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 明治維新後の永倉新八の足跡(2)


4.新選組顕彰碑(東京都板橋)

 永倉新八の東京在住は明治8年から15年までである.この間各地で剣術の指南などをやって暮らしていたと いわれるが,なんといってもこの時代の特筆すべき業績は現JR板橋駅東口に建つ新選組顕彰碑の建立である.
 戊辰戦争期に朝敵の汚名を着せられた新選組であるが,時間の経過とともに名誉回復の動きが出てきた.特に近藤や土方の出身地である多摩地区が盛んで,新選組の支援者であった佐藤彦五郎や小島鹿之助らがその中心となった.その流れの中で永倉は医師の松本良順(明治後は松本順と改名)や多摩の近藤・土方の縁者,生き残った他の新撰組隊士らとともに奔走し,明治9年この地に顕彰碑を建立するに至ったのである.
 板橋に建立されたのはもちろん,ここが近藤勇刑死の地だからであろう.現在ここには顕彰碑のほかに永倉自身の墓がある.永倉の墓は小樽の杉村家の墓所にあるのだが,彼の遺言によってこの地にも分骨されているのだった.一方の顕彰碑には近藤,土方のほか戦死したり粛清された隊士の名前が刻まれている.
 

近藤勇・土方歳三の墓

永倉新八の墓

近藤勇の像
 

5.樺戸集治監(北海道月形町)

 その後明治15年になり,永倉は再び北海道に渡った.行先は開拓使庁の置かれた札幌からさらに石狩川の上流にある樺戸集治監である.樺戸集治監は監獄機能に加えて,囚人を使っての開墾や道路建設などの土木事業などを行わせるための施設である.背景として廃藩置県後頻発した旧士族 の反乱(佐賀の乱,萩の乱など)や高まる反政府運動などで政治犯が激増し治安が悪化していたことがある.前年明治14年に初代典獄(刑務所長のようなも の)の月形潔のもとで開設されていた.

月形樺戸博物館
 
 ただこの集治監には腕の立つ囚人も多く,万一暴動などが発生した場合に応援を呼ぶすべもない土地柄であり,看守に対する剣術指南の重要性が考えられていた.このため永倉に白羽の矢が立ったものらしい.当時この集治監のあった場所はまさに辺境であり,彼も家族は小樽に残しての単身赴任であった.ここで明治 19年まで剣術師範の職に就いていた.
 実は私の好きな大河ドラマ「獅子の時代」 にこの樺戸集治監が登場する.主人公で元会津藩士の平沼銑次(演じるは菅原文太)が大久保利通暗殺の罪を着せられ,ここに収監されるのである.ただドラマでは銑次が樺戸にやってきたのは明治14年で翌15年の春には脱獄しているので,残念ながら銑次と永倉の接点はないのであった.
 当時集治監だった建物は現在月形樺戸博物館になっており,当時の様子などが展示で理解できるようになっている.
 
 


6.晩年の永倉新八(北海道小樽市)

 さて永倉を樺戸に招いた月形が明治18年に職を辞すと,永倉も翌明治19年に樺戸を去った.その後三度東京に戻り道場などを開いていたといわれるが,明治32年に小樽に引っ越し,以後死ぬまでその地にとどまった.
 この晩年の小樽時代のエピソードとして,小樽の映画館から孫とともに出てきたところ地元のヤクザに絡まれたものの,彼が睨むと相手はその眼光で圧倒されて 退散した話や,老境の永倉が北海道帝大の撃剣部の学生に教えを請われ,引き受けて札幌に出向き,一通り型を披露したものの,激しく動きすぎて卒倒してしま い帰りは馬車に乗せられて小樽に帰った話が伝えられている.
 大正2年からは地元の小樽新聞に「永倉新八」のタイトルで新撰組時代の話を連載している.これをまとめたものが今日「新撰組顛末記」と呼ばれる書籍であり,新撰組研究の貴重な資料となっているものである.またこの小樽時代に近藤勇の娘といわれる山田音羽の訪問を受けている.
 このように幕末維新期を生き抜いた永倉新八であったが,大正4年1月5日に小樽で亡くなった.伝えられるところによると口腔内感染からの敗血症だったとされる.彼の墓は先述した板橋のほか,小樽市の杉村家の墓所にも存在する.
 永倉新八は幕末の最終段階で近藤・土方らと袂を分かったものの,後年は新撰組の復権に努力するなど,今日我々が新選組について知っている多くのことを教えてくれたのである.

関連史跡訪問 2007年9月15〜16日

永倉の菩提寺,量徳寺

永倉が晩年を過ごした地

永倉が近藤勇の娘と会ったとされる地
 

晩年の永倉が孫に稽古をつけていたとされる小樽の水天宮

永倉新八こと杉村義衛氏の墓


北海道大学近くにあった晩年の永倉のエピソード
 
     
     



 

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