現在の大分市の中心部に築かれていた城郭が府内城である.府内というのは現在で言う大分市中心部のことで,古来ここに豊後国の国府がおかれていたことに由来する.国府があったことからこの地域でも重要な土地だったことは明らかで,戦国時代には戦国大名の大友氏の領域であった.その後安土桃山時代になると,豊臣秀吉の家臣だった福原直高が入り,彼によってこの地に築城が開始された.しかし秀吉の死およびその後の関ヶ原の戦いによって大名の改易・転封があり,結局慶長6年(1601年)に入った竹中重利(秀吉の軍師として有名な竹中半兵衛の従兄弟)によって一応の完成に至ったとされている.
府内城は大分川と大野川によって形成された三角州(大分平野)上に築かれた城である.現在は内陸にあるように見えるが,築城時は河口の船着き場に面して建っていたといわれている(400年の間に海岸線がかなり後退したということになる).
構造は天守のある本丸を中心に,濠を挟んで主として西と南側に西の丸・東の丸がそれを取り囲み,さらに濠を挟んで三の丸や北丸や山里曲輪が配置されるという梯郭式平城の縄張りになっていた.一方で北東方面は帯曲輪を隔てて直接海と接していて天然の要害となっていたようである(現在の姿からは海と接していたことは想像できないが,この帯曲輪の遺跡が残っており,その面影をしのぶことはできる).
府内城は江戸時代を通じて府内藩の藩庁となっていた.藩主は当初の竹中氏(2代)から日根野氏(1代),松平氏(10代)と代わり明治維新を迎えている.明治後廃城となり多くの建物が失われたものの,一部の櫓などは破壊を免れて現存している.現在は大分城址公園として |
大分府内城大手門(再建) |
現存の人質櫓 |
こちらも現存の宗門櫓 |
天守台 |
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整備され,現存する宗門櫓・人質櫓(人質を収容していたことからその名がある)に加えて,いくつかの櫓やさらには大手門などが復元されている.また,かつての西の丸には大分文化会館が置かれており,私が訪問した時には歌謡ショーが行われていた(この文化会館は老朽化もあって2013年10月に閉館となった).
(登城日 2011年1月23日) |
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天守台から見た人質櫓 |
西ノ丸と山里の間の廊下橋 |
再建された隅櫓 |
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慶長時代の石垣 |
戦国時代の領主大友宗麟 |
当時は海だった帯曲輪跡 |
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