ビザンチン皇帝の部屋 本文へジャンプ

ホーム

海外旅行記録

国内旅行記録

非日常の世界

日常の世界

幕末・新選組の
小部屋

 ”100”の小部屋

学問の小部屋

ビザンチン帝国
とは

アクセスカウンター
 SINCE 2011年9月25日
       

 日本100名城スタンプラリー


 96.飫肥城


 日本100名城,今回ののテーマである飫肥城は宮崎県の日南市にある.この地に城が築かれたのは室町時代にさかのぼるといわれる.
 室町時代末期の長禄2年(1458年)にまずは南の島津氏がこの地に勢力をのばしていたが,15世紀末になると日向の国で力をつけていた伊東氏(鎌倉時代初期の曽我兄弟の仇討でしられる工藤祐経の子孫)が台頭,以来80年以上にわたって島津・伊東両氏の攻防の地となった.この両者の争いは結局,永禄12年(1569年)に伊東義祐が島津勢をこの地から追い払うことに成功して決着,飫肥城も伊東氏のものとなった.
 しかし伊東氏の勝利も長くは続かず,元亀3年(1572年)の木崎原の合戦では逆に島津氏に大敗を喫してしまう.その後は急速に勢力を失い天正5年(1577年)にはこの地を追われて豊後の大友宗麟のもとに亡命を余儀なくされた.
 こうして飫肥城は再び島津氏のものとなったが,その後天正15年(1587年)の豊臣秀吉の九州征伐を受けて島津氏は後退,飫肥城はこの戦いで秀吉配下となっていた伊東義祐の子祐兵に与えられることになった.その後の関ヶ原の戦いで伊東氏は東軍方に付いたため戦後も所領を安堵され,以来幕末に至るまでこの地を治めることになったのである(江戸時代には飫肥藩の藩庁が置かれた).
 飫肥城は酒谷川沿いの丘陵地にいくつもの曲輪が並立され,それらの間には空堀が掘られるという,いわゆる群郭式と呼ばれる城郭だった.近世城郭としてはこれは珍しい形式である.当初本丸が置かれていた曲輪が17世紀の大地震によって破壊されたため,別の曲輪に移されたという.
 明治維新後は廃城となり城のすべての建物は失われ,当時の遺構は石垣のみである.本丸跡も今では小学校の校庭になってしまっている.しかしながら近年は大手門や御殿が再建 されるなど歴史公園としての整備がすすんでいる.また城跡の周辺には武家屋敷などの歴史ある街並みも残されている(またここは明治時代の著名な外交官小村寿太郎の生地であり彼を顕彰する記念館もある).
 (登城日 2009年9月20日)

飫肥城大手門

大手門側にある予章館(明治期の藩主の館)

城内の様子

松尾の丸にある復元御殿

貴重な遺構である石垣
 

旧本丸北門

旧本丸

本丸跡は小学校の校庭
 
 
飫肥城へのアクセス: JR飫肥駅から徒歩20分(レンタサイクルもあるようです).   

スタンプの設置場所 飫肥城歴史資料館にあります

登城のハード指数(★☆☆ ハードではありません) 楽に散策できます.


スタンプ
 


 

 トップページに戻る   日本100名城トップへ