本州最北の県である青森県,そのほぼ中央に位置するのが黒石市である.市域としては県都青森と隣接しているが,両市の境には有名な八甲田の山々が広がっているため,両市間の直接の行き来は困難である.文化的には西にある弘前市との交流の方が圧倒的に多く,黒石は弘前を中心とした津軽藩の支藩だった歴史を持っている.具体的には命暦年間(17世紀半ば)に弘前藩4代藩主津軽信政が幼少だったため,幕府の指示により叔父の信英が後見を務めることになり,信英のために藩領から5000石が分地されて黒石領となったことに始まる.その後江戸時代後期の文化年間に加増されて1万石となり,正式に支藩となり幕末に至っている.
そんな黒石は弘前同様戦災を受けなかったこともあって,町の中心部に城下町時代の町並みや風情が現在でも色濃く残っている.それら遺構の中でもとりわけ有名なのが,市街中心部の中町地区にある「こみせ」と呼ばれる町並みである.
この町並みの特徴は町屋や商家,旅籠などの軒の外側の道路に一間おきに木の柱を並べ,その上に天井が板張りのひさし状の屋根を連ねた独特の通路にある.これは夏の日差しや冬の豪雪から歩行者を守り,安全に買い物等ができるようにと造られたもので,いわば木造のアーケード街,江戸時代のショッピング街という趣だ.この「こみせ」の建設は黒石領の始まりと共に開始され,元禄年間(17世紀末)には完成していたという.ちなみに同様の構造物は他地域にもあったようで,秋田や新潟など日本海沿岸地域では「雁木」と,山形県米沢地方では「こまや」と呼ばれていたようである.いずれにせよ雪が多い地方独特のものであった点が興味深い.
全盛期には総延長4800メートルもの規模に達していた黒石のこみせだが,江戸時代を通じての火災による消失,明治以降鉄道の発達(黒石線や弘南鉄道)による交通の変化から徐々にかつての賑わいを失い,現在中町地区は黒石市の中心商業地域ではなくなってしまった.しかし当時のこみせ通りの多くを残したその佇まいは,日本の道100選のほか国の重要伝統的構造物群保存地区に指定されている.
(散策日 2015年10月21日)
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案内図 |
中村亀吉酒造店 |
こみせ駅から重文の高橋家住宅を望む |
付近には黒石ゆかりの四大作曲家(明本京静,山田栄一,上原げんと,上原賢六))歌碑顕彰碑もあります |
顕彰碑はかぐじ広場の入り口にあります |
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