田名部地区の斗南藩史跡として円通寺および徳玄寺ははずせないポイントである.円通寺は恐山の本坊として知られるお寺であるが,斗南藩当時は藩庁が置かれ,藩校の「日新館」もここに開かれた(すぐに学校を開くあたりに,会津藩の教育熱心さが窺える).ただ円通寺は禅宗の寺で戒律が厳しく,肉食や妻帯が禁じられていたことから,藩主松平容大らの生活の場としては,隣接する徳玄寺が使われたようである(徳玄寺は浄土宗のため,戒律は緩やからしい). |
今は恐山の本坊として知られる円通寺です |
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円通寺は恐山の本坊といわれるだけあって,現役の寺であり,正面から見てもその威容に圧倒される.境内に入り,向かって左手にあるコンクリートの近代的な建物の前に招魂之碑が建てられてた.これは戊辰三十三回忌(明治33年)にこの地に建立されたもので,戊辰戦争で亡くなった多くの会津藩士の霊を慰めることが目的である.表面の「招魂之碑」は元藩主容大の書である(徳川家は源氏を名乗っていたため,源容大と記されている). |
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斗南藩時代はここに藩庁が置かれました |
山門はかなり古いものですが,風格があります |
招魂之碑です |
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一方の徳玄寺は,円通寺のほぼ隣にある寺である.こちらの方はかなり傷みが激しく,一見すると廃寺のような趣であった(ただ会津若松市のHP内の記事によると,平成14年にこの寺を訪れた会津若松市長が徳玄寺内で住職と思しき人と写っている写真があり,廃寺ではないようだ).ここにも斗南藩に関する説明板があったが,風雪にさらされて傷みがひどく判読にはかなりの困難を要した.またここには,当地出身の映画監督川島雄三氏の石碑もあった. |
ここにも斗南藩史跡
の碑が |
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斗南藩開発の館 徳玄寺
表高23万石を誇り、奥羽第二の雄藩であった会津藩は、全国諸藩の中で最も勤皇の志が厚かったにもかかわらず、明治維新の際に朝敵の汚名を着せられ、全国唯一の移封処分を受けて、ここ斗南の地へ挙藩流罪となったのでした。
ここ徳玄寺は藩主松平容大公の食事や、遊びの際に利用された場所です。
当時の容大公は数え年三歳ではありましたが、移住藩士達を激励する為に、各地を回村するなど、新天地開発に励む人々の大きな心の支えとなったのでした。
またここは重臣の会議場であり様々な施策についての論議が重ねられた所で斗南丘市街建設計画図面などが保存されています。
東北の長崎を目指した大湊の開港や種々の産業(注)開発など、卓越した構想と意欲は廃藩置県後も斗南の地にとどまった人に引き継がれ新生青森のあらゆる方面において会津魂は大きな功績を残したのでした。
注 業という文字は読めなかったのですが、前後の文脈から「業」以外には考えにくいと判断した |
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徳玄寺の山門です.円通寺に比べてかなり老朽化が進んでいます |
寂しい境内です.奥にあるのが映画監督川島雄三氏の石碑です |
斗南藩と徳玄寺の関わりについての説明文です.かなり読みにくいです |
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