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 明治維新後の永倉新八の足跡(1)


1.新選組と激動の時代

 幕末の激動の京都で,会津藩の庇護の下,いわゆる尊攘派の浪士と死闘を繰り広げ,倒れ掛かる幕府の屋台骨を支えた剣客集団,それが新選組である.自 らの命を賭して戦い続けた新選組の主要メンバーはその多くが幕末期に非業の死を遂げている.試みに,慶応元年六月の編成による主要幹部13名についてみると,

 局長     近藤 勇   慶応四年4月25日 板橋にて刑死
 参謀     
伊東甲子太郎 慶応三年11月18日 京都油小路にて暗殺
 副長     土方歳三  明治二年5月11日 函館にて戦死
 一番隊組長 沖田総司  慶応四年5月30日 江戸にて病死
 四番隊組長 松原忠司  慶応二年  切腹
 五番隊組長 武田観柳斎 慶応三年  暗殺(?)
 六番隊組長 
井上源三郎 慶応四年1月5日 淀千両松の戦いにて戦死
 七番隊組長 
谷三十郎  慶応二年  暗殺(?)
 八番隊組長 藤堂平助 慶応三年11月18日 京都油小路で戦死
 十番隊組長 原田左之助 慶応四年5月 上野戦争で負傷し後死亡?

 このように13人中10人までが幕末維新期に命を落としている.これ以外でも,創成期からの幹部で総長だった山南敬助が慶応元年2月に切腹しているし,初期の局長芹沢鴨は文久三年9月に暗殺されている.
 一方少数ながらも明治期を生き抜いた者もいた.九番組長の鈴木三樹三郎(伊東甲子太郎の実弟)は伊東と共に慶応三年に御陵衛士に加わり,油小路の戦いを生き延びる.その後は薩摩藩の庇護のもと,倒幕派として活動し明治を迎えている.慶応三年12月の伏見での近藤勇襲撃事件にも参加しているし,その後は相楽総三の赤報隊に加わっている.
 三番組長の斉藤一は流山で近藤勇が捕われた後,新選組の残存部隊を率いて転戦し,会津戦争に参加した.しかし榎本艦隊と合流する土方らとは別れて,戦後も会津に残り,会津藩士として生涯を送っている(斗南にも行っており,今の青森県五戸町に住んでいたらしい 斗南藩紀行). 維新後は警視庁に出仕し,西南戦争にも参加している(西南戦争では当初政府軍の主力は徴兵で集められた兵隊であり,鉄砲を撃つのは得意だったが,薩摩武士に切り込まれて肉弾戦になると,なすすべもなく崩れてしまった.このため,旧士族が集まっていた警察隊を戦地に送り,薩摩の切り込みに対抗したのである).
 そしてもう一人,維新後を生き延びた幹部隊士が新選組二番隊組長の永倉新八である.
   
   
   
   
   


2.新選組時代の永倉

 永倉新八は天保十年江戸詰めの松前藩士長倉勘治の次男として江戸の松前藩上屋敷で生まれた.名は栄治である.次男ではあったが,兄の秀松が新八3歳 のときに亡くなったため,実質長男として育てられたらしい.8歳のときに江戸の岡田道場に入門し,神道無念流を学んだ.18歳の頃に脱藩して,同流の百合道場に移り,ここで終生の友となる市川卯八郎(後の芳賀宜道)と出会った.

晩年の永倉新八
 
この時に実家に迷惑がかかることを恐れて,苗字を一字変えて永倉としたといわれている.その後心形刀流の坪内道場に師範代として招かれ,後に新選組で一緒になる島田魁と知り合ったらしい.
 脱藩後は武者修行と称して各地を歩いていたらしく,その途中で試衛館に出入りするようになったようだ.永倉の新選組顛末記によると,当時の試衛館は「武骨が過ぎて殺気みなぎるばかり」だったという.その気風が肌に合ったのか,いつしか食客として居つくようになった.文久3年の浪士組の一件を試衛館に持ち込んだのは永倉だと言われている.
 上洛し,新選組結成後は,副長助勤,二番隊組長,撃剣師範などの要職を歴任し,常に幹部隊士として組の中枢にあった(永倉は沖田総司,斉藤一と並ぶ新選組を代表する剣客として知られる).特に沖田総司が体調を崩してからは,彼の一番隊の指揮も担当している.元治元年の池田屋事件をはじめ,油小路の戦い,鳥羽伏見の戦いなど新選組の修羅場のほとんどに参加している.特に池田屋では近藤,沖田らとともに最初に乗り込んでいるし,鳥羽伏見では薩摩の洋式銃隊に対して切り込みを敢行し武功を挙げている.
 永倉は新選組結成時のメンバーでは試衛館派に属するが,初期の新選組の局長だった芹澤鴨と は同門(神道無念流)だったこともあり,近藤や土方らとは常に一線を画していたようである(文久3年9月の芹澤暗殺についても,彼は全く関知していなかっ たらしい).池田屋事件後,行動がやや尊大になってきた近藤に対して,原田左之助や島田魁らとともに,会津藩主松平容保宛に建白書を提出している.この時は容保のとりなしで大きな事件にはならなかったが,その後も微妙な影を落としたようである.ただ,永倉と近藤らは決して対立していたわけではない.後に伊東甲子太郎らが入隊し,独自の勢力を形成し始めると,永倉にも伊東から誘いがかかったが,
   
 
 
 
結局彼は新選組に留まっているからである.思うに永倉という人物 は,相手が誰であれ,間違っていると思うことははっきりと言うタイプの人間だったのだろう.彼自身は近藤・土方ら新選組の基本路線(勤皇・佐幕)には賛成 だったと思われる(伊東は勤皇・反幕である).
 しかし,時代の流れは新選組にとって逆風となり,鳥羽伏見の戦い,その後の甲陽鎮撫隊の敗戦の後,近藤らと袂を分かつことになった.

江戸の松前藩上屋敷付近(東京都台東区)
 


3.維新後の永倉

 新選組離脱後永倉は旧友の市川卯八郎(芳賀宜道)らとともに靖共隊を結成し北に向かって転戦,米沢に至って雲井龍雄と交流している.しかし,明治元年9月の会津藩降伏によって芳賀とともに江戸に戻った.
 江戸帰還後,しばらくは浅草の芳賀の家に潜伏していたが,明治二年1月に芳賀が義兄(妻の兄,藤野亦八郎)に殺されると,彼自身も身を隠しきれないと感じ,松前藩に帰参を願い出て許された.この時永倉があっさりと帰参を許されたのは,

米沢の思想家雲井龍雄
 
長倉家が藩内でそれなりの地位を占める家柄だったからとも言われている(浅田次郎氏の壬生義士伝で有名になった南部藩の下級武士だった吉村貫一郎が鳥羽伏見の戦い後,大阪の南部藩邸に帰参を申し出ながら,許されず切腹になったのと対照的である).
 新選組顛末記によると,ある日両国橋を歩いていた永倉は,偶然にも鈴木三樹三郎と再会した.以下は顛末記からの引用である.


 一日永倉はおりからの休みをさいわいに気保養がてら市中を散策している と、ふと両国橋の上で新選組で前年暗殺した伊東甲子太郎の実弟鈴木三樹三郎に出会った。永倉はしまったとは思ったがいまさらひきかえすこともできぬ。両人のあいだはしだいにちかよって鈴木の眼には異様の光がかがやいた。そして、
 「やァしばらくでござったナ、貴公はただいまいずこにおられるか」と鈴木が聞くので、永倉は、
 「拙者は松前藩に帰参いたしてござる」
 「それではいずれまたお目にかかる機会もござろう」とすれちがったので、永倉も会釈してわかれた。
 しかし鈴木は兄伊東の仇敵として永倉をそのまま見逃すはずがない。ただちにひきかえして斬りつくるのではあるまいかと永倉がふりかえると、鈴木もふりかえってじっと見ている。永倉はさてこそとかくごして袴の股立をとりしたくをして待っていたが鈴木はとてもかまわぬと思ったか、そのまま黙っていってしまう。それから数日たつとはたして鈴木の一味が永倉をつけまわし、門外一歩をふみだそうものなら、たちまち手をくだす気勢をしめした。

 途中の,「しまったと思った」というくだりからは,永倉といえども,戊辰戦争後の追われる身としての心の不安が感じられる.結局この事件とその後明治三年12月に盟友雲井龍雄が処刑されたことによって,江戸に留まることの危険を感じた永倉は,藩の勧めもあり地元松前の藩医である杉村松柏の養子に入ることになって江戸を去った(明治四年1月).この時から杉村治備(後に義衛)と名乗ることになった(ただし本稿では混乱を避けるため以後も永倉新八で統一する).
 松前に移ってからの永倉は当地で藩の軍役についたりしていたが,間もなく廃藩置県となり多くの藩士が松前を去っていった.永倉も家族とともに明治6年に小樽に転居している.
 当時の小樽はニシン漁で栄え,北海道随一の賑やかな街だったらしい.ここで養父の杉村松柏は本業である医業を始めた.しかしそれも永くは続かず, 翌明治七年8月に松柏はこの地で亡くなってしまう.永倉は藩医杉村家の養子とはいえ,医業の知識があったわけではないから家業を継ぐわけにはいかない.結局彼が選んだのは家族とともに東京に戻ることであった.
 
 
 
 



 

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