていたため,源容大と記されている).  

斗南藩時代はここに藩庁が置かれました

山門はかなり古いものですが,風格があります

招魂之碑です
 

一方の徳玄寺は,円通寺のほぼ隣にある寺である.こちらの方はかなり傷みが激しく,一見すると廃寺のような趣であった(ただ会津若松市のHP内の記事によると,平成14年にこの寺を訪れた会津若松市長が徳玄寺内で住職と思しき人と写っている写真があり,廃寺ではないようだ).ここにも斗南藩に関する説明板があったが,風雪にさらされて傷みがひどく判読にはかなりの困難を要した.またここには,当地出身の映画監督川島雄三氏の石碑もあった.


ここにも斗南藩史跡
の碑が
 

斗南藩開発の館 徳玄寺
表高23万石を誇り、奥羽第二の雄藩であった会津藩は、全国諸藩の中で最も勤皇の志が厚かったにもかかわらず、明治維新の際に朝敵の汚名を着せられ、全国唯一の移封処分を受けて、ここ斗南の地へ挙藩流罪となったのでした。
ここ徳玄寺は藩主松平容大公の食事や、遊びの際に利用された場所です。
当時の容大公は数え年三歳ではありましたが、移住藩士達を激励する為に、各地を回村するなど、新天地開発に励む人々の大きな心の支えとなったのでした。
またここは重臣の会議場であり様々な施策についての論議が重ねられた所で斗南丘市街建設計画図面などが保存されています。
東北の長崎を目指した大湊の開港や種々の産業(注)開発など、卓越した構想と意欲は廃藩置県後も斗南の地にとどまった人に引き継がれ新生青森のあらゆる方面において会津魂は大きな功績を残したのでした。

 注 業という文字は読めなかったのですが、前後の文脈から「業」以外には考えにくいと判断した
 

徳玄寺の山門です.円通寺に比べてかなり老朽化が進んでいます

寂しい境内です.奥にあるのが映画監督川島雄三氏の石碑です

斗南藩と徳玄寺の関わりについての説明文です.かなり読みにくいです
 


 

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