江戸時代,徳川家康が作った幕藩体制は特にその大名統制に妙がある.その基本方針は
金のある者に権力を与えない,逆に権力を持つ者に金を与えない であった.
江戸幕府の政治中枢を担う老中など幕閣になれるのは,いわゆる三河以来といわれる譜代大名に限られていた.そして譜代大名は彦根藩の井伊家を除き石高は20万石未満がほとんどでる.反対に大きな領土を持つ外様大名は江戸から遠くに配置され,幕政には一切関与させなかった.一方,幕藩体制には譜代,外様のほかに徳川将軍家の一族である親藩大名家があったが,この親藩大名にも権力は与えられなかった.普通なら自らの権力基盤を堅固なものにするために一族を重用しそうな感じがするが,逆に一族内での権力争いを避ける目的だったのだろう(権威のある者にも権力を与えない.その辺の家康の慧眼ぶりはさすがである.中国で三国時代を統一した晋が一族を重用しすぎて八王の乱を引き起こして衰退していったのを知っていたのだろうか).
親藩大名には徳川の姓を許されたいわゆる御三家とそれ以外の松平家がある.注意が必要だが,松平=すべて親藩ではない.一口に松平と言っても血縁の近い遠いがあり,家康以後に分かれた一族は親藩とされるが(会津松平や越前松平等),家康の親の世代以前に分かれたものは同じ松平姓であっても譜代扱いになる(白河松平等).面白いのは藩主の血筋がどうかよりも,その家の家格で決まるという点である.たとえば江戸中期の寛政の改革で有名な松平定信は,血筋では八代将軍徳川吉宗の孫になるのだが,譜代の白河松平家に養子に入ったことから譜代大名となって,のちに老中に就任することになるのである.
前置きが長くなったが,今回のテーマである和歌山城は御三家のひとつ紀伊徳川家の居城である.御三家は将軍に継嗣がいないときに代わりに将軍を出す家柄であるが,徳川幕府260年の歴史の中で実は八代吉宗以降の将軍は最後の十五代慶喜を除きすべて紀伊徳川家の系譜となっている.
紀伊国の中心の和歌山は,紀伊半島を横断するように流れる紀ノ川が紀伊水道に注ぐ河口に開けた街だ.この地に城を築いたのは豊臣秀吉の弟秀長で,天正13年(1585年)のことである.実際に築城を担当したのは築城の名手といわれた藤堂高虎だった.
江戸時代になると紀州藩の藩庁となり,一時は浅野長政の子幸長が藩主になったものの,浅野家は広島に転封となり,代わって入ったのが徳川家康の十男の頼宣であった.彼は和歌山入りすると大規模な城の改修と城下町の整備を行い,結果大小天守を持つ壮麗な城郭を作り上げた.江戸時代を通じて何度か火災による焼失があったものの,江戸後期の弘化年間に天守を含めて再建されている(本来天守の再建は幕府に禁止されていたのだが,御三家の威光からか特別に許されたらしい).歴代の藩主の中で有名な人物をあげると後に八代将軍と |
和歌山城跡 |
堀と石垣 |
大手門(再建) |
野面積の石垣 |
岡口門(重文) |
追廻門 |
御橋廊下(再建) |
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