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 武田観柳斎と武田耕雲斎

 幕末期には数多の人物が活躍しているが,同姓の全く別人というのも数多い.たとえば薩摩の西郷隆盛と会津の西郷頼母,幕臣の川路聖謨と薩摩の川路利良などである.しかしこれらの中で,武田観柳斎武田耕雲斎は姓のみならず名前の雰囲気も類似している点が特筆される.
 
 
 武田観柳斎(?〜1867)は出雲の国松江藩の支藩,母里(もり)藩の出身で,元の名前を福田要というらしい(中公文庫 新選組事典より).郷里では医学生だったという.福田は尊王論に惹かれていたが,松江藩主は親藩の松平氏だから,藩論はバリバリの佐幕派である.そんな環境に嫌気がさしたのか,脱藩して江戸に出た(不穏分子として藩に捕らえられ,脱獄して江戸に出たとも言われる).そこで甲州流軍学を学んだらしい.この時,武田信玄にあやかって武田観柳斎と名乗るようになった.その後の足取りは不明だが,文久3年の秋頃に新選組に入隊している.剣客揃いの新選組で,彼の軍学の知識は貴重な存在であった.隊内では副長助勤,文学師範から後には五番組長などを歴任した.上に対してはおべっかを使う一方で,下に対しては過度に厳しく当たる面があり,一般隊士には人気がなかったようだが,局長近藤勇の信用も厚く,元治元年の江戸行き,慶応元年の長州行きの際には軍師格として近藤に同行している.

武田観柳斎の故郷松江

武田観柳斎に扮する管理人(2007年ひの新選組まつりにて)
 
 しかし幕府の軍制がフランス式に改められると,観柳斎の軍学は時代遅れのものとなり,徐々に隊内での地位も不安定になっていった.そこで彼は新選組から分離した伊東甲子太郎一派(御陵衛士)に接近したが断られている(伊東が新選組から分離する際に,以後新選組と御陵衛士間の隊士の移動は認めないという取り決めがあったためといわれているが,伊東自身に観柳斎に対する不信があったのかもしれない).
 行き場を失った観柳斎は薩摩藩に接近する.当時の薩摩藩は表向き公武合体派を標榜していたが,既に慶応2年1月に薩長同盟を結ぶなど,倒幕の動きを見せており,新選組からも敵方と認識されていた藩である.この薩摩藩との接触が露見し,慶応2年9月に斎藤一と篠原泰之進に斬られたと言われている.その一方,慶応2年後半に新選組を除隊し,その後独自に尊王攘夷活動を行ったために,慶応3年6月に新選組に殺されたという説もある.また子母澤寛の新選組物語によると,男色の気があったともいう.

 
 一方の武田耕雲斎(1803〜1865)は親藩水戸藩の家老である.歴史的インパクトではこの耕雲斎の方が上であろう.水戸黄門で有名な水戸藩は尊王思想の本家ともいうべきところで,幕末期の藩主徳川斉昭と水戸学者の藤田東湖は,全国の尊攘派志士に強い精神的影響を与えたことで有名だ.この幕末の水戸藩で徳川斉昭を支えたのが武田耕雲斎である.こちらは元の名前を跡部正生といい,跡目を継いだ際に,武田信玄の末裔を称して武田姓を名乗ったものらしい.

水戸藩の家老武田耕雲斎
 
 ペリー来航から安政年間にかけて,全国の尊攘活動をリードしていた水戸藩であるが,1855年(安政2年)の安政大地震で藤田東湖が圧死し,1860年(万延元年)に徳川斉昭が死ぬと,保守派と改革派の対立が激化して藩内は大混乱に陥る.この保守派と改革派の抗争はこの時期,どこの藩でも大なり小なり見られたことで,珍しいことではない.特に長州藩では,藩主がリーダーシップを発揮しなかったこともあり,両派の抗争で政権が保守派になったり,改革派になったりを繰り返していた.ただ長州藩の場合は抗争があっても,せいぜい敵方を追放する程度で,一族を根絶やしにするようなことはしていない.ところが幕末の水戸藩では政争で勝った側が反対派を一族郎党全て殺してしまうような,血で血を洗う激烈な抗争が繰り広げられたのだった(安政期には尊皇攘夷といえば水戸藩の専売特許みたいなもので,特に過激な水戸藩士が安政の大獄で井伊直弼に徹底的に弾圧され,その報復として桜田門外の変が起こったのである).
 
 こうして両派の報復合戦によって,水戸藩は有能な人材を失っていった.そして1864年(元治元年)3月に天狗党の乱が起こる.これは一向に攘夷を決行しない幕府に対して,藤田小四郎(藤田東湖の子)ら水戸藩の過激派が筑波山で挙兵したものである.武田耕雲斎は尊攘派ではあったが,過激派ではなく,この時藤田小四郎らの挙兵に対しては批判的であった.彼は過激派を説得すべく水戸に向かったが,逆に説得されて天狗党の首領に祭り上げられてしまった.この時耕雲斎61歳であった.
 尊皇攘夷の決行を掲げて挙兵した天狗党だったが,戦いは水戸藩内の保守派との内戦の様相を呈してくる(このころ水戸を押さえた保守派は,過激派の留守宅を襲い,過激派の妻子を殺したりしたらしい).幕府や周辺の諸藩の干渉もあり戦いは泥沼化する.そんな中状況を打破するため,天狗党の面々は,将軍後見職の一橋慶喜(徳川斉昭の子)を通じて朝廷に自分達の赤心を訴えてもらおうと,京都に行くことを決定,天狗党800人余りが進軍を開始した.元治元年秋のことである.幕府や諸藩の軍と戦いながらも彼らは12月11日に越前の新保(現福井県敦賀市)に到着した.しかし彼らはそこで,頼みの一橋慶喜自身が追討軍を率いてやってくることを知った.もはやこれまでと観念した天狗党は12月17日に加賀藩に対して降伏した.天狗党に対する加賀藩の処遇は寛大なもので,1月1日には酒なども振舞われたらしい.また幕府に対しても寛大な処分を要請した.しかし幕府は当初から厳罰で臨む方針であり,天狗党の身柄を福井,彦根,小浜の各藩に委ねた.その結果彼らは敦賀の鰊倉にぶち込まれ,ろくな取調べもされないまま,首領の武田耕雲斎,藤田小四郎以下なんと400人近い人々が首を刎ねられた.この処刑を担当したのが桜田門外の変で藩主を水戸浪士に殺された彦根藩であった.
 この天狗党の大量処分は,血なまぐさい事件の多い幕末でも,ひときわ凄惨な事件である.この乱で水戸藩の尊攘派は壊滅状態となり,これ以降の水戸は王政復古まで佐幕藩となるのである.
 
 

桜田門外の変之図 (水戸 回天館)
 
 

 

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