島原城は長崎県の島原半島,有明海に面した雲仙岳の麓に位置する城郭である.江戸時代初期島原の地を領有していたのはキリシタン大名として有名な有馬晴信で,当時の本拠はより南にある日野江城であった.しかし晴信の子直純の代になって有馬家は延岡藩に転封となり,代わって入ったのが松倉重政である.そして彼の時代に島原城が築かれたのだった.
島原城は本丸と二ノ丸が一本の橋で結ばれ,それらの周囲は全て濠が張り巡らされている比較的単純な構造となっていた.しかし,実際には本丸自体がさらに
細かく細分化されており,容易には中心部にたどり着けないようになっていた.その中心部には四層あるいは五層といわれる天守が築かれ,そのほかに三重櫓が三基も存在するという壮麗な城郭だったらしい.ただ島原藩自身は4万石と決して大藩とはいえず,その点でこの城はかなり身分不相応な大きさといえた.そのため築城にあたっての領民の負担は大きく,これが後の島原の乱の遠因になったともいわれている.
日本全国にはたくさんの近世城郭が存在するが,これらの多くは豊臣政権末期から江戸時代の初めに築かれたため,実際に戦火に晒された経験を持つ城は決して多くはない.そんな中この島原城は江戸時代初期に大きな戦乱に巻き込まれている.
島原城を築いた松倉重政とその子勝家は領内のキリスト教徒(キリシタン)を弾圧する一方で,民に重税を課していた.この地は火山性の土壌で元々土地が痩せていたにも関わらず,独自の検地によって実際より多くの石高を計上していたからである.加えて,干ばつなどの天災も加わり領民の窮乏は深刻化していた.農民を束ねる庄屋らは年貢の軽減を訴えたが,松倉親子はこれを聞かず,払えない者を厳しい拷問にかけるなど,さらなる非道を行った.
元々島原の地には旧有馬家の家臣が土着して農家の指導者になっているなど,組織化されやすい風土があった.そこに松倉家の圧政があったため不満を抱いた農民たちは容易に組織化されていく.こうして寛永14年(1637年)10月25日に起こったのが島原の乱である.乱は瞬く間に広がって,一揆軍は島原城を包囲, |
島原城天守(再建) |
西櫓(再建) |
巽櫓(再建) |
丑寅櫓と石垣,濠 |
本丸の石垣 |
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