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 下北半島に斗南藩の足跡を訪ねる(3)


10.斗南藩士上陸の地

 戊辰戦争後会津藩士たちは各地で謹慎処分となっていたが,お家再興が許されると,明治3年春から続々と陸路または海路で斗南入りした.このうち新潟から新政府借り上げのアメリカ蒸気船ヤンシー号でやって来た約1800名の人々が,明治3年6月10日に上陸したのが,現むつ市大湊にある大平浦であった.ここには今,「斗南藩士上陸の地」の碑がひっそりと立っている.この石碑の石は,会津の鶴ヶ城と同じ石が使われ,石碑は会津のほうを向いているらしい.

国道338号線の信号にひっそりと案内板があります
 
 周囲にはなにもないひっそりとした寂しい場所であった.岸壁は護岸工事がなされており,往時を偲ぶことは困難であろうが,陸奥湾の穏やかな海と目の前にそびえる釜臥山の偉容は当時と変わらないはずである.悲願のお家再興がかない,新生斗南藩建設のために海路はるばるやって来た藩士たちは,この景色を見て何を感じたのだろうか.   

上陸の地を示す碑です.
これを史跡と勘違いして
帰る人もいるそうです

左写真の碑から左手に進むと,何やら見えてきます

斗南藩士上陸に関する説明文が書かれています
 

これが斗南藩士上陸の地の石碑です.石は鶴ヶ城と同じ石を使っているそうです

目の前にそびえる釜臥山(会津の人々はこの山を斗南磐梯山と呼んだそうです).

石碑と釜臥山のコントラストが見事です.釜臥山には市内を一望する展望台があります
 


11.柴五郎一家居住跡

 斗南藩出身の著名人として柴五郎の名を挙げない訳にはいかない.彼は会津出身初の陸軍大将になった人物である.大将というのは戦前の軍人の最高ポストである(一般には大将の上に元帥というポストがあると誤解しているむきもあるが,元帥とは「元帥府」に列せられた大将の意味であり,階級はあくまでも大将なのである).この大将がどれだけ偉かったというと,例えば帝国陸軍75年の歴史の中で将官(少将,中将,大将)は約4,500人いたのに,そのうち大将は134人しかいなかったという事実がそれを物語っている.

むつ運動公園脇に入り口があります
 
 柴五郎は会津藩士柴佐多蔵の五男として万延元年(1860年)生まれた.会津戦争後家族と共に斗南に渡ったが,当地での生活は困窮を極めた.廃藩置県後は東京に移って陸軍に入り,藩閥の壁を乗り越えて最後は陸軍大将まで進んだ(特に1900年の義和団の乱時には,在留列国部隊の実質的指揮官として奮闘し,2ヶ月におよぶ北京籠城戦を戦い抜き,各国から賞賛を受けた).
 その柴五郎が斗南藩時代に住んでいた場所が,むつ運動公園の脇にある呑香神社である.今ではささやかな記念碑と説明板があるばかりの寂しい場所であった.

風雪の落の沢

明治維新は、斗南藩(旧会津藩)にとって痛恨維新であった.
明治三年斗南藩では、士族授産を目途として、当地落の沢を相し松ヶ丘に荒川の渓流を引き、三十余戸の住宅を築造した.
柴五郎(後の陸軍大将)が少年期に家族とともに同年六月田名部に到着、寂寥の落の沢で越冬した。
寒気肌をさし、夜を徹して狐の遠吠えを聞き五郎の厳父佐多蔵は「ここは戦場なるぞ、会津の国辱雪ぐまでは戦場なるぞ」と言ったという。
(「会津人柴五郎の遺書」より)
明治四年廃藩置県により、忽然と士族授産は消え失せ士族は四散せざるを得なかった斗南士族の胸中には、「まこと流罪にほかならず、挙藩流罪という史上かつてなき極刑にあらざるか」という憎悪と怨念が残るのみであった。
 

柴五郎住居跡は寂しい場所にあります

斗南藩時代の厳しい生活が偲ばれます

柴五郎一家が身を寄せていた呑香稲荷です
 


12.大間の会津斗南藩資料館

 廃藩置県後,多くの斗南藩士達はこの地を去った.このため下北半島に残って開拓に当たった元会津藩士は決して多くはない.しかし彼らが後の青森県の発展に果たした役割は大きかった.とはいっても斗南藩はわずか1年余りしか存在しなかった藩であり,現在の下北半島を巡っても,斗南藩関係史跡は数えるほどしかない.しかし,下北半島最北端の地大間町に,旧斗南藩の末裔の方が私財を投じて開いている資料館が存在する.2006年夏に劇団エル・プロダクツの舞台「はなさかづき」に触発された私はその後の会津藩士達の辿った道を探るべく,斗南藩について調べていたが,その過程でこの資料館の存在を知ったのである.

資料館は警察署の近く,郵便局の向かいです
 
 大間町の中心部,ちょうど郵便局の向かいにその資料館はあった.そこはリビングインテリア・キムラというお店である.ここの2階が資料館になっているとのことであったが,見ると「本日はお休みします」という紙が.せっかく来たのにとショックを受けたが,「御用の方はインターホンでどうぞ」と書いてあったため,とりあえずインターホンを鳴らしてみた.応答があったため,資料館に伺った旨をお話しすると中に案内していただいた.店の方はお休みだが,資料館の方は遠方から来るお客さんも多いため呼ばれれば開けているとのことであり,感謝しつつ中に入った.
 資料館はお店の2階になっており,一部屋に様々な資料がきれいに並んでいた.容保公の写真各種や,当時の会津城下の地図,新潟から海路斗南にやって来た藩士が乗船した蒸気船ヤンシー号の絵,当時の名簿や書簡(はなさかづき関連では佐川官兵衛の写真や山川大蔵の書簡などもあった),短剣などが展示されていた.なかでもとりわけ貴重なのが,松平容保公が斗南を去るにあたって書いた直筆の掛け軸(向陽処.自分たちは賊軍の汚名を着せられ流されたが,いつかは陽のあたる処に出ることもあろう.その日まで会津藩士の誇りを失うことなく努力しようという意味らしい)である.これらは全てこの家に所蔵されていた品々である.一通り見て回った後,館長の方とお話しをした.それにしても,どうしてこんな貴重な資料がここにあるのか不思議に思ったが,この家のご先祖が斗南藩の史生(しじょう 藩の記録を残す役職)であったため,これらの資料が残っているとのことであった.今でも新しい資料や事実がわかってきているとのことで,はなさかづきにも出てきた梶原平馬が実はその後北海道に渡って根室で死んだというお話も伺った(お墓といわれる写真もあった).最後にお店においてあった星 亮一著「会津藩 斗南へ」を購入して御暇した.
 

資料館はインテリアショップの2階にあります

表には「会津斗南藩資料館」の看板が

斗南とは「北斗以南皆帝州」からきたという
 


13.終わりに

 こうして私の斗南藩を巡る旅は終わった.斗南藩の歴史は歴史の教科書には出てこない歴史である.明治維新後の日本はいわゆる薩長土肥と呼ばれる西南雄藩によって主導された.そのことの是非は問わない.薩長藩閥は決してマイナスばかりではない.たとえば明治時代の軍部がよく政府と協力し,日本の国威発展に大きな役割を果たしたのも,政府・軍首脳がともに若い頃から心の知れた同志だったからという側面があるからである.昭和軍部による軍国主義への流れも,一面には薩長藩閥の影響力を排除した,新興軍エリートによるものともいえる.歴史は決して単純な善悪二元論では語れない.
 元会津藩主松平容保は京都守護職時代,孝明天皇の絶大な信頼を得ていた.天皇はしばしば歌を詠み容保に賜っている.とりわけ

  武士と心あはしていはほをも つらぬきてまし世々のおもひて 

の御製を容保は竹の筒に入れて生涯首に下げて放さなかったという.この御製こそ,会津藩が朝敵ではなかった何よりの証拠である.しかし明治になってからの容保は維新史について語ることはなく,御製を人に見せることはなかった.彼は孝明天皇との深い絆を心の支えにしていたのであろう.
 


 

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