さて永倉を樺戸に招いた月形が明治18年に職を辞すと,永倉も翌明治19年に樺戸を去った.その後三度東京に戻り道場などを開いていたといわれるが,明治32年に小樽に引っ越し,以後死ぬまでその地にとどまった.
この晩年の小樽時代のエピソードとして,小樽の映画館から孫とともに出てきたところ地元のヤクザに絡まれたものの,彼が睨むと相手はその眼光で圧倒されて
退散した話や,老境の永倉が北海道帝大の撃剣部の学生に教えを請われ,引き受けて札幌に出向き,一通り型を披露したものの,激しく動きすぎて卒倒してしま
い帰りは馬車に乗せられて小樽に帰った話が伝えられている.
大正2年からは地元の小樽新聞に「永倉新八」のタイトルで新撰組時代の話を連載している.これをまとめたものが今日「新撰組顛末記」と呼ばれる書籍であり,新撰組研究の貴重な資料となっているものである.またこの小樽時代に近藤勇の娘といわれる山田音羽の訪問を受けている.
このように幕末維新期を生き抜いた永倉新八であったが,大正4年1月5日に小樽で亡くなった.伝えられるところによると口腔内感染からの敗血症だったとされる.彼の墓は先述した板橋のほか,小樽市の杉村家の墓所にも存在する.
永倉新八は幕末の最終段階で近藤・土方らと袂を分かったものの,後年は新撰組の復権に努力するなど,今日我々が新選組について知っている多くのことを教えてくれたのである.
関連史跡訪問 2007年9月15〜16日 |
永倉の菩提寺,量徳寺 |
永倉が晩年を過ごした地 |
永倉が近藤勇の娘と会ったとされる地 |
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