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 日本100名城スタンプラリー


 87.名護屋城


 時々出張で愛知県名古屋市に行くのだが,尾張名古屋は城で持つといわれるほど,名古屋城は有名である.日本100名城スタンプラリーにももちろん入っている(44番).
 しかし,日本100名城にはもうひとつの”なごや”城がある.それが今回のテーマである佐賀県の名護屋城だ.愛知県の名古屋城が江戸幕府の御三家筆頭,尾張徳川家の居城として造られたのに対して,佐賀県の名護屋城は豊臣秀吉晩年の大きな政策だった朝鮮出兵の出撃拠点および総司令部として築かれたものである.
 織田信長死後,後継争いに勝利した秀吉は,全国の大名を次々に従え天下統一に成功する(一般には天正18年(1590年)の小田原城攻略をもって完成と されている).秀吉は天下統一を目前にした頃から将来の海外進出を考えていたらしい.そして小田原攻めの翌天正19年(1591年)に大陸侵攻を決意,同年秋にそのための拠点として建設が始まったのが名護屋城というわけである.場所は九州から壱岐・対馬に向かって玄界灘に突き出した東松浦半島の先端部,波戸岬であった.そこの標高90メートルほどの丘陵を中心に,総面積実に17万平方メートルもの広大な城郭であった.その規模は当時大坂城に次ぐといわれるほどだったそうだ.工事に当たったのは主として西国の大名で,加藤清正も普請奉行を務めている.
 工事は急ピッチで進められ,なんと翌天正20年(文禄元年 1592年)の春には完成したといわれる.五層七階の天守閣を持つ本丸が中央に置かれ,その西に二の丸,東にに三の丸があり,周辺には遊撃丸,水手曲輪などが配置されていた(大手口は城の東側で東出丸,三ノ丸から本丸を迂回して二ノ丸,遊撃丸と時計回りに渦を巻くように本丸に向かう構造である.一方で二ノ丸から南の弾正丸を経て搦手に至る).壮麗な城郭ではあるが,速成工事で完成させられたため,石垣などは後の近世城郭に比べると荒さが目立ったともいわれている(実戦に即しているとも言えるが).
 この城郭で特記すべき点として,城郭の周辺に諸大名の陣屋が置かれていたことが挙げられる.名護屋城は大陸出兵の拠点であったため,それこそ全国各地の大名の軍勢がこの地に集結していた.その数実に20万と言われており,名護屋城の周辺には加藤清正福島正則黒田長政といった秀吉譜代の大名はもちろんのこと,徳川家康前田利家伊達政宗上杉景勝といった全国区のそうそうたる大名の陣屋が置かれていた(この状況をさして戦国の紅白歌合戦と評した方がいたが,言いえて妙だと思う 笑).陣屋というと,ただ屋敷があったようなイメージであるが実際には大大名の陣屋などはそれ自体が城郭と呼べる規模を持っていたようで,当時この地の賑わいがどれほどのものだったか(20万もの軍勢がいたわけなので,それを支える者や出入りの商人なども相当数いたはず),恐らくは大阪や京都を上回る活気だったのではと想像される.
 秀吉の大陸出兵(文禄の役・慶長の役)は大量の鉄砲など兵器や軍の練度に勝る日本軍の攻勢で始まるが,やがて李朝の抵抗や明の援軍によって戦線は膠着状態に陥る.そして慶長3年(1598年)秀吉の死によって全軍引き上げとなり,この時をもって名護屋城はその役割を終えることになった.
 その後江戸時代に入り島原の乱が起こると,幕府は一揆軍が廃城を利用することを恐れたため,この名護屋城

名護屋城の想像ジオラマ

名護屋城大手口

大手口の櫓台跡

東出丸の石垣

三ノ丸跡

石垣が所々崩れています

二ノ丸跡

本丸跡
 
も破却されるに至った(島原の乱で一揆軍は当時廃城になっていた原城に籠って戦ったため).現在,この地には当時の建物は残っておらず,石垣などの遺構があるのみだが,それでも当時の壮大な城郭のあとを偲ぶことは出来る.
 (登城日 2010年5月22日)
 

本丸の天守台跡

搦手口

山里口の石垣
 
 

名護屋城へのアクセス: JR唐津駅から400メートル離れた大手口バスセンターから昭和バス「波戸岬国民宿舎行き」で約40分名護屋城博物館入り口下車(時刻表 大体2時間に1本の運行)

 

スタンプの設置場所 佐賀県立名護屋城博物館の受付にあります

登城のハード指数(★☆☆ ハードではありません) 広いですがよく整備された公園です


スタンプ
 


 

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