とはいえ,この備中松山城,決して伊予松山城の後塵を拝するような存在ではない.ここもまた現存12天守の城だからだ(伊予の松山城も現存天守である).備中松山城は岡山県の高梁市にある標高430メートルの臥牛山の山頂に天守をいただく典型的な山城である.岩村城・高取城とならんで日本三大山城とも呼ばれている.
この地に城が築かれたのは意外に古く,鎌倉時代の仁治元年(1240年)にこの地の地頭だった秋葉重信が築いたのが最初といわれている.その後歴代の城主によって拡張が行われ,戦国時代の三村元親の頃には複数の山の頂にまたがる大城塞となっていたようだ.しかし当時この地は織田・毛利両軍のせめぎ合う土地であり,元親はその間で翻弄されて最終的に毛利氏によって滅ぼされてしまった.その後は毛利方の城として安土桃山時代は過ぎていく. |
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関ヶ原の戦い後毛利氏の勢力が大きく後退すると,当初この城は天領とされたが,大坂の陣の後の元和3年(1617年)に池田輝政の甥の池田長幸が6万5千石で入封し備中松山藩が立藩された.池田氏は2代藩主が無嗣改易となったため,その後寛永19年(1642年)に水谷勝隆が5万石で入封,その子水谷勝宗が城の整備を行い今に残る城郭が完成した.もっとも江戸時代になると山城は現実的には政務を行うには不便であるため,山麓に御根小屋と呼ばれる御殿も造られた.
しかし水谷氏もまた元禄6年(1693年)4代勝晴の死後無嗣改易となってしまった(江戸時代の初期には大名が臨終にあたって養子を立てる,いわゆる末期養子が禁じられていたため,こうした無嗣改易になった大名家は多い).ちなみにこの時,城明け渡しから城番を務めたのが後に元禄赤穂事件で有名になる大石内蔵助である.その後紆余曲折を経て,延享元年(1744年)に板倉勝澄が入りそのまま幕末に至った.
明治維新後廃城となり山麓の施設は破壊されたものの,天守など山上の建物は破壊を免れた.城郭保存の機運が高まった昭和に入ってから当時の国宝に指定されて修復が進み,戦後は文化財保護法に基づき天守などが重要文化財に指定され現在に至っている. |
大手門から石垣を見上げる |
厩曲輪 |
三の丸から見える石垣群 |
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今でも天守をはじめ櫓や土塀,石垣などが現存し 当時の姿をしのぶことが出来る.城郭は山城らしく,駐車場のある鞴峠から参道をひたすら登っていくことになる.しばらく進むと大手門跡に到着,ここから順に三の丸,二の丸,本丸と登っていく.本丸からはさらに大松山の城跡に行ける道があるのだが,私が訪問した時は残念ながら崩落で通行止めになっていた.
尚,この備中松山城は現存12天守のひとつという非常に有名なお城なのだが,構内に売店や食堂といった施設はない(駐車場の自販機のみ).なので昼食等は済ませてから来ないと大変なことになるので念のため(登城に必要なエネルギーが確保できない).
(登城日 2011年1月25日) |
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