長州藩毛利家は戦国時代には安芸の国人領主に過ぎなかったが,毛利元就一代で大きくその勢力を伸ばすことになった.弘治元年(1555年)には主家筋だった山口の大内氏を乗っ取った陶晴賢を討ち,さらに永禄9年(1566年)には山陰地方に大きな勢力を誇っていた尼子氏を滅ぼしてそれぞれの領土を編入することに成功する.その結果戦国時代末期には中国地方に8か国120万石を領有する大大名にまで成長した.
しかし元就の死後,信長→秀吉→家康と動く中央政界への対応を誤り,関が原の戦いでは当主の輝元が,名目上とはいえ西軍の総大将になっていたことから,戦後周防長
門の2か国36万石と,大幅に減封されてしまった.このとき以降毛利家の居城となったのが山陰の萩で,阿武川が松本川と橋本川に分かれて形成された三角州の上にできた
街である(当初は瀬戸内海寄りの交通の要衝への築城も考慮されたが幕府の反対で実現しなかったともいう).
萩城はこの三角州の北西端にそびえる指月山に築城された.山の麓に本丸・二ノ丸・三ノ丸が広がる他,指月山の山頂に詰ノ丸が築かれているのが特徴的である.こうした形態のため,この城郭は平山城に分類されているが,麓部分と山頂部分とのギャップが激しいために,山城・平城2つの城が同居している形であると考えている学者もいるようだ. |
萩城(指月城)跡 |
天守台 |
萩城の古写真 |
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江戸時代を通じて長州藩の本拠地だったが,幕末の文久3年(1863年)に現在の山口市に山口政事堂が造られ,藩庁がそこに移されたため,以来藩の中心としての萩の役目は終了した.
明治維新後の明治7年に廃城となり,全国の他の城郭の例にもれず天守や櫓などの構造物は破壊されてしまった.現在は古風な街並みが残る萩の町の一画にひっそりと公園として佇んでいる.
(登城日 2008年10月4日,2010年11月28日) |
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城の対岸には白砂の菊ヶ浜が広がる |
城内に立つ毛利輝元(長州藩祖)の像 |
再建された二ノ丸土塀(銃眼土塀) |
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山上の詰丸門跡 |
詰丸に残る石垣 |
旧厚狭毛利家萩屋敷長屋 |
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