兵庫県にある城郭の中で最近とみに人気が高いのが,朝来市和田山町にある竹田城である.兵庫県は南は瀬戸内海,北は日本海と2つの海にまたがった県であり,そのため気候も地域によって異なる特徴を持っている.この竹田城のある朝来市は日本海側に近い気候で,地理的には中国山地の中という山深い土地になっている.
そんな山間地にどうして城が築かれたのかというと,この地は丹波・播磨と但馬を結ぶ交通の要衝にあったからである.実際に今でも竹田城の近くにはJR山陰本線と播但線の分岐駅である和田山駅が存在する.
竹田城は典型的な山城で,標高353.7メートルの虎臥山の山頂に天守台が置かれ,その周辺に放射状に南千畳,北千畳,花屋敷が配置されている.特に石垣の壮麗さで知られ,天守台から見た南千畳の光景は南米ペルーにあるインカ帝国の遺跡であるマチュピチュを髣髴させるため,日本のマチュピチュなどと呼んでいる人もいる(逆にマチュピチュがペルーの竹田城と呼ばれているのかは不明 笑).またこの地は霧が発生しやすいことでも知られ,特に秋から冬にかけての早朝には雲海に浮かぶ竹田城の姿を見る事ができ,その光景から天空の城という異名もある.
竹田城の歴史は室町時代に遡りる.室町幕府の有力な守護大名だった山名宗全が嘉吉年間(1441〜1443年)に築いたものといわれている.当時は今のような石垣ではなく土塁が主体の城であった(規模的にも砦のような感じ).後に応仁の乱が起こって宗全が西軍の中心人物になると,東軍の細川軍などからたびたび攻撃を受けるようになった.戦国期を通して竹田城の実際の城主となっていたのは山名氏の家臣だった太田垣氏で,宗全の時代の太田垣光景から6代130年にわたって城を守り続けた.しかし天正5年(1577年)と天正8年(1580年)の二度に渡って織田信長の軍勢(主将は羽柴秀吉の弟秀長)に攻められて太田垣氏とその主家の山名氏は没落することになったのであった.
信長時代の竹田城は当初羽柴秀長が城代だったが,その後桑山重晴ついで赤松広秀が城主となっている.この広秀の時代に今に残る竹田城の壮麗な石垣が築かれた.この城の石垣は安土城のそれと類似しており,実際に安土城の普請を担当した近江穴太衆(あのうしゅう)が受け持ったと言われている.それにしても建設重機などなかった時代,よくこんな山の上まで石材を運び上げたものだと感心する.
赤松広秀は関が原の戦いでは当初西軍についたものの,本戦で西軍が敗れたため東軍に寝返って鳥取城の攻撃に加わった.しかしながら慶長5年(1600年)10月28日に徳川家康の命により切腹,竹田城も廃城とされてしまう.その後城の建物は全て失われたが,山頂の不便な場所が幸いしたのか石垣等の遺構はほぼ当時のまま残され今に至っている. |
大手門 |
大手門から本丸に向かう |
本丸の石垣群 |
本丸(右端は天守台) |
天守台から南千畳を見る |
天守台から北千畳 |
北千畳から本丸を |
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