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 渡辺崋山と高野長英

 幕末維新史の花である新選組が京都で活躍したのは1863年(文久3年)以降,幕末の最終段階のことである.いつからを幕末と呼ぶかについては,1853年(嘉永6年)のペリー来航(黒船来航)からという考え方が一般的である.しかしこのペリー来航も青天の霹靂のように起こった事件ではなく,少なくとも当時の知識人の間では,いずれ起こるだろうと予想された出来事であった.すなわちペリー来航以前のいわば,プレ幕末期とでもいうべき時期があったのである.
 江戸時代の日本は鎖国を行っていたとはいえ,隣国の李氏朝鮮やオランダとは通信・交易を行っていた.特にオランダからは,西欧諸国の目覚しい進歩に関する情報がもたらされていた.19世紀に入ってから日本近海にはアメリカ,イギリス,ロシアなどの船が出没するようになっていたが,これに対して幕府は1825年(文政3年)に異国船打払令を出して,日本に近づく外国船は全て砲撃して追い払う方針を採っていた.そんな中,1837年(天保8年)にアメリカの商船モリソン号が浦賀沖に現れた.モリソン号は日本人の漂流民を伴ってやってきたのだが,浦賀奉行所は異国船打払令に従ってモリソン号に砲撃を加え,漂流民も受け取らずに追い払ってしまった.これがモリソン号事件である.このような幕府の政策に批判の声を挙げたのが,当時西洋事情を研究していた蘭学者たちであった.

来るべき幕末の混乱に対して警鐘を鳴らした蘭学者(上 渡辺崋山,下 高野長英).歴史の教科書ではこの二人はセットで扱われる
 
 すなわち渡辺崋山は「慎機論」を,高野長英は「夢物語」を著して幕政を批判したのである.その趣旨は,”モリソン号は日本人の漂流民を伴って来たものであり,これを受け取ることもなく,砲撃して追い払うごときは,仁義に反するものである.このようなことをしては,いたずらに外国の不信を招き,侵略の口実を与えてしまうことになる.それゆえ,ひとまずは入港を許し,漂流民を受け取った後,国法に従って交易に関しては拒否すべきである”というものであった.
 現代の感覚では至極尤もな考えであるが,当時幕政批判は重罪であり,崋山や長英の論文も思いを同じくする仲間内で回し読みされただけであった.しかし,彼らの著作は意外に反響を呼び,特に「夢物語」は多くの人に読まれたようである.人の口に戸は建てられず,ついには幕府の知るところとなり,崋山や長英は逮捕されてしまった.これが世に言う「蛮社の獄」である(この時迫害の先頭に立ったのが,目付で後の江戸南町奉行の鳥居耀蔵であった.彼は遠山の金さんこと北町奉行の遠山景元のライバルでもある).この時の処罰が,田原藩家老であった崋山が国元蟄居であるのに,町医者だった長英は江戸で永牢(無期懲役)と身分によって異なっているのが興味深い.

 渡辺崋山は三河の国田原藩(渥美半島にある,現田原市)の家老である.田原藩は12000石という小さな藩であるが,崋山の優れた政治手腕もあり,有名な天保の大飢饉の際には藩内で1名の餓死者も出さなかったといわれている(食料の備蓄庫である”報民倉”を作っていた).そんな優れた政治家である一方,画家としても有名であった.
 一方の高野長英は陸奥の仙台藩の支藩水沢藩(現岩手県奥州市)の藩士の家に生まれた.藩医であった母方の叔父玄斎の養子となりそこで蘭学の手ほどきを受けた.17歳で江戸に登り,さらに長崎に行ってシーボルトに師事している.1828年(文政11年)のシーボルト事件の際はたまたま長崎を離れていたため難を逃れた.その後江戸に戻ってそこで崋山と知り合ったらしい.
 外国船が頻繁に日本近海に出没するようになると,紀州藩の遠藤勝助が主宰する尚歯会に崋山や長英らも加わり,会は蘭学研究のメッカになった(当初尚歯会は天保の大飢饉に対する食糧増産対策などを研究していたが,後には海防や外交など政治的な議論も多くなっていったという).ちなみに尚歯会という名称であるが,当時蘭学は禁止されていたわけではなかったものの,集団で洋学を研究することははばかられたため,歯を大事にする会という意味の尚歯会と名乗ったのである.ただ,鳥居耀蔵ら蘭学嫌いの役人はこの集団を蛮社と呼び,その活動を警戒していた.そんな時に前述のモリソン号事件が起こり,崋山らは幕府を批判,これが鳥居耀蔵に睨まれて1839年の蛮社の獄に至るのである.
 この時捕らえられた高野長英は江戸で永牢となったが,弘化元年(1844年)6月に牢の火事に乗じて脱獄した.その後諸国に潜伏しした後(幕末四賢侯に数えられる伊予宇和島藩主伊達宗城に招かれひそかに宇和島にも渡っている),江戸に戻ったところを幕吏に襲われ嘉永3年(1850年)10月に自害した.享年46歳であった.
 一方の崋山は国元蟄居となったが,家族の生活のために弟子の勧めで自作の絵を売るようになった.しかし,これが幕府の目に留まり,「罪人の分際で身をわきまえていない」との悪評が立ち,藩に迷惑がかかることを恐れ1841年(天保12年)10月11日に自刃して果てたのであった.享年49歳,この時「不忠不孝渡辺登」と大書された遺書が遺されていた.
 こうして崋山や長英は志半ばで無念の死をむかえたが,彼らの思想は生き残った仲間の江川太郎左衛門らを通して,佐久間象山や勝海舟らに受け継がれていったのである.そして実際に崋山の死から12年,長英の死からわずか3年後にペリーが来航,彼らが憂いたとおりに日本は激動の幕末に入っていくのである.

 
渡辺崋山と高野長英のふるさと

 崋山のふるさとである愛知県田原市にある田原市博物館には崋山に関する資料が展示されている.一方長英のふるさと岩手県奥州市には高野長英記念館の他,生家などの史跡が残されている.

 
1.奥州市内に残る長英関連の史跡

高野長英生誕地に残る碑

高野長英の旧宅(内部は非公開)

長英の霊が分霊されている市内の大安寺

市内の水沢公園にある長英の記念館
 
 高野長英記念館のホームページ

 
2.田原市内に残る崋山関連の史跡

博物館には崋山についての資料がたくさんあります

池ノ原公園内にある渡辺崋山の銅像

市内には崋山の功績を祭る崋山神社もあります

池ノ原公園は蛮社の獄後崋山が幽閉された場所です
 
 田原市博物館のホームページ  
 

 

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