永倉新八は天保十年江戸詰めの松前藩士長倉勘治の次男として江戸の松前藩上屋敷で生まれた.名は栄治である.次男ではあったが,兄の秀松が新八3歳 のときに亡くなったため,実質長男として育てられたらしい.8歳のときに江戸の岡田道場に入門し,神道無念流を学んだ.18歳の頃に脱藩して,同流の百合道場に移り,ここで終生の友となる市川卯八郎(後の芳賀宜道)と出会った. |
晩年の永倉新八 |
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この時に実家に迷惑がかかることを恐れて,苗字を一字変えて永倉としたといわれている.その後心形刀流の坪内道場に師範代として招かれ,後に新選組で一緒になる島田魁と知り合ったらしい.
脱藩後は武者修行と称して各地を歩いていたらしく,その途中で試衛館に出入りするようになったようだ.永倉の新選組顛末記によると,当時の試衛館は「武骨が過ぎて殺気みなぎるばかり」だったという.その気風が肌に合ったのか,いつしか食客として居つくようになった.文久3年の浪士組の一件を試衛館に持ち込んだのは永倉だと言われている.
上洛し,新選組結成後は,副長助勤,二番隊組長,撃剣師範などの要職を歴任し,常に幹部隊士として組の中枢にあった(永倉は沖田総司,斉藤一と並ぶ新選組を代表する剣客として知られる).特に沖田総司が体調を崩してからは,彼の一番隊の指揮も担当している.元治元年の池田屋事件をはじめ,油小路の戦い,鳥羽伏見の戦いなど新選組の修羅場のほとんどに参加している.特に池田屋では近藤,沖田らとともに最初に乗り込んでいるし,鳥羽伏見では薩摩の洋式銃隊に対して切り込みを敢行し武功を挙げている.
永倉は新選組結成時のメンバーでは試衛館派に属するが,初期の新選組の局長だった芹澤鴨と は同門(神道無念流)だったこともあり,近藤や土方らとは常に一線を画していたようである(文久3年9月の芹澤暗殺についても,彼は全く関知していなかっ
たらしい).池田屋事件後,行動がやや尊大になってきた近藤に対して,原田左之助や島田魁らとともに,会津藩主松平容保宛に建白書を提出している.この時は容保のとりなしで大きな事件にはならなかったが,その後も微妙な影を落としたようである.ただ,永倉と近藤らは決して対立していたわけではない.後に伊東甲子太郎らが入隊し,独自の勢力を形成し始めると,永倉にも伊東から誘いがかかったが, |
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結局彼は新選組に留まっているからである.思うに永倉という人物 は,相手が誰であれ,間違っていると思うことははっきりと言うタイプの人間だったのだろう.彼自身は近藤・土方ら新選組の基本路線(勤皇・佐幕)には賛成
だったと思われる(伊東は勤皇・反幕である).
しかし,時代の流れは新選組にとって逆風となり,鳥羽伏見の戦い,その後の甲陽鎮撫隊の敗戦の後,近藤らと袂を分かつことになった. |
江戸の松前藩上屋敷付近(東京都台東区) |
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