岡山県にある100名城は4か所,そのうち県庁所在地である岡山市にあるのが岡山城である.
この城を造ったのは戦国時代末期から安土桃山時代の大名である宇喜多秀家で あった.秀家は豊臣秀吉の養女豪姫(実両親は前田利家とまつ夫妻)を妻にしていたことから豊臣一門として厚遇され,備前・美作を中心に57万石を与えられていた.この時に居城として築いたのが岡山城ということになる.彼の父直家が居城としていた石山城を拡大,発展させる形で天正18年(1590年)から8年の歳月をか
けて造られた.
従来の石山城本丸部分を二ノ丸内郭に,同じく二ノ丸を西ノ丸とし,旧本丸の東側に新しい本丸を,堀を挟んで南西側に新しい二ノ丸が置かれた.本丸の一番北には黒壁の四重六階の天守が置かれ,その威容から烏城の異名で呼ばれることもある.ただこの城郭,本丸天守が縄張りの北東端に位置し,その方面の防備が手薄という弱点があった.そのため近隣を流れる旭川の流路を変更して天然の堀としている.
しかし,城の工事が一段落して間もない慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いが起こり,西軍の主力部隊だった秀家は戦後改易,遠島処分とされてしまう.代わって東軍で戦功のあった小早川秀秋がほぼ同じ領地に入った.しかし秀秋は入城後わずか1年半後に急死,跡継ぎのいなかった小早川家は断絶となってしまった.その後旧領のうち岡山城を含む備前の地には池田輝政の次男忠継が28万石で入った.そして彼の死後,弟の忠雄によって再び城と城下町の整備が行われ,今に至る岡山城の縄張りが完成した.
その後寛永9年(1632年)忠雄が没したが,跡を継いだ子の光仲は幼少だっただめ,山陽道の重要地点を守る任は重すぎると幕府に判断され,同じ池田氏で光仲の従兄弟にあたる鳥取藩主池田光政が岡山藩主となり,光仲自身は鳥取藩主に移るという藩主トレードが行われた.この事情はちょっと複雑で,池田輝政自身の本拠は姫路で,その功績から次男筋を岡山に出していたわけである(すなわち本家が姫路,分家が岡山).しかし元和2年(1616年)に光政が7歳で藩主になると,同じように幼少を理由に鳥取へ移封されてしまったのですある(しかも42万石から32万石への減封で).この結果,本家筋が鳥取に,分家筋が岡山という形になっていたのが,寛永9年のトレードで入れ替わったというわけである.
池田光政入封後はそのまま藩主の移動はなく幕末に至った.日本三名園にも数えられる後楽園が造られたのは光政の子綱政の時である.
明治以後廃城となり,多くの建物は解体され堀も埋め立てられたものの,天守・月見櫓・西之丸西手櫓・ |
岡山城天守(再建) |
廊下門(再建) |
宇喜多氏時代の石垣 |
月見櫓(重文) |
六十一雁木上門 |
旧天守礎石 |
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