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 日本100名城スタンプラリー


 86.大野城


 日本城郭協会の認定した100名城,その約3分の2を占めるのが近世城郭である.立派な石垣や壮麗な天守があるなど,普段私たちがイメージする日本のお城はこの近世城郭である.
 一方で残り3分の1に入っているのが,北海道や沖縄など当時日本の中央政府の支配が及んでいなかった地域の城や古代・中世の城郭ということになる.今回のテーマ,大野城は時代としては古代の城郭である.
 大野城の歴史は7世紀にさかのぼる.当時の東アジア情勢は大陸に隋の後をうけたが建国されて隆盛しつつあった.日本は大化の改新によって律令体制を整え始めており,国家形成が進められていく時代であった.一方朝鮮半島は高句麗百済新羅が並立する状況だったが,唐と結んだ新羅が勢力を拡大,660年には百済を滅ぼしてしまう.この時百済の遺臣の要請を受け,当時朝廷で権力を握っていた中大兄皇子の指示のもと遠征軍が編成され大陸に送られた.663年この日本・旧百済連合軍と唐・新羅連合軍の間で起こったのが白村江の戦いである.この戦いで日本側は敗れ,撤退を余儀なくされてしまう.その後国内では,唐が余勢をかって逆に日本に攻め込んでくるのではという観測が流れた.そのため,敵の上陸が想定される九州北部の要衝である太宰府をいかに守かが問題になり,防衛のための城がいくつか作られた.大野城もそうした城郭のひとつである(他には巨大な濠と土塁からなる水城が有名).
 大野城は太宰府の北,四王寺山(当時は大野山)という標高410メートルの山全体を要塞化した典型的な山城である.その立地からいって,海からの侵入に対し て太宰府を守る防衛拠点と位置付けられているのがわかる.山の尾根にそって土塁が築かれ,一方で土塁が途切れる谷部分には石垣が築かれ,山全体を覆うような構造になっていた.土塁や石垣の内部には建物が造られ,万一の場合にはここに籠城できるように,食料が備蓄されたほか,水源となる井戸も掘られている.尚,築城に当たっては亡命百済人が陣頭指揮に当たっていたようで,大陸の影響を強く受けたいわゆる朝鮮式山城となっている.見どころとしては城の北側宇美口にある長さ150メートルに及ぶ百間石垣や南側の大石垣などがある.

増長天地区に遺る倉庫の跡

太宰府口城門跡

太宰府口城門の礎石

土塁の様子

城の周辺では土塁にそって歩くこともできます.
 
 しかし,その後大陸では唐・新羅連合による高句麗攻撃が本格化したこと,唐国内ではいわゆる武韋の禍と呼ばれる政権内部での混乱が発生したことなどから,結局大陸からの侵攻が現実のものとなることはなかった.大野城も実戦の舞台になることはないまま歴史の中に消えていったのである.
 現在この地は国の特別史跡に指定され,山頂付近は県民の森となっている.今から1400年前の城郭であり,当時の建物などは一切残っていないが,石垣や城門の跡などから当時の雰囲気をしのぶことができる.
 (登城日 2010年11月27日)
 

百關ホ垣

南側の大石垣

当時の面影を残す鏡池(井戸)
 

百關ホ垣の全景
 
 
大野城へのアクセス: 西鉄太宰府駅から徒歩40分ほどで太宰府口城門に着きます.地理不案内なら同駅からタクシーで県民の森管理事務所へ,そこで地図等をもらう手もあります.   

スタンプの設置場所 山頂付近の県民の森管理事務所にあります.麓の太宰府展示館にもあるようです

登城のハード指数(★★☆ ややハードです) とにかく広いので歩く距離が膨大となります.ただ歩道は整備されているので,それほどの疲労感はありません


スタンプ
 


 

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