人吉城は熊本県南部,九州山地・球磨山地等に囲まれた人吉盆地を流れる球磨川沿いにある.この城の歴史は古く鎌倉時代にさかのぼることができる.幕府の御家人の相良長頼が源頼朝の命で平家の残党を討ってこの地に入ったのが始まりといわれている.以来鎌倉・室町時代を通じてこの地は相良氏の支配するところとなった.
戦国時代になって相良氏は球磨地方を統一し戦国大名化するが,天正15年(1587年)豊臣秀吉の九州征伐を受けて彼に臣従,以後球磨郡2万2千国の大名となって豊臣政権,さらには江戸時代を生き延びることになる(関ヶ原の戦いの時相良氏は西軍に属していたが,戦の最中に寝返ったため戦後改易を免れ,所領を安堵された).
相良氏の血統は江戸時代の中期,宝暦九年(1759年)相良頼央が世継ぎを残さぬまま死去したため断絶してしまう.しかし家臣の努力で他家から末期養子を迎えることに成功し,家名は幕末まで続くことにった(これは比較的規制のゆるくなった18世紀だからできた芸当であり,江戸時代初期ならば確実に改易されたケースである).
人吉城は鎌倉時代から明治維新にいたるまで続いた城であり,当然同じ姿のままであったわけではない.特に戦国時代から江戸時代初期にかけて改修が行われ,近世城郭へと生まれ変わった.北は球磨川,西は胸川を天然の堀とし,南と東は屋山の断崖に堀をめぐらした城郭であった.山頂に本丸,その北側に二の丸,その北の球磨川沿いを三の丸とした梯郭式平山城で,本丸には天守はなかったといわれている.城の改修はその後も行われ,堀合門付近にある幕末期の石垣には武者返しといわれる西洋の築城技術の影響を受けたものも存在します(熊本城にある武者返しとは別物).
明治維新後,西南戦争においてこの城は西郷軍の拠点となったため官軍の攻撃を受け石垣を除いてほとんどの建物が破壊されてしまった.現在は人吉城公園として整備され門や櫓などの復元も行われている.
(登城日 2009年9月19日) |
球磨川沿いに広がる人吉城跡 |
復元された堀合門 |
武者返しと呼ばれる独特の石垣 |
城下にあった後口馬場の井戸 |
御下門跡.ここから二の丸,本丸へと登っていく |
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