長崎県は戦国時代以来日本と西洋諸国を結ぶ玄関口の役割を果たしてきた.なかでも長崎県の西端に位置する平戸は戦国時代末期の1550年(天文十九年)にポルトガル船の来航を皮切りにスペイン,オランダ,イギリスの貿易船が次々に来航して,当時の日本における国際貿易港としての賑わいを見せた.日本に初めてキ
リスト教を伝えたフランシスコ・ザビエルもこの地を訪れている.
そんな港町だった平戸はまた,水軍で知られる松浦氏の本拠地でもあった.戦国時代から安土桃山時代に入ると,この地も豊臣秀吉による全国統一の中に組み込まれていく.松浦氏の一派,下松浦党の松浦鎮信は秀吉の九州遠征に参加したことから当地の所領を安堵された.そして秀吉没直後の1599年(慶長四年)に初めてこの地に城郭を築いた.これが最初の平戸城である.松浦氏のような水軍が城郭に定住するようになったということは,時代が戦国から太平の世に移ったことを示す重要な出来事といえるだろう.城は平戸島の北部,九州本土に面した岬の丘陵に築かれていた.
しかし,この最初の平戸城は慶長十八年(1613年)に松浦鎮信自身の手で破却されてしまう.時は大坂の陣の直前,松浦氏が豊臣家と親交が深かったために家康から疑いをかけられ,それを払拭するための政治的配慮といわれているが,実際のところは不明でである.
ともかく,松浦氏は大坂の陣後も所領を安堵され,以後幕末に至るまで松浦氏の平戸藩が存続していくことになった.ただ城はすでに破却されているため,平戸港をはさんで反対側の高台に御館が建てられ藩庁が置かれることになった.その後18世紀の初頭,元禄年間に至り,幕府の許可が下りたため元の場所に城郭が再建された.これが今に残る平戸城である.平戸島の東岸の海に突き出た丘陵地に本丸が,その南側に二ノ丸,東側に三ノ丸が置かれたいわゆる梯郭式の城となっている.築城に当たっては軍学者山鹿素行の思想が強く反映されたものになったといわれている.天守は置かれず,二ノ丸にあった乾櫓が代用とされた.
明治維新後は全国各地の他の城郭と同様廃城となり,現存する狸櫓と北虎口門を除く全ての建築物は破却されてしまった.
昭和30年代から公園としての整備が行われ,各種櫓のほか本来はなかったはずの天守も造られている(模擬天守).
(登城日 2010年5月22日) |
北虎口門(現存) |
狸櫓(多聞櫓 現存) |
模擬天守 |
平戸城の石垣 |
地蔵坂櫓(再建) |
北虎口門の門扉 |
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