愛媛県に5か所ある100名城のうち,今回のテーマである大洲城は県中部に位置している.ここは松山からの大洲街道と宇和島からの宇和島街道が出会う交通の要衝で,江戸時代には大洲藩が置かれていた.
そんな大洲に初めて城郭を築いたのは鎌倉時代末期の伊予国守護,宇都宮豊房と言われている.その後宇都宮氏が200年以上にわたってこの地を支配していたが,戦国時代末期に土佐の長宗我部氏と結んだ家臣の大野直之に乗っ取られてしまう.しかし大野氏の天下も長くは続かず,天正十13年(1585年)四国平定に乗り出した豊臣秀吉の先鋒小早川隆景に攻められ落城となってしまった.
豊臣政権下の大洲は小早川隆景から戸田勝隆,藤堂高虎と城主が目まぐるしく交代したが,特に築城の名手といわれた藤堂高虎の時代に天守や櫓等の建造物が造られたといわれている.関ヶ原の戦いを経て,高虎が伊勢に移封されると大洲藩が立藩され,脇坂安治,次いで加藤貞泰が城主となり,以後幕末まで加藤氏の支配が続くのである.
大洲城は肱川の畔にある地蔵ヶ岳と呼ばれる丘陵地に本丸が,その南側の麓に二ノ丸,そして堀(内堀)をはさんでさらに南側・西側に三ノ丸が置かれる縄張りだった.本丸の北側と東側は肱川に面した断崖と天然の要害になっていた.
明治維新後は廃城となり,天守を含めた多くの建物が解体されたが,一部の櫓が保存され,さらには平成16年(2004年)に明治初期の写真等から天守が木造で再建され,現在は城郭一帯が県の史跡に指定されている.
規模としては決して大きいとはいえないものの,特に現存の二つの櫓(台所櫓・高欄櫓)の間に再建された天守が立つ光景は,再建の違和感が全く無く,城郭の保存整備はこうすべきというお手本のように感じられる.一方で二ノ丸跡には苧綿櫓が,三ノ丸跡である市街地には南隅櫓が現存しており,いずれも国の重要文化財に指定されている.
(登城日 2009年1月12日) |
肱川の対岸から見た大洲城 |
本丸に建つ天守(再建) |
天守を挟んで左が高欄櫓,右が台所櫓(櫓はいずれも重文) |
手前の現存部分と向こうの再建部分の違いがよくわかる |
本丸の石垣 |
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