3月3日は桃の節句であり,現代では雛祭りとして知られている.実は幕末期の3月3日(勿論旧暦だが)には意外に大事件が多いのである.挙げてみよう.
安政元年(1854年)3月3日 日米和親条約締結
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前年嘉永6年6月に黒船4隻を引き連れて浦賀沖に現れたペリーは,アメリカ大統領からの国書を手渡すと,来年また来ると言い残してひとまず去った.いわゆる「泰平の眠りをさます上喜撰,たった四はいで夜もねられず」の狂歌である.そして約束どおり安政元年1月に再来航し,幕府に対して開国を迫った.老中阿部正弘は開国やむなしとして,3月3日に12か条からなる「日米和親条約」を締結した.この黒船来航は突然降って沸いた出来事のように思われるが,実はこの数年前からオランダ国王を通じてアメリカ艦隊の来航のウワサは幕閣に伝えられていたのである.
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黒船来航時の幕府老中首座だった阿部正弘 |
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しかし,間に入った長崎奉行が,内容を都合よく捻じ曲げた意見を付けて幕閣に上げたため,折角のオランダの好意も水の泡になってしまった(当時イギリスの世界進出が進む中,日本はオランダが交易を独占していた唯一の国であり,オランダとしては迫り来る危機を伝えようという気持ちがあったのである).結局,さすがの阿部正弘も黒船が本当に来るまで何の対策も取れなかったのである.
そして次なる桃の節句大事件はその6年後である.
万延元年(1860年)3月3日 桜田門外の変 |
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一応開国した幕府にとって,次なる問題は「通商問題」(日米和親条約では通商については取り決めがなされなかった.このため来日したアメリカ領事のハリスは幕府に対して通商を強く求めた)と「将軍継嗣問題」(第14代将軍を誰にするかと言う問題)であった.諸大名の思惑が交差する中,大老に就任した井伊直弼は,豪腕政治で両問題を一気に解決する.すなわち安政5年に「日米修好通商条約」を締結し,同年次期将軍は紀州藩主徳川慶福とする旨を発表したのである.当然井伊の独断専行に反対派は激しく反発する.これに対して井伊は「安政の大獄」によって徹底的な弾圧を加えたのだった. |
開国問題と将軍継嗣問題の2つの難問を,剛腕政治で一気に乗り切ろうとした井伊直弼 |
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特に水戸藩への弾圧は激しく,これに激高した水戸藩士が脱藩して,万延元年3月3日上巳の節句で登城する井伊を襲撃したのが,「桜田門外の変」である(このとき井伊は水戸浪士の襲撃計画を知っていたと言われている).
さらなる桃の節句事件は,幕府崩壊後に起こる.
慶応4年(1868年)3月3日 相楽総三処刑
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大政奉還後,王政復古のクーデターから鳥羽伏見の戦いを経て,薩長を中心とした軍は官軍として東征の途についた.この際相楽総三を隊長とする赤報隊が先鋒として先発した(赤報隊は3隊からなり,厳密に言えば相楽は1番隊の隊長である).赤報隊は藩兵によらない,浪士らによる部隊(いわゆる草莽隊)であり,相楽自身も草莽の志士であった.彼は民衆の支持を受けるため,「年貢半減」を布告するよう新政府に願い出た.新政府もこれを認め,相楽らは「年貢半減」布告しつつ東山道を進軍していった.しかし,当時財政が逼迫していた新政府には「年貢半減」を実行できる能力があるはずもなく,資金援助をしていた豪商の意向もあり,わずか10日で「年貢半減」は撤回となる. |
相楽総三ら,草莽の志士を使って江戸で幕府方を挑発し,戦争に引き込んだ西郷隆盛 |
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しかし,世間体を気にした政府は,「年貢半減」の布告は,相楽らが勝手に触れ回っていることで,新政府は一切関与していないという態度をとった.あまつさえ,相楽ら赤報隊1番隊を偽官軍であるとして,諸藩に討伐を命じたのだった.そんな陰謀を知らない相楽らは,官軍総督府の呼び出しに応じて出頭したところを捕らえられた.彼らは雨の中一昼夜の間,縛られた状態で屋外に放置され,何の取調べもされないまま,3月3日に処刑されたのである.これが明治維新の暗部といわれる「赤報隊ニセ官軍事件」である.
幕末維新の動乱期に相楽ら草莽の志士が果たした役割は大きい(清河八郎や雲井龍雄,佐幕派では近藤勇など新選組の面々も草莽の志士といえる).だが,彼らの多くは悲劇的な最期を迎えている.草莽の志士は時の権力者に利用され,偉業がなった後は邪魔者として排除されていく運命にあったのである(まさに中国の戦国時代に活躍した,越の軍師范蠡の有名な言葉「飛鳥尽きて良弓蔵され、狡兎死して走狗烹らる」であった).
このように幕末の3月3日は意外と大事件が起こっていたのである.
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