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 日本100名城スタンプラリー


 76.徳島城


 阿波の国の城下町徳島は,四国三郎の名で知られる吉野川の河口の三角州に広がる街である.この地に城が築かれたのは安土桃山時代のことで,豊臣秀吉と縁の深い蜂須賀小六の息子蜂須賀家政による.
 1600年の関ヶ原の戦いに際しての家政の苦悩はよく知られている.家政は心情的には東軍派だったものの,父小六が秀吉とは古くからの付き合いだったこともあり,表だって東軍支持を表明できなかったからだ.このため,自分の所領を秀頼に返上して,自らは引退して中立を保つ一方,息子至鎮の妻が家康の養女であることを理由に彼を東軍に送り込む形で,結果的に所領を守ることに成功したのである.その後徳島城は江戸時代を通じて蜂須賀家の支配する徳島藩の居城となった.
 徳島城は城山と呼ばれる標高60メートルの小山を中心に築かれた平山城である.城の北には助任川が,南には寺島川が流れており,これらを天然の堀としていた.城山部分に本丸,二の丸, 三の丸が置かれ(城山自体が東西に細長い形状だったため二ノ丸は東西に分離されていた),一方で平地部分,城山の南に御殿が,城山の西に西の丸と呼ばれる部分があった.
 この城の特徴としてあげられるのが,天守が本丸ではなく東二ノ丸に建っていたという点である.なぜそうなっていたのかは諸説があるようだ(防御上の理由や,景観など).
 明治維新後廃城となり鷲之門を除く建造物はことごとく破壊され,鷲の門も第二次大戦末期の空襲で焼失してしまった.現在徳島城址は徳島中央公園として整備され,市民の憩いの場となっている.前述のように当時の建物はすべて失われてしまったが,戦災で失われた鷲の門が再建され,当時の面影を忍ばせている.
 (登城日 2009年1月9日)

下乗橋

再建された鷲の門

城の東側の堀

御殿跡にある庭園
 

天守跡(天守台はなく,東二の丸に直接建っていた)

石垣です(野面積です)


こちらは西二ノ丸

 
 
徳島城へのアクセス: JR徳島駅から徒歩10分程度(距離的には駅のすぐ北ですが,徳島駅の出口が南側にしかないため,迂回する必要がある).  

スタンプの設置場所 徳島場内にある博物館にあります

登城のハード指数(★★☆ ややハードです) 城山があるので,歩くとそれなりに疲れます.


スタンプ
 


 

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