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 日本100名城スタンプラリー


 55.千早城


 大阪の城郭というとなんといっても大阪城が別格的に有名であるが,大阪府に存在する100名城にはもう一つこの千早城が存在する.
 千早城が歴史にその名をとどめているのは,なんといっても楠木正成の存在があるからといっても過言ではないだろう.千早城が築かれたのは元弘2年(1332年)のことであり,時期としては鎌倉時代の末期にあたる.楠木正成の一族は鎌倉幕府を支えた武士(いわゆる御家人衆)の系列には属さない土着の武士・豪族で,悪党と呼ばれた階級である(今でいう悪党という言葉とは若干意味が異なる).
 元弘元年(1331年),後醍醐天皇による倒幕運動が起こると正成はこれに呼応して挙兵する.こうしていわゆる元弘の変が起こったのだが,正成は緒戦で幕府軍に敗れ,居城だった上赤坂城・下赤 坂城は落城となってしまった.そこで彼は,その背後に連なる金剛山の山々に軍事施設を作って抵抗することになった.これが千早城というわけである.当然幕府軍はこの城を潰しにかかり大軍を送り込んだが,四方を断崖で囲まれたこの城の守りは固く,正成はわずか1000人足らずの城兵で万を超えると言われた幕府軍の攻撃を防ぎきったのである.幕府軍の主力がここにくぎ付けになっている間に,関東の有力な御家人だった足利尊氏(当時は高氏)や新田義貞が幕府に反旗を翻して手薄な鎌倉を攻撃,ついに鎌倉幕府は滅亡たのである.
 しかしながら後醍醐天皇の親政は武士階級の不満を招いたために長続きせず,南北朝時代に突入する.楠木氏(正成はすでに建武年間に足利氏との戦いで戦死)は南朝の有力な武士として戦い続けたものの,状況は次第に南朝方に不利となり正成の孫,楠木正勝の時代,明徳三年(1392年)ついに落城となった.
 現在,千早城跡は千早神社となっており,かつての四の丸に神社の広場が,三の丸に社務所が,二の丸に社殿が置かれている(社殿背後の山が本丸である).
 (登城日 2010年1月1日)

千早城登山口

楠木正成ゆかりの城

城に向かう急こう配の石段

四ノ丸跡広場

千早城の碑
 

二ノ丸跡に建つ神社

楠木正成の顕彰碑

本丸
 
 

千早城へのアクセス: 南海電鉄高野線河内長野駅から金剛山ロープウェイ行きバスで30分(時刻表),金剛登山口バス停下車後,徒歩40分で二ノ丸跡の社殿です.

 

スタンプの設置場所 登山口近くの食堂”まつまさ”にあります(金曜日が定休日なので注意 ホームページ

登城のハード指数(★★☆ ややハードです) 登山口からはひたすら石段を登っていきますが,こう配が急で結構きついです.三つ星に近い二つ星です.


スタンプ
 


 

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