山口県岩国市は瀬戸内の工業都市であり,また基地の街としても知られている.室町時代には大内氏,戦国時代には毛利氏の勢力圏となっていた.関ヶ原の戦いの結果,中国地方の大半を支配していた毛利氏は周防・長門2カ国に減封されしまう.この時岩国の地は毛利氏一族の吉川広家が治めることになった.ただ関ヶ原の戦いのいきさつから,毛利本家は吉川家を支藩とは認めなかったため,江戸時代を通じてこの地は長州藩の一部と扱われ岩国領と呼ばれた(関ヶ原本戦において吉川広家は形式上は西軍についていたが家康に内通しており,当日自らが動かない上に毛利本隊の動きも封じて結果東軍の勝利をアシストした.この功績が毛利家の改易を防いだわけであるが,一方で広家と毛利本軍が西軍として戦っていれば,小早川秀秋の寝返りを防げた可能性があり,毛利本家にすれば広家の行動が毛利の所領縮小の原因になったと考えたためである).
そんな岩国の地にある岩国城は関が原の戦いの後,築城が始まり慶長13年(1608年)に完成している.錦川の南,横山の山頂に天守が,山麓に政庁となる館が作られた.しかし元和元年(1615年)に幕府から出された一国一城令を根拠に岩国城はわずか8年で破却されてしまったのであった(長州藩は周防・長門の二カ国なので岩国城をあえて破却する必要はなかったとも言われ,前述の毛利本家と吉川家間のわだかまりが背景にあったともいわれる).
江戸時代から各種産業が盛んで,毛利の本領よりも豊かだったともいわれる岩国だったが,明治維新の廃藩置県後は山口県に編入され今日に至っている.かつての岩国城跡には現在天守閣が再建され,麓の錦帯橋とともに当地を代表する観光名所として多くの観光客を集めている.
岩国といえば錦川から眺めた錦帯橋と天守のイメージが強烈だが,錦帯橋ができたのは17世紀後半でこのときすでに岩国城は廃城となっていたため,当時はこのような光景は見られなかったはずである.また岩国城の天守自体も本来は今の場所よりも後方(錦帯橋の反対側)に位置していたことがわかっている(現在の場所に再建されたのは,純粋に景観を優先したためであろう).
(登城日 2006年10月7日,2008年10月5日) |
岩国を代表する景色,錦帯橋と岩国城天守 |
かつての政庁があった場所に立つ錦雲閣 |
家老香川家長屋門 |
本来の天守台 |
山上から見た錦帯橋 |
|
|