九州の最南部に位置する鹿児島県,その県庁所在地の鹿児島市の中心部にあるのが鹿児島城である(鶴丸城の異名を持つ).
鹿児島の地は鎌倉時代から江戸時代に至るまで600年間,ほぼ一貫して島津氏の 支配する土地であった.群雄割拠の戦国時代や頻繁に国替えが行われた江戸時代を通して存続し続けたことは,鹿児島の地が幕府が置かれた鎌倉・京都・江戸から遠く離れており,これら中央政権の干渉を受けにくかったという地理的な要因が大きかったのはたしかであろう.しかしなんといっても島津氏自身の実力がそれを許さなかったという点も重要だったと思われる.
そんな島津氏の鹿児島支配の拠点となったのが鹿児島城である.この地に城が築かれたのは慶長6年(1601年),関が原の戦いの翌年のことだ.この鹿児島城自体はいたって小規模で,曲輪も本丸と二の丸しかなく,天守も存在しない,堀も本丸部分にしかないなど,とても薩摩藩77万石という大藩の城とは思えない規模である.
しかし築城時期が関ヶ原の直後ということで,西軍に付きながらも所領を安堵されていた島津氏としては徳川家康を刺激したくないという思惑があったのはたしかと思われる.ただ本城自体は小さくても,背後には城山という一種の山城が控えていること(明治10年の西南戦争で西郷軍が最後に篭った場所である),領内各地に中世式の山城を多く残した外城制を採用して藩全体の防御を図っていたことなどから,鹿児島城自体の小ささは問題なかったと考えられている.
明治維新後廃城となり,その跡地は第七高等学校造士館,第二次大戦後は鹿児島大学のキャンパスとなっ |
鹿児島城(鶴丸城)跡 |
鹿児島城の堀 |
御楼門跡 |
鹿児島城古写真 |
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