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 下北半島に斗南藩の足跡を訪ねる(1)


1.獅子の時代

 幕末期は日本史上未曾有の激動期であり,数多くの魅力的な人物が活躍した時代でもある.私が幕末という時代に惹かれるきっかけとなったのが,昭和55年に放送されたNHK大河ドラマ「獅子の時代」である(これは私が主体的に,1年間通して見た初めての大河ドラマであった).
 この作品は幕末の1867年(慶応3年)のパリ万国博覧会から1884年(明治17年)の秩父事件までを扱ったドラマである.会津藩士平沼銑次(菅原文太)と薩摩藩士苅谷嘉顕(加藤剛)という二人の架空の人物を主人公として,幕末から明治期の無名の人々の生き様を描いた傑作大河ドラマであった.特に菅原文太演じる会津藩士平沼銑次がとても魅力的で,彼を中心に話が進んでいく(第1回,当時彼は藩主松平容保とともに京都にいたらしいのだが,パリ万国博覧会に出席する幕府代表団の随員として派遣されることが決まり,会津の家族のもとを訪ねて,「ふらんす国の”ぱり”つぅどこにめえりやす」という会津弁のセリフがとても印象的であった).
 パリ万博終了後帰国した銑次は,会津戦争に参加,鶴ヶ城落城後は仙台で榎本武揚の艦隊に合流して箱館まで行った.その後は家族とともに,斗南藩建設のため下北半島に行ったが,この斗南での生活は非常に厳しいものであった(会津戦争を扱ったドラマは数多いが,その後の斗南藩時代を扱った作品はこの「獅子の時代」以外ほとんどないのではないか).そんな中で銑次は家族とともにたくましく生きていく.彼は非常に頑固なのだが,一方で合理的な考えの持ち主でもある(フランス帰りだからか).彼の父や兄弟は,「藩のために死ぬことが武士道だ」みたいなことを言うのだが,彼は「死んだら何にもならねえ.そんなの犬死だ」とたしなめる.斗南での生活も,「ここで生き抜くことが,薩長の奴らを見返すことになるんだ」と言う父に対して,「冬になると食べ物がなくなる」という話を地元の人間から聞き,「そりゃ大変だ」とひとり東京に出稼ぎに行くのだった(そんな彼を父は「情けないやつめ」と罵る).
 後に銑次は大久保利通暗殺犯と顔見知りだったことから逮捕されて,北海道に送られた(勿論,銑次は暗殺に無関係).樺戸収監所で重労働(当時の明治政府は囚人を多数北海道に送り込み,開拓用の労働力として酷使していた)をさせられた銑次は,なんと収監所を脱走する.この後彼は,友人の苅谷嘉顕(薩摩藩士だった苅谷は明治政府の官僚になっていた)の計らいで法的に死んだことにされ,以後完璧な自由人となって各地を歩く(戸籍上死んだことになっているのだから,ある意味で無敵な存在である).自由人となった銑次は様々な人々と触れ合いながら,時代の非情・理不尽さと戦い続けるのだった.
 この獅子の時代の影響は大きく,初めての幕末がこの作品だったこともあって,以後わたしは幕末維新史では会津びいきになったのである(自分が東北人ということもある).
 


2.斗南藩

 さて,会津戦争によって所領を没収された会津松平家は,後(明治2年)に容保の子,容大を藩主として家名存続をを許された.そして新領地として斗南(今の下北半島と青森県南部地方の一部,そして岩手県北部の一部)3万石を与えられ(一説によると,当初猪苗代周辺か斗南かどちらかを選択するように言われ,会津藩自身が,より広い斗南を選んだとされるが,異説もあるらしい),明治3年春から藩士およびその家族約17,000人は,陸路・海路様々なルートから続々と入植して行った.
 しかし,入植した藩士たちの生活は困窮を極めた.斗南藩は3万石という触れ込みであったが,実際には7千石に過ぎなかったからである.東北地方の気候は,「同緯度なら日本海側が温暖で太平洋側が冷涼」という特徴がある.

斗南藩の領地は図のように飛び地がある
 
これは,北太平洋から三陸沖に達する寒流(親潮)と”やませ”と呼ばれる北東からの風(極偏東風)の影響である.このため,秋田や青森県津軽地方が米どころとして知られているのに対して,岩手県北部や青森県南部地方は,比較的最近になるまで米作には不向きで,今でもちょっとした冷夏になるとたちまち作況指数が大きく低下してしまうのである.
 そうした環境下にあっても藩士たちは開拓のための努力を続けた.しかし明治4年夏に政府は廃藩置県を断行し,斗南藩もわずか1年で消滅することになってしまった.「これまでの苦労は何だったのか」藩士たちの間から,怨嗟の声が上がった.このままでは不測の事態が起こりうることを危惧した藩幹部(山川浩.旧名山川大蔵,鶴ヶ城攻防戦の際,会津の伝統芸能彼岸獅子を舞うことで,相手の度肝をぬき,その隙に新政府軍に包囲された城にまんまと入った故事で知られる)の要請で,東京にいた前藩主松平容保が下北入りした.
 容保は明治4年7月20日,当時藩庁が置かれていた田名部の円通寺に入った.落城以来の藩士との再会であった.彼はここに約1ヶ月滞在し,別れの日に藩主容大の名義で次のように布告をした.

 
 この度,余ら東京に召され,永々汝らと艱苦を共にするを得ざるは,情において堪え難き候えども公儀の思召在所,やむを得ざる所に候.
 これまで賎齢をもって重き職を奉じ,遂にお咎めも蒙らざるは,畢竟汝ら艱苦に絶えて奮励せしが故と歓喜このことに候.
 この末ますます御趣意に尊び奉り,各身を労し,心を苦しめ天地罔極の恩沢に報い奉り候儀,余が望む所なり.

                              
松平容大
                                         
  
星 亮一 著 「会津藩斗南へ」より引用
 

 こうして会津藩再興の夢であった斗南藩はわずか1年で消滅し,その後多くの藩士は斗南を去った.その一方,広沢安任はじめこの地に残って開拓を進めた者も数多い.
 


3.下北半島と私

 下北半島は私が育った岩手県からは近いのだが,実は大学に入るまで行ったことがなかった(北海道なら高校時代に何度か行ったことがある).友人のNに「恐山に行こう」と誘われて出かけたのが最初である(恐山肝試しツアー 参照).その後もちょくちょく遊びに行って温泉に入ったりしたものだが,この頃はまだ下北半島と斗南藩が明確には結びついてはいなかった(何せ,獅子の時代の放送が昭和55年,以来すっかり忘れてしまっていたのである).
 そんな中,2006年春にひの新選組まつりに参加し,劇団エル・プロダクツ(エルプロ)の皆さんと行動を共にする機会を得た.その後エルプロの公演を観に行ったのだが,そのときの演目が会津戦争を会津側の視線から見た演劇「はなさかづき」であった.素晴らしい舞台だったのだが,この時その後の会津藩士の辿った道と昔見た「獅子の時代」が結びついて,これは是非とも一度下北半島に行かなくてはとなったのである.
 かくして,下北半島に斗南藩の足跡を訪ねる旅が始まったのである.
 


4.倉沢平治右衛門ゆかりの史跡(青森県五戸町)

 前述のように斗南藩は下北半島のほか,青森と岩手の県境付近にも飛び地の領地を持っていた.今の行政区域に従えば,青森県の三戸町,田子町,五戸町,新郷村そして十和田市の一部,岩手県二戸市の一部となる.この地域への入植は五戸が中心だったようだ(斗南藩発足当初は五戸に藩庁が置かれたらしい).新選組の副長助勤だった斎藤一も他の藩士たちと共に,この五戸に入植している.
 当初斗南藩の藩庁が置かれたのは,旧南部藩の五戸代官所である.建物そのものはすでに失われているが,門は残っており,建物も復元されて歴史未来パークにある. 
 復元された代官所は,藁葺き屋根の決して立派とはいえない建物であった(復元に当たった八戸工業大学の高島教授によると,当時の代官所は大庄屋の屋敷よりも劣る建物だったそうである).

五戸町内にある斗南藩関連の史跡
 

五戸代官所門の案内
 

代官所復元について

復元された代官所

質素な建物です
 
 五戸といえば会津藩家老の内藤介右衛門と倉沢平治右衛門の墓所の高雲寺がある.ここは代官所から街のメイン道路を挟んで反対側にあった.目指す墓所は寺の本堂から道路を隔てたところにある.会津藩家老の内藤介右衛門は梶原平馬の実兄として知られている(平馬は後北海道に渡り,最後は根室で亡くなったらしい).一方の倉沢平治右衛門は教育に力を注いだ人物で,自宅に私塾を開いていたとのことである.

高雲寺の入り口です
 
 
私が訪れた時,内藤介右衛門のお墓には地元の高齢の女性が来ていて,掃除をしているところであった.
 二人のお墓の位置については以下のサイトに詳しく記してあります.
  月虹-MOONBOW PALACE-神殿
(史跡のページから五戸の高雲寺に入ります) 
 

寺の本堂です

倉沢平治右衛門のお墓です

内藤介右衛門のお墓です

 さて,次は倉沢平治右衛門の私塾,すなわち自宅跡を訪ねるのであるが,実はここに関する情報はとても少ない.星亮一氏の著書「会津藩斗南へ」でも町の郊外としか触れていない.私が知る限りこの場所についてもっとも詳細に述べられているのは隼人氏のサイト東北不思議の旅であり,私も参考にさせていただいた.
 国道4号線から立体交差で五戸町内に向かって(上の地図左端からの緑の道路)少し行くと,右に入る狭い道がある.道なりに進み,道が分岐しているところを右に進んでいくと,小高いところがありここに目指す住居跡があった.倉沢平治右衛門は新選組副長助勤斎藤一の妻時尾の義父にあたり,斗南時代彼も(藤田五郎と名を変えていたが)ここに同居していたという.会津のみならず新選組愛好家にとってもはずせないポイントである.今は小さな祠と記念碑が建つだけの寂しい場所であった.

ここから細い砂利道に入っていきます

赤い小屋の手前を右に行くと…

小高い丘に何やら赤い屋根が見えます

ここが倉沢平治右衛門の住居跡です
 


5.白虎隊最初のお墓(青森県三戸町)

 順番が前後するが,五戸町の南,三戸町の観福寺には最古と言われる”白虎隊”の墓がある.白虎隊は会津戦争時に編成された年齢別の隊のひとつであり(16,17歳の少年で編成,他に朱雀隊(18〜35歳),青龍隊(36〜49歳),玄武隊(50歳以上)があった),さらに身分別に士中,寄合,足軽に分かれていた.会津戦争時に飯盛山で自刃したのは,白虎隊士中二番隊である.当時新政府軍によって会津藩は賊軍とされ,死者の埋葬も許されなかったという.ここ三戸町の白虎隊の墓所は,明治4年斗南藩時代に建てられたといわれている.当時はまだ白虎隊最期の様子が完全には伝わっておらず,墓石に書かれた死者は17名(実際には19名)とされ,生還した飯沼貞吉も自刃者に数えられている.

白虎隊のお墓のある観福寺は三戸町のメイン道路,スーパー「ユニバース」の裏にあります
 

観福寺の正門です

白虎隊のお墓には今も花が

碑文には白虎隊のお墓の
由来が刻まれています
 
 


 

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